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彼女は理想主義者だった。
「幸せに限度があっちゃダメだよ。どんな人でも、幸せを追い求めなくちゃね」
と雪見はいつも言う。
「そんなの、目の前にニンジンをぶら下げられた馬と同じじゃないか」
対して僕は、いつも雪に反論する。
「でも幸せになるのは、ずっと幸せを追い続けてる人だけだよ」
「幸せばかり追いかけてちゃ、人生は終わりのない闘争だよ」
小学校四年から数えて九年。僕と雪見の議論はずっと平行線をなぞりあうだけ。
決定的な答えも折衷案も出ないまま、ただクーラーから出る風のように、乾燥した議論を垂れ流す。
彼女はこの関係を「楽しい」と言った。僕はその真意も掴めないままに、逆行する言葉を返した。
「大体、ヒーローじゃないからって完璧を目指さないでいいって理由にはならないだろ」
「三澄は完璧主義者なの?」
「そんなわけない」
僕は欠陥を愛している。
たとえば錆び付いた廃線のレールや、翼の折れた雨樋の怪物のように。
何かを欠くことで完成する退廃の美は、ある種の安心を与えてくれる。それは諦めと言ってもいい。
「ただ、雪見の矛盾した理想がつまらないだけだ」
「矛盾してるかな、私」
「してるとも、君は半端に現実を見てるんだよ」
アスファルトを叩く運動部の足音が通りすぎて、放課後の教室に静寂が帰ってくる。
雪見の本質は理想主義だ。けれどその理想が及ぶのは、彼女の手の届く範囲だけ。
例えば死者の楽園は信じるクセに、対の地獄については考えようともしない。だから神の存在だって考えない。
現実的な理想主義。それが雪見蛍の矛盾だった。
「そんなこと言ったって、これが私なんだもん」
「じゃあもっと本を読んだ方がいい。君は想像力不足なんだ」
彼女が本嫌いであることは知っていた。
なんでも昔読んだ絵本が、トラウマになるほど恐ろしかったらしい。
雪見は「ぐぬぬ」と口を尖らせた後、一瞬呆けた顔をした。そしてにんまりと笑う。
「何か思い付いたな」
「えっ、なんでわかるの?」
「声音がうるさいんだよ。楽しそうだったり、不機嫌だったり」
「ふ、ふーん。キミは私を観察するのが趣味なんだねー」
普段は開ききらない気だるげな目が、不自然に開いて左右に泳ぐ。
僕は照れ隠しの言葉を受け流して、雪見の「思いつき」を待った。
「今の流れで話したら、子供騙しみたいになっちゃうじゃんかよ……」
ぶつくさと雪見が呟く。緊張を振り払うように咳払いを一つして、テーブルの上で細い指を組んだ。
始まりはシンプルな一言からだった。
「昨日、雪の中に桜を見つけたんだ」
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