50人が本棚に入れています
本棚に追加
「なんか、普通に楽しんじゃってるね」
葉桜を見上げながら、ポツリと蛍がこぼす。
僕は返す。
「いいことだよ。なんだって楽しめれば、見えるものも多少違ってくると思う」
「珍しいね、夏目がそんなポジティブなことを言うなんて」
「僕は元々ポジティブだよ」
現実を見ているからと言って、必ずしもそれがネガティブであるとは限らない。
現実主義は元来、理想を追わず現実に則した生き方を模索する考え方だ。目の前の現実で、どうすれば一番良いカードを引き当てられるか。
ようは現実の中から幸福を見つけ出そうとする、一つの希望だ。
「じゃあ、そのポジティブさんから見て今はどうかな。楽しんでる?」
「なんだよポジティブさんって」
まあ、楽しめてるよ。
素直に認めるのがなんだ癪だったから、言葉を濁す。
「素直じゃないなぁ夏目は。ホント猫みたい」
「僕は僕だよ」
「そりゃ私だってそうだ」
笑いながら、蛍が立ち上がる。
僕に向き直ったその瞬間、制服のスカートがヒラリと舞う。
その奥。一輪の桜の花が、彼女の背後で風に揺れた。
「どーしたの夏目。まさか、惚れちゃった?」
「まさか。今さらだよ」
見とれていたのは桜か、それとも蛍だったか。
言葉の意味に気付いた時には、彼女の頬は春色に染まっていた。
「……今さら?」
大きく見開かれたグレーの瞳が、僕だけを写している。
「ああ」
僕はもう否定しなかった。
今さらだ。僕はずっと、蛍に恋をしていた。
それに気付いたのは最近のことだったけれど、感情自体はずっと胸の底に根付いていたものだと思う。出会った時から、色褪せないままに。
僕らはしばらく、沈黙を食い殺すように桜を眺めた。
葉桜、雪、夏の蝉時雨。ちぐはぐになった季節のツギハギが、切り抜かれた静止画のように停滞している。
「それって、恋?」
ポツリと、蛍が言う。脈絡はない。
僕は「うん」と返す。お互いに、お互いの顔は見ないまま。
心の輪郭をなぞった言葉を、互いに手渡す。
「恋だよ、君に宛てて」
「うん、ありがと」
微笑む蛍が、隣に腰を降ろす。
雪の芝生についた手を、探るような指先が触れる。
言葉はいらなかった。そのまま輪郭をなぞるような手を互いに絡めて、ただそれだけを噛み締めていた。
最初のコメントを投稿しよう!