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階段を上がって、一番手前の部屋。
部屋を開けた瞬間はわからなかったのに、しばらくいると甘い香りに目がくらみそうになる。
「コーラでいいかな」
「うん」
「お茶もあるよ?」
「僕はコーラにするよ」
「じゃあ私も」
話は弾まなかった。
静謐な鍾乳洞の中を思わせるほど、部屋は澄んだ無音で。少し動いただけの衣擦れが、やけに大きく響く。
「聞いてなかったんだけどね」
コーラを一口飲んで、蛍が呟いた。
小さな声なのに、耳元で話しているみたいに大きく聞こえた。外の音を、雪が吸い込んでいるせいだ。
「夏目はこの雪をどう思ってるの?」
「仕組みとかの話?」
「違うよ。もっと感情的な話」
「ああ」
頷きながら、コーラに口をつける。
炭酸。すぐに弾けて消えてしまう、儚い泡。
雪。夏に降り、桜の散り際に溶けてしまう、儚い雪。
若さんの話によると、それは悲しいものだと言う。僕も同意だ。
けれど、それだけでは終われない魅力のようなものを、僕は確かに感じていた。
「当事者の二人はさておき、この雪はそう悪いものじゃないと思ってるよ、ずっと。君と色んなことを見てからは、一層」
雪がなければ。矛盾がなければ、きっと進展しなかった関係もある。
冬の雪がなければ、北国の森は広がれないように。美しさの裏に悲しみがあるように。
ただ一貫して単純なだけものなんて、そうはないのかもしれない。
「でも、もっと感情的なことを言うなら」
「うん」
蛍が頷く。
窓の外を見て、空が隠れた雲を眺める。
「星が見たいんだ」
「そう言えば、もう随分見てないね」
向かい合っていた蛍が、隣に移って空を見る。
同じところを眺めているはずなのに、どこか違う所を見ているような気がした。
「夜の、桜は」
「え?」
思い付き。
ふと見上げた空に流れ星を見付けた時のような声で、蛍がつぶやく。
「夜桜はどうなっているんだろうね。まだ一度も見てないでしょ?」
「ああ、それはそうだけど」
「夜も寒いのは変わらないから、雪は降ってる。でも桜はどうなんだろう」
変わらないと思うよ。
若さんの話を引用した否定は、口を出る前に呼吸を止めた。
立ち上がった蛍が、僕の手を握ったのだ。氷柱にかざした手が、微かに感じる柔らかな冷たさ。
息をのむ僕を、蛍が連れだって部屋を飛び出す。
「見に行こうよ」
僕は頷かなかった。でもそれが、彼女にとって否定にならないことは知っていた。
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