ツバメが丘あじさい通り。雨の日珈琲店

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ツバメが丘あじさい通り。雨の日珈琲店

「美味しいです」 「良かった」 柔和な笑みを浮かべる店主――チトセさんのポニーテールがさらりと揺れた。 しっとりとした雨音が極上のBGMのレトロな喫茶店だ。 ほろ苦い珈琲を味わいながら、馥郁たる香りに頬が緩む。 「この辺りって……少し変わった場所だって伺ったんですけど」 食器を拭いていたチトセさんがきょとんとした表情で手を止めた。 「いえ、なんでもないです」 初対面の相手に何を言ってるんだ。背中を丸めて珈琲カップに口を付ける。 「あそこの郵便ポスト。紫陽花の花弁を切手代わりにして送るんですよ。亡くなった方に届く手紙、と言えば確かに変わってるかもしれませんね」 晩夏の紫陽花。 雨滴を纏うガラス窓の向こうに、紫陽花が満開なのだ。 その中に佇む赤いレトロな郵便ポストを店主が見遣る。 「亡くなった人に……」 「本当ですよ?そろそろ郵便屋さんが回収にいらっしゃいます」 チトセさんはカウンターの下から白い便箋と封筒を、ペンと一緒に取り出した。 「良かったらどうぞ」 俺がこれを書くとしたら。 真っ先に浮かんだのは、折原真琴だ。 友達――。 「ありがとうございます」 ペンを手にしたとき、スマホが鳴った。 【瑞樹。もう一度やり直したい】 涼香からだった。 珈琲を飲み、ゆっくりと深呼吸する。 これまでのメッセージを纏めて削除し、改めてペンを手に取った。 真琴は喜んでくれるだろうか。 しとしとと降り続く雨に目を閉じると、テツさんの店が思い浮かんだ。 俺の人生はあとどれくらい残っているだろう。 明日か、十年後か。三十年後か。 そんなの誰にもわからない。 テツさんに時間を食べられていようと、そうでなかろうと、残された時間は誰にだってわからないのだ。 『自分が自分でいられるって、それだけで幸せだと思うんだ』 静謐な空間に心をゆだね、紙にゆっくりとペン先を乗せた。 雨音の向こうに、猫の甘い鳴き声を聞きながら。
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