めし屋、おつかれさん

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「そこにバターを乗せて。鰹節は、うん、それくらい。醤油を回しかけてね。あーん、良いじゃない」 カウンターから身を乗り出す曳女に言われるがまま醤油を回しかける。 着物から溢れんばかりの胸に一切視線を向けまいと手元に集中する俺に対し、真琴は好奇心にも似た視線で堂々と真横から堪能していた。 炊き立てご飯にバターがじわりと溶け、湯気に踊る鰹節に醤油が馴染んでいく。 形を崩していくバターに醤油の香り。 ほかほかご飯が美味しそうな匂いで俺の鼻孔をくすぐる。 腹が鳴ったのは聞こえただろうか。 ちらりと視線だけで曳女を見ようとして、 「エッチだぁ」 真琴に突っ込まれて、中学生男子並みに動揺を隠しきれず赤面したのは言うまでもない。 「黒焦げホッケで心配してたけど、美味しいじゃなあい。このお味噌汁、だしが完璧よ。いりこの臭みがぜんっぜん無いもの」 「ま、瑞樹は料理人だからな」 曳女がご飯で頬を膨らませ幸せを嚙みしめている姿にほっと一息吐いていた俺に、テツさんがそっけなく言いながら毛づくろいをした。 「凄い!格好いいな。美味しかったよ」 綺麗に骨だけになったホッケの尻尾を箸で摘まんで、へへっと無邪気に笑う。 「ただの見習いだよ」 「ほんと?卵焼きは、ぷるっぷるだったよ。あんなに美味しいご飯、初めて食べたよ」 真琴は、あぁお腹いっぱい、と冷めた湯呑をぐいと傾けると思いついたように立ち上がった。 「一緒に歌わない?」 麺棒を再び手に取り、俺に差し出す。 「いや……俺は」 少年みたいな純粋な笑顔を向けられたら断り辛い。 大失敗のホッケをあんなに美味しいと食べてくれた真琴は、相変わらずぼそぼそと喋る俺に嫌な顔ひとつ見せない。 顔を引きつらせながら麺棒を受け取った。 「瑞樹君はどんな曲が好き?」 「歌はあんまり知らなくて」 「そっかあ。じゃあ有名どころでいくか」 真琴はそう言うと、慣れた手つきでラジカセをがちゃがちゃと操作し始めた。 音割れしながら流れたイントロは、どこかで聴いたことのあるものだった。 桜と青空を思わせる爽やかなメロディに、明るい歌詞。 「――ね!」 「え?」 「生きてるって感じがするよね!」 すると突然、肩に手を回されたかと思うと、一瞬にして身体を引き寄せられた。 目の前には真琴のど派手なシャツと、シルバー製のギターのネックレス。 ムスクの香水が鼻孔を刺激する。 「自分が自分でいられるって、それだけで幸せだと思うんだ」 まるで俺が頷くとでも思っているかのように、無神経に笑みを浮かべる真琴に、俺の心は黒い靄が渦巻いた。 「どうしたの?」 麺棒をカウンターに置き、ポケットからスマホを取り出すと、昨夜届いたメッセージを開いた。 【瑞樹はつまんないんだよ。一緒にいたら老夫婦みたいで全然楽しくなかった】 スマホを仕舞い、店内をぐるりと見渡す。 するめを噛みしめる口の端でメロディを口ずさむテツさんと、艶っぽく頬杖を付いている曳女。
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