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君を忘れない。
特別だった。
ふわふわしていて、大人しくて、でも僕と居る時はもうほんとめちゃくちゃにかわいく笑ってくれる。
優しくて愛らしい、花みたいにはかなげな彼女。
だけどもういないんだ。あんなにも元気だった彼女は、もう――。
「紅~、ただいま」
いつも通り大学での講義を終えた僕は、家に着くなり玄関で寝転がる。そこに軽い足音を立てて、彼女が来た。
『おかえり』
僕の頭を軽く撫でて、笑う。優しいけど、僕が見るとすぐに恥ずかしがって離れてしまうのだ。
だからしばらく寝ころんだまま、僕は言う。
「今日の講義、めちゃくちゃ眠かったよ。でもさあ、教授が厳しい人だから、寝るわけにもいかなくて。すっごく辛かった」
『大変だったね』
紅がよしよし、と撫でてくれる。にやける口元を引き締めて、僕は続ける。
「でもその教授さ、時折ジョークはさんでくれるからさ、いい人なんだ。みんな苦手だっていうけど、僕は嫌いじゃないね」
ふふっと笑えば、彼女もクスクスと笑う。ホッとする。そんな時間だった。
だが、しばらくすると彼女は、ちょっとだけ怒って頬を叩く。
「ああ、ごめんごめん。そろそろ夕飯だね。すぐ用意するよ」
体を起こせば、彼女はすうっと部屋に戻っていく。僕は慌てて彼女を追いかけた。
これが昨日までの、僕たちの日常。
彼女は家にこもりきりだけど、平凡な、そんな生活だった。
この毎日は、ずっと続くと思っていた。
だけど別れは、突然やってくる。
ある冬の朝。
その日も、僕は彼女に見送られながら大学に向かった僕は、ふと忘れ物をしたことに気付いて、時間を確認し、一限を諦めて家に戻った。
「ただいま~紅~」
声をかけたが、シン、と家の中は静まり返っていた。
「紅?」
もう一度声をかけるが、廊下に出てくる気配がない。
おかしい、と思って慌てて靴を脱ぎ捨て、部屋の中を見て回る。
部屋が二つあるだけの小さなアパートだから、きっとどこかで寝ているのだろう、と探したが、どこにも紅の姿はなかった。
だがふと、とんでもないことに気が付いて、僕は家を飛び出した。
「紅、紅! どこだ、どこに行った……」
紅はずっと外に出てなかった。だから外に出たら、危険なことがたくさんあることを知らないはずだった。もしも、もしも彼女に何かあったとしたら――。
そしてたどりついた大通りに向かう途中。僕は、はた、と足を止めた。
そこにあるのは、黒いミニバンと小さな人だかり。そして、赤。
まさか、と思った。嫌な感じがする。
ずり、と足を無理やり前に動かして、ゆっくりと近づいた。見物でもするようにいる人たちの話し声が聞こえてくる。
「……かわいそうに……」
「……あの子まさか、あのアパートの……」
話し声を他所に、僕はその赤色に近づいて、見た。
瞬間、足から力が抜けて、その場に膝をつく。
「あ、あなた……」
誰かがそう口にするのも遠く、僕はぼんやりと見ていた。
そこに横たわる、彼女の亡骸を。
プルルルル、プルルルル。
鳴り響くスマホに手を伸ばし、ボタンを押した。途端に聞こえてくるのは、大学の友人の声。
「お前、いつまで休む気だよ」
「朝からうるさい……」
「うるさくてもききやがれこのバカ」
そう言って僕の言葉を遮った友人は、つらつらと言葉を並べ始める。
「お前の大切な彼女が亡くなったのは確かに絶望的だ。それはわかる。だけど大学を休み続けんのはよくねえよ。それにお前、ほとんどなんも食ってねえんだろ。そんなんじゃ、彼女が心配するだろ」
ごもっともだった。納得もしている。
「わかってんだよ……」
だけど身体が動いてくれないのだ。簡単に言わないでほしい。
だが、友人には伝わらなかったようだ。
「いいや、わかってねえよ。そもそもお前は――」
ブツッ、ツー、ツー、ツー。
長くなりそうな電話を強制的に切って、ゴロン、と敷きっぱなしの布団に横になる。
ぼんやりと天井を見つめながら、ああ、と軽く笑った。
「ダメだなあ、僕は」
紅がいなくなった日常は、僕にとって暗闇そのものだった。
朝目が覚めても、隣にいた彼女は居ない。身体を起こしても、名前を呼んでも、ご飯を用意しても、そこにいるはずの彼女は居ないのだ。
ごろ、と横を向く。目線の先には散乱した僕の荷物がある。大学に行かなきゃいけない。単位を取らなければ。そう考えてもやはり、身体を起こす気にはなれない。
「このまま、寝てたいな」
つぶやくと、彼女の『ダメ』と叱る顔が浮かんでくる。仕方なしに無理やり身体を起こす。と、何かがぱさっと布団から落ちた。
「……紅のハンカチ」
無意識に手繰り寄せていたみたいだ。ぎゅっと握りしめておでこに当てる。彼女の匂いが微かに残っていて、目からまた涙がこぼれそうになる。
「紅……っ」
落ち着くまでそうして、ようやく立ち上がる。が、何も食べていないせいか、めまいがした。ゆっくりと身体を動かしながらキッチンに立つ。とまたそこにあったタッパーが目に入る。
「そういや鶏ささみ置いといたんだっけ」
彼女が好きだった鶏ささみで何か作ろうと思ってそのままにしておいたものだ。苦笑しながら一口食べてみる。
「……大丈夫だ、腐ってない」
あとで使おう、と冷蔵庫に手をかけて、ハッと目を見開いた。
そこに貼っておいたカレンダーには、紅の誕生日と書かれている。あわててスマホを開くと、はあ、とため息を吐いた。
「もう、過ぎてるし……」
最悪だ、と壁にもたれる。再びぼんやりと天井を見上げた。
「紅、僕は……君がいないとダメだよ……」
『弱虫』
ハッと目を見開いて、前を見た。そこには――。
「紅っ」
彼女がいた。変わらず愛らしい姿で、チョコン、とそこに座って僕を見ている。だが、途端に、はあ、とため息を吐かれた。
『まったくもう、ぐうたらしちゃって。何してるのよ』
周りをチラリとみて、また僕を見る。大きくて綺麗な目が、じいっと責めるように。
『それに、ささみを腐らせようとするなんてっ』
「ごめん。その、すっかり忘れてて」
『お願いだから、ちゃんとしてよ。じゃないと――』
安心して眠れないでしょ。
悲しそうに笑う彼女。もう一度僕は、ごめん、と言った。だけど、彼女はふるふる、と首を横に振る。
『あたしも悪かったわ。外に出てしまって。でも気になったのよ。外の世界が、見てみたかったの』
ふわふわ、キラキラした何かが、少し強くなった。
彼女は続ける。
『最初で最後の我儘のつもりだったの。許してね』
「……許せないよ、許したくない。そうしたら君は、もう――」
『お願い、信也』
じいっとこちらを見つめる彼女は、今まで見た中で一番綺麗だった。
だから、承諾せずにはいられなかった。
あれから一年。
大学での講義を終えた僕が、学校を出ようとしたところに友人が走ってくる。
「よお、信也。今終わりか?」
「うん、そっちも?」
友人は、おうよ、とガッツポーズする。
「暇なら昼飯行こうぜ」
「うーん」
曖昧に返しつつ、スマホを開く。と勝手にのぞきこんできた友人は、アハハッ、と笑った。
「お前ほんと、一途だよなあ」
そんなんだから女も寄ってこねえんだよ、と笑う彼に僕はむっとする。
「笑うことないだろ」
友人はすぐに、すまんすまん、と困った顔をする。
「いやまあ、すげえなって意味よ。そんなにも思える猫がいてさ」
さらり、と彼女のことをいると言った彼に僕はさすがにため息を吐いた。
「紅はもういないんだって」
「あ~はいはい。もう聞き飽きたよ」
ひらひらと両手を振って、学食でもいいか、などと先を行ってしまう。僕もその後ろを追いかけながら、どこでもいいよ、と返す。
だがもう一度彼女の写真を見てからスマホをしまった。
大切な僕の紅。これからも僕は、君を忘れないから。
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