むかしむかし

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「妖精の仕業よ。妖精に呪われたの、あの子は」 母上がまた喚いている。 「でなきゃ、あんな悍ましい趣味を私の子がもつものですか。そうでしょう、お前」 下女が穏やかに相槌をうつが、母上は今にもその辺の高級な壺をひっつかんで叩き割りそうな錯乱ぶりだった。ぼくはそれを横目に廊下を通って中庭へ出る。温かな日の光が差す中庭は、ぼくのお気に入りの場所だった。 母上の声が聞こえなくなれば穏やかな昼だ。 中庭の中央、ベンチに囲まれた太い木の枝で小鳥が鳴いている。 野良猫が庭を横切っていく。 どこかで犬の吠え声がする。 世界はこんなにも美しく魅力的な生き物で溢れている。 最近、同世代の男の子はみんな女性の話をするようになった。誰が可愛らしいとか、美しいとか、体がどうとか。ぼくには全くわからない。どこで手に入れたのか春画を持っている子もいて、ぼくも見せてもらったけど、やっぱりよくわからなかった。 服を着ていてもいなくても、ヒトはヒトでしかない。むしろ裸の方がつるつるで気持ち悪い。 跡取りの関係もあって、両親からはよく結婚の話を持ち出されるようになった。だからぼくは素直に言ったのだ。結婚するならヒトでない動物がいいです、と。 だってヒトの女性を見ても全くそういう魅力を感じられないのだ。女性でも友達にならなれるが、伴侶と言われると全然ピンとこない。子を持つことも無理だと思う。 だって女性の裸なんかより、オスでも獅子とかのほうがよっぽどセクシーに見えるんだもん。 母上はそんなぼくの価値観をおかしいといった。そして、母上の子に限って頭の病気なんてありえないから、きっとぼくは小さい頃に妖精を怒らせて呪われたんだ、と言い張る。 失礼しちゃうよね、妖精なんて見たこともない生き物をどうやって怒らせろっていうのさ。 とはいえ母上がそうと言えば我が家ではそうなる。父上も、母上の主張を鵜呑みにはしなくてもぼくを異常だと思うのは同じみたいだった。 近いうちにぼくはいなかったことになるか、死んだことにされるだろう。 幸か不幸かぼくには弟がいる。弟はぼくほど見た目をほめそやされないけど、家を継ぐのに必要なのは外見なんかよりも中身だ。その点弟は勉学も優秀だし、努力家で心優しい人格者で、何よりぼくと違って「まとも」な感性の持ち主のようだから。 ある日母上はぼくを呼びつけて、言った。 「明日は天気がいいそうよ。遠駆けに行ってらっしゃい」 なんでもない提案のようなのに、信じられないくらい冷たい目をしていた。ぼくは、ついにこの日が来た、と思った。 母上の傍らには男が二人。 片方は短く刈った黒髪に、顎髭を生やしていた。がっしりとした体つきと鋭い目つきがどこか動物的で、小さい頃からぼくは彼に懐いていた。名前をジェームズという。ぼくの叔父だ。 もう一人も同じく叔父で、名前はパーシー。こちらはゆるくウェーブのかかった金髪を肩のあたりまで伸ばしている。見た目もそうだが中身もなよっとしていてあんまり好きじゃない。 「パーシーとジェームズがね、狩りに行くそうなの。あなたも行きたいわよね?」 母上の、有無を言わせぬ迫力。ぼくには選択肢がなかった。 「行きたいです。ありがとうございます、叔父上方」 浮かべた笑顔はひきつっていなかっただろうか。母上が素知らぬ顔でし済ませようというなら、ぼくもそれに習うべきだ。価値観が合わなくても、ぼくは母上の子だから。 ぼくの返答に、叔父上たちはにこやかに笑った。 「良かった。兄上が誘いたいと言い出したんだけど、断られたらへこむなあって思ってたんだ」 「うるさいぞパーシー。それでアルフ、猟銃を持ったことは? ない? なら明日は森に着いたらそこからだな」 ふたりの様子があまりに朗らかなので、もしかしたら本当にただの遠駆けと狩りなのかもと少し思った。けれどやっぱり母上は冷たい目をしていて、それでぼくはまた落胆した。どうも叔父上たちの演技が上手すぎるだけみたいだ。 明日のために早く寝なさいと言われてベッドへ向かったけど、緊張と不安でろくに眠れやしなかった。 どこへ連れて行かれるのだろう。捨て置かれるのか、殺されるのか──"事故に遭う"にしても、なるだけ痛い思いはしたくないな。ひもじい思いも。ぼくはこの家が好きだし、家族のことも好きだし、何よりこの生活が恵まれている方だということを知識だけとはいえ知っていた。ここから離れたくない。 けれど、後を継げないんだから諦めるしかなかった。家にとって役立たずの長男ほど邪魔なものはないし、ぼくは家の迷惑にもなりたくなかったから。  結局一睡もできないまま朝になってしまった。 いつもより早めに朝食と着替えを済ませ、昼食など必要そうなものを準備して馬小屋へ向かった。 馬小屋にはジェームズが先にいて、馬たちを撫でていた。我が家の馬は使用人だけでなくぼくも世話をしているから、全員わかる。家族より彼らとの別れの方がつらいかもしれない。 「おはよう、アルフ。早いな」 「叔父上こそ。……今日は、どこへ行くのですか?」 「ああ、少し遠いが北の方へ走っていくと森がある。天気もいいし風も少ないから、全力で走ればきっと気持ちいいぞ」 ジェームズはそう言ってにかっと笑い、ぼくの頭を撫でた。 とてもこれから甥をどうこうしようという人間の顔には見えなかった。やっぱり、ぼくの思い過ごしなのかな。本当に今日は遠駆けに行くだけなのかも。 ジェームズと馬や狩りの話をしているとすぐ時間になり、パーシーも来た。 「やあ、二人とも早いねぇ。今日は楽しもうね、アルフ」 こちらもやはり、穏やかな笑顔だった。 準備を整えて馬に乗ろうというとき、父上がぼくを見送りに来た。彼がぼくを気にするなんて珍しい。ぼくが結婚の話をして以来、ずっといないもののように扱ってきたのに。 嫌な予感がした。 「……行くのか」 静かに問われ、はい、と首肯く。 「そうか。……気をつけてな」 遠駆けに行くだけの息子を見送るにしてはあまりに含みのあるもの言いだった。 淡い期待は砕かれた。ぼくと家族はこれでおしまいなのだ。 鼻の奥がツンとするのに気づかないふりをしながら、行ってきますと手を振った。 「まずは気が済むまで走ろうよ」とパーシーが提案したので、一も二もなく賛成した。 いつまでもしんみりした気持ちでいては乗せてくれる馬に失礼というものだ。切り替えなくては。 叔父たちとぼくは、狩場だという北の森に向けてしばらく駆けた。 吹き抜ける風が気持ちいい。ぼくが乗っている白馬も気持ちよさそうだ。ぼくが上にいなければもっと自由に駆け回れたろう。申し訳なさを感じつつも、乗せてくれていることに心底から感謝する。 馬は、その背に乗ると首の美しさが際立つ。より速くより遠くへ駆けるために長く伸びた足、のために長く伸びた首。足元の餌のためだったとしてもそれは遠くのものを見るのに役立ち、横についた目は真後ろ以外の殆どを視界に収める。たてがみは風になびき、愛らしい耳は小さな音すら拾う。本当は走っているところを遠くから眺めたほうが馬そのものの美しさがわかるのだけれど。乗っているときの眺めも、これはこれで最高だ。 景色より馬に見惚れているとすぐに森についてしまった。 森はぼくが思っていたよりうんと鬱蒼としていて、森というより…… 「樹海では?」 「森だよー」 パーシーがへらりと笑った。 ぼくたちは馬を降り、手綱を引いて森(絶対に樹海と言ったほうが正しいと思う)の中に足を運んだ。 迷子になってはいけないからと、ジェームズがぼくの前を、パーシーは後ろを歩いた。 「狩りはどのあたりでするんですか?」 しばらく歩いても一向に止まる気配がないので、思わず聞いてしまった。 それまでずんずんと道なき道を進んでいたジェームズはぴたりと足をとめ、こちらを振り向いた。そして、今朝と同じ笑顔で、言った。 「こんなところで狩りなんかしねえよ」 「ちょっと、兄上」 パーシーが窘めたが、ジェームズはハッと鼻で笑った。 「もういいだろう、パーシー。アルフだってとっくに気づいてる」 「ええっ?」 「そうだろ、アル坊」 問いかけられ、思わず頷いた。気付いていることを知られているならこれ以上しらばっくれたって仕方ない。 「賢い子だ、お前は。可愛い甥っ子をどうこうしなきゃならないなんて俺たちも心苦しいよ。けど、姉上を裏切った方が怖いからな」 何が面白いのか、ジェームズはずっと笑みを浮かべたままだ。まるで顔にその表情が張りついてしまったみたい。 パーシーは、急にキョロキョロと辺りを見回して震えだした。 「兄上、まずいよ。深く入りすぎてる」 「うん、そうだな」 「俺たちも戻れなくなるかも……!」 「ああ。でも、もう少し奥まで行く」 その言葉にパーシーはひどくショックを受けた顔をした。 ぼくが不思議に思う間もなく、ジェームズは前を向いてまた進み出した。 仕方がないのでぼくも着いていく。パーシーはほとんど半泣きで、待ってよおとか、置いてかないでとぐずぐず言いながらもついてきた。大人のくせに子供みたいだ。確かに森の中は鬱蒼としていて不気味ではあるけど、そこまで怯えるほどだろうか。 歩きながらジェームズが話し始める。 「この森は古くから、迷いの森とか帰らずの森と呼ばれててな。理由は単純、この森に入って無事に帰ったものがひどく少ないからだ。ゼロじゃないが、ただの森にしてはあまりに少ない。調査隊なんかも何度か入ったようだが、あんまり進歩はなかったみたいでな。だから姉上は、お前を"いないことにする"のにこの森がちょうどいいと思ったようだ」 「だから、入りすぎると危ないんだよ。兄上」 パーシーが弱々しい声で遮る。ジェームズは少しも足を緩めなかった。 「姉上は、アルフを二度と家に帰って来れない場所に連れていけと言った。そうだな、パーシー?」 「う、うん……」 「森からの生還者はゼロじゃない。だったら、ちゃんと帰って来れないところに送り届ける責任があるだろ」 「それじゃあ俺たちも帰れなくなるじゃないか!」 「それの何がいけないんだ?」 ジェームズはなんでもないことのようにそう言った。振り返らなくてもパーシーが息を呑んだのが空気でわかる。ジェームズは続けた。 「あのめちゃくちゃな姉上に逆らえずにこんな所にいる時点で俺たちは人としてだめなんだよ、パーシー。性癖がマトモじゃないなんて理由で16の子供が殺されてたまるかってんだ。……だから、俺たちはせめてアルフの側にいてやろうや。な?」 「叔父上……」 『だから』の意味が全くわからなかった。あなたも充分めちゃくちゃです、という言葉はすんでの所で飲み込む。彼なりの信念か何かに従った結果なのかもしれないが、帰れなくなるかもしれない場所へ弟まで同意なしに巻き込むなんて。というか母上の命令に思うところがあるなら、例えばこっそり逃がしてくれるとか、何か……どうとでもやりようはあると思うのだけど。 言葉が通じるからと言って、話が通じるとは限らない。母上のように。 ジェームズも負けず劣らず、その通じない部類の人間に含まれるようだった。 ここまで来るともう諦めに近い気持ちが湧いてきて、ただ無言でジェームズの背を追った。馬がいてくれなければ心が折れていたところだ。パーシーは、予定と違うとかなんとか言いながら泣いていた。 鬱蒼と茂る木々の間をどれだけ歩いただろうか。不意に道が開けた。 「なんだ、こりゃあ……」 ジェームが唸る。 木々に囲まれたそこには、小さめではあるが城がそびえていた。 錆びついた城門には門番もいなければ、城の方にも人の気配はなく、建物のあちこちに蔦がはびこっている。廃城のようだった。 「こんな所に城があったとは……うちの国の城、じゃないよな」 ジェームズは臆さず門を開けて中に入っていく。好奇心が勝ったのでぼくもついていった。 「兄上、もうやめようよ。きっと呪いの城だよ、あれのせいでみんな帰って来ないんだよぉ」 半泣きのパーシーはついに足を止めた。 「怖いならそこにいろ。俺は見てみたいから行くだけだ。……アルフも、パーシーといていいぞ」 「ううん、ぼくも気になるから」 「そうか」 パーシーを城門の外に置き去りにして、それなりに広い庭園を横切る。枯れた草木が花壇を覆っていた。 城の塔が太陽を遮り、近づくほどに薄暗くなって、空気も心なしか冷えていく。 「この辺りで馬を待たせよう」 ジェームズはガーゴイルを横目に手綱を手近な柱に結んだ。ぼくもそれを真似て適当な棒に結ぶ。何かあったらこの美しい白馬が自力で逃げられるように、結びはゆるくしておいた。 ぼろぼろの架け橋を渡る。見た感じは今にも落ちそうでヒヤヒヤしたけど、渡ってみると案外しっかりしていた。城の中に足を踏み入れる。 中はいっそう暗かったけど、怖いよりも静謐な印象を受けた。 廃城にしては清潔で、蜘蛛の巣ひとつ見当たらなかった。 庭の荒れ方からするともっと埃だらけでもいいはずだ。 ジェームズも違和感に気づいたのか、歩調がいくらか遅くなった。でも進むのはやめない。すごいなこの人。 静かな城内に、カツーン、カツ―ン、とぼくらの足音だけが響く。 閑散とした中庭を横切って再び城内に入ろうというとき、どこからかヒソヒソと話し声が聞こえてきた。 「ジェームズ叔父さん……!」 「シッ」 ジェームズは人差し指を立て、もう片方の手で銃に手をかけた。話し声は前方の部屋から聞こえてくる。 雰囲気や間取りからいって、客間だろうか。 後ろに下がるようぼくに手ぶりで伝え、ジェームズは銃を構えたままじりじりとそちらへ近づいていく。 「……っ!?」 部屋を覗いたジェームズが息を呑む。ぼくもそっと後ろから近づいて中を覗き──同じように息を呑んだ。 長テーブルの上で、ティーカップがひとりでに動いていた。ティーカップだけではない。丸いトレーも、砂糖入れもミルクさしも、スプーンもフォークも動いている。カチャカチャと金属音が鳴っている。 「アルフ、俺は夢でも見てるのか?」 「ううん叔父さん、ぼくも同じものが見えてるよ」 できる限り小さな声で答えたけど、ティーカップたちには聞こえたらしく全員が一斉にこちらを見た(目もないのに見られたことだけははっきりとわかった)。 そして、彼らの「視線」がゆっくりとぼくらの上に上がっていく。 「お、王子! おはようございます……!」 スプーンが高い声で控えめに挨拶をした。口もないのにどうやって、と思う間もなく── 「男だけ、か」 背後から地を這うような低い声が響いた。 振り返ろうとした途端、ぼくらはまとめて客間の中に吹き飛ばされた。 「うぉおっ!?」 「わぁっ、あ゛ッ」 床へ強かに腰を打ちつけると同時に、テーブルの足に頭をぶつけた。 ジェームズがぼくを抱きとめたらしい感触はあったけど、ぼくの意識は間もなく遠のいていった。
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