劣悪サイア

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――……このベランダに侵入してきた猫が、水を飲んだのは多分間違いない。でもなければ、濡れた足跡なんかつかないし、シンクも濡れてないだろうし。……でも。一度も、水が出しっぱなしになっていたことなんか、なかった。  そもそも、五階に野良猫が現れるということを、もっと早く疑問に思うべきだったのではないか。  このマンションの場合、一階から住んでいる住民はいる。なぜ野良猫は一階や二階のシンクから水を飲むことはせず、わざわざ五階のこの部屋まで上がってきたのか。  上がってきたのではなく。  この部屋にしか、行き来ができなかったのだとしたら? ――ポンタは、猫が好きだ。本来猫相手に吠えることなんかない。そのポンタが警戒していた。ポンタが唯一吠える可能性があるのは……大柄な男の人だけ、だ。  ぞわぞわと、背筋を冷たいものが這い上がってくる間隔を覚えた。  猫は、一匹だけで入ってきたわけではなかった。足跡が残っているのが猫だけだからといって、他に侵入者がいないとは限らない。猫を連れてきてここのシンクで水を飲ませ、かつ蛇口を止めることができるのは――その飼い主だけではないか。  ではその飼い主とやらは、何故この家のベランダに侵入できた?  そして何故そんなことをする必要があった?  アレルギーが出るほどの埃、ゴミの臭い。掃除をしたり風呂に入ることもできない状況。家の蛇口から飼い猫に水を飲ませられないことから察するに、水道を止められてしまう=料金を延滞するほど困窮した住人がいる。それも、この部屋のベランダに入ってくるということは。 ――私の、生活時間帯を知られてたんだ。だから、……!  血の気が引く思いをしながらも、私はシンクの傍の壁を見た。  緊急脱出口。“非常の際はこの板を破って、隣戸に避難することができます”と書かれている白い板。この隣の部屋は、角部屋だ。この部屋にしか、隣接していない。  私はそっとその板を押してみて――板が破られるのではなく、根本から外れていることに気づいた。ああ、隣室の住人はここから当たり前のように私の部屋に侵入してきていたのだ。  がたん、と板が外れた途端強くなるゴミの臭い。思わず蒸せるように咳き込んでしまった次の瞬間だった。 「おい」  。 「気づくんじゃねえよ」  低い男の声。ぎょろん、とこちらを覗きこむ人間と猫の眼。  伸びてきた不潔な手に腕を掴まれた瞬間、私は心の底から己の失策を呪ったのである。
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