第12話 コスモス畑

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第12話 コスモス畑

 十一月のはじめ。  喋るのが、前よりも上手になってきた頃。  朝。起きてから歯を磨いて顔を洗い、ヒロトの選んでくれた服に着替える。  そして、はちみつを塗ったトーストにかじりついていると、 「ちょび、出かけようか」  私より先に起きて朝早くからどこかに出かけていたヒロトは、帰ってくるなりそんな提案を投げてきた。 「へはへむ!(でかける!)」  何の脈絡もなくて驚いたけれど、ヒロトとお出かけできるのはとっても嬉しい。  残りのパンを慌てて口に詰め込んで牛乳で流し込み、スカートについた粉をゴミ箱に捨ててから、玄関へダッシュし素早く靴をはいた。 「ヒロト! ヒロト! 今日はどこに行くの!?」 「んー? 内緒」  エレベーターの中でスキップしたくなるのを我慢しつつヒロトに問うと、彼はわざとおどけたような素振りをして、自分の口に人差し指を当てただけ。  一階に着いてエントランスを抜けると、ヒロトはなぜか私を駐車場へ導いた。 「?」  いつもは徒歩だったり電車やバスを使って移動するから、不思議に思いつつ後ろをついて行くと、一台の黒い普通車が目に入る。 「今日はこっち」 「……?」  すぐそばに立ち、ヘンテコな形のレバーを何回引いても扉が開く気配はなかったというのに、ヒロトがポケットに片手を入れるとピピッと音がして車の両側が短く光り、扉はガチャリといとも簡単に口を開けてしまった。 (ヒロトの魔法だ!) 「涼哉さんに借りてきたんだ。ちょび、乗って」  言われた通り、助手席に入り込み腰を下ろして胸を張る。  ちょっぴりふかふかの椅子に、ふわりと漂うタチバナの香水のかおり。 「免許は持ってるんだけどなー……あー、車欲しい……あ、ちょび。ちゃんとシートベルトしてね」 (シートベルトね!)  大きく頷いてから、ヒロトの見よう見まねで“シートベルト”とやらをカチリと閉めた。  それから、ヒロトが何やらごそごそしていると、変な音を立てて車は動き出す。 「わあ!」  心を躍らせながら、びゅんびゅん流れ去っていく景色を見送った。  私が窓に顔を張り付けていると、ヒロトは笑い混じりに言葉をこぼす。 「気になってたんだけど……ちょびって、人間の年齢で例えると何歳くらいなの?」  年齢……あ、そうだ。  自分のことやヒロトのことをたくさん思い出しはしたけれど、正しい歳をかぞえていなかった。 「えっと、」  ひい、ふう、みい。  指を一本ずつ折りながら考えたあと、両手を広げてヒロトに見せつける。 「じゅう、ろく! ん……? あれ?」  ……何歳だろう?  猫だった頃、ヒロトに初めて会った時点では六ヶ月とちょっとだったから……あれから何年経っているのか足すと、えっと……? 「にじゅう……いち? くらい?」 「曖昧だなー? まあ、大体それくらいだよな……それなら問題ないか……オッケー、了解」  運転しながら楽しそうにくつくつ笑うヒロト。  その横顔を見ていると……なんだか、どきどきする。  これはいわゆる、 (ときめき……?)  でも、私はヒロトのことが大好きだから。  ときめくのは当たり前。  どきどきするのも当たり前。  こうして『私はヒロトが好きなんだ』と改めて思い知るたびに、なんだかとっても嬉しくなる。 (ヒロト、今日も大好き)  ***  しばらく(ヒロトが)車を走らせて到着したのは、 「わー! ヒロト、ヒロト! すごいね! きれい!」  あたり一面に広がるコスモス畑だった。  車から飛び出してすぐ近くへ駆け寄り、ひたすら感動していると、 「ちょび、おいで」  ヒロトは優しく私の手を引き、花畑の中へ入っていく。  撮影者向けなのかわからないけれど、花壇の中には人が通れる専用の通路が敷かれていて、そこを通り綺麗に咲き誇るカラフルの中へ二人で混じった。 「この前、葵に教えてもらったんだ」 「あおい?」 「ほら……商店街にある花屋の、店長。俺の、大学の時の後輩」  説明されて“あおい”が誰なのかやっとわかった。  よく私にお菓子をくれる優しいお嫁さんの“みい”さん……の、“へたれ”な旦那さんのことだ。 「さすがだな……こんなに綺麗な場所を知ってるなんてさ……」  私が思っていたのと同じ感想をヒロトがぽつりと呟く。  それから、 「……ねえ、ちょび」  場の空気を仕切り直すかのような、いつになく真剣な声で私の名前を撫でた。 「なあに? ヒロト」  首をかしげれば、ヒロトは黒い双眸を優しく細めて私を見る。 「……ちょびは……俺と一緒にいて楽しい?」 「……え?」 「俺と一緒にいて……ちょびは、幸せ?」  あまり、言葉の意味を理解できなかった。 (ヒロト……?)  なんで……どうして今さら、そんなことを聞くの? (もちろん、楽しいよ。幸せに決まってるよ)  赤べこのように何回も首を縦に振れば、 「そっか、ありがとう。俺も……俺も、ちょびと一緒にいると楽しいし、幸せだよ」  ヒロトはそう呟いて、息を吐くように小さく笑う。  ヒロトは、笑ってくれている。けれど――……今は、とにかく怖い。 (ヒロト、)  お別れを告げられそうで。  また「さようなら」になりそうで……この空気が、怖くて仕方がない。 「俺もね、ちょび。できることなら……ずっと、ちょびと一緒にいたいと思ってる」 「……っ、」 「けど、今のまま……恋人でも、友達でもない。ただの同居人なんて……こんな曖昧な関係のままじゃ、俺たちはお互いダメになるだけだと思うんだ」  コスモスの甘い匂いが風にのって鼻腔をくすぐるたび、胸が苦しくなる。  ぽつりぽつりと、雨のように落とされるヒロトの言葉が、不安の音を混ぜて耳に入り込む。 (……やだ)  嫌だよ、ヒロト。  もう……お別れするのは、嫌だ。 「……ひ、ろと、」 「ねえ、ちょび……」  私の声をかき消すように重なるヒロトの低音。 (やだ……ねえ、せっかく会えたのに、思い出せたのに……またお別れなんて、そんなの嫌だよ。ヒロト……)  涙で歪む視界の中、ヒロトは突然その場で片膝をつく。  そして、まるでおとぎ話に出てくる王子様のように、私の左手をそっとすくいとった。 「……? ヒロト……?」 「……」  黙ったままの彼は、ポケットから『何か』を取り出し私の薬指にくぐらせる。  そこにあったのは、 「……!」  ――……陽光を弾いてきらきらと輝くシルバーの指輪だった。 「……これ……」 「……曖昧な関係は終わりにしよう、ちょび。いや……今はちゃんと、千夜美って呼ばなきゃな」 「ひろ、と……」 「俺は……これから先の未来も、千夜美と一緒に生きていきたい。俺はもう大人になったから、今度こそ……ちゃんと、最後まで千夜美を守ると誓います」  まっすぐ向けられた綺麗な黒いビー玉に、私の姿が映りこむ。  頬を撫でて通り過ぎた風が、コスモスの花びらを空高くまで持ち上げた。 「誰に何を言われても、どれだけ反対されても……もう二度と、千夜美を手放したりしない。いつかお互いに歳をとって、おじいちゃんおばあちゃんになって……千夜美が俺のことを忘れたとしても、ずっとそばにいる。だから……」  左手から直に伝わる、ヒロトの体温。  穏やかに弧を描いた唇がつむぎ落としたのは、 「俺と、結婚してくれますか?」  甘い甘い、プロポーズの言葉だった。 「――っ!」  もう、“結婚”が何なのか知らないほど無知じゃない。  結婚は、人生の中でも重要な選択の一つ。  出産、就職、家……そして、一番大切な人とするのが、結婚。 「これからも……ずっと、俺のそばで笑っていてほしい」 「……っ、ひろっ、と、」  ……本当に?私はこれからもずっと、ヒロトの隣にいていいの?  嬉しくて嬉しくて、次から次に溢れ出す涙をヒロトの指が優しく拭ってくれる。 「この世の何よりも、誰よりも……大切で、大好きだよ」 「わた、しっ……私、も……! 私も、大好き……っ! ヒロト……!」  思わず抱きついた私の体をヒロトはしっかりと受け止めてから、子守唄のように優しい声音で囁いた。 「帰ってきてくれて、本当にありがとう……愛してるよ、千夜美」  ***  むかし、むかし。  ある あめのひに、  すてられた いっぴきの こねこが おりました。  こころの やさしい しょうねんは、  こねこを ひろい  いのちを たすけて  とても かわいがりましたが、  おわかれは とつぜん やってきました。 「ごめんなさい、ごめんなさい。ぼくが おとなだったら、きみを まもれたのに」  なみだをながす しょうねんに こねこはいいます。 「かならず また あえるよ」と。  きらきらひかる おほしさまに、こねこはねがいました。 「かみさま どうか わたしを にんげんにしてください」と。  それから、すうねん。  こねこは にんげんになって あいにきました。  そして おとなになった しょうねんは、  こんどこそ かのじょを まもると きめました。  もうだれも ふたりのなかを ひきさくことは できません。  しんじつのあいで むすばれた ふたりは、  いつまでも しあわせに くらしましたとさ。  どうわのような このおはなしを とあるひとは こうなづけました――……『捨て猫少女』と。
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