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『とーしーき! あーそーぼ!』
この海辺の町に僕が越してきたのは、小学一年生の春だった。都会から来た子どもが珍しかったのか、隣の家に住む灯莉はいつも、僕の家の前で明るく声を張っていた。運動会で聞くホイッスルみたいに、すかんと空を抜ける声だった。
『裏山にいこ! 二組の山田が、ひみつ基地作ったの! としきも来ていいんだって! 案内してあげる!』
男の子みたいなショートの髪に、短いスカート。剥き出しの膝小僧には、絆創膏が絶えなかった。元気の塊に臆した僕が部屋の隅に引っ込んでいると、灯莉は塀の向こうから二階の壁へ、小石をぽんぽん投げてきた。ビービー弾ほどの小さな石が、こん、こん、と僕を呼ぶ。けれどあの時分から決して辛抱強いとは言い難かった灯莉は、すぐにチャイムを鳴らして僕の家に踏み込むと、怖がって逃げた僕の手をぎゅっと掴んだ。
『行こうよ! 一人でじーっとしてるよりも、二人のほうが楽しいから!』
とんでもない主張だった。僕は一人が好きなのだ。東京に住んでいた頃、僕には友達がいなかった。幼稚園のみんなが水を得た魚のように日向で楽しげに遊ぶ姿を、僕は日陰から死んだ魚の目で眺めていた。
もし僕らが本当に魚なら、あの陽だまりはみんなにとっての海なのだ。みんなは人の輪の中で誰に教えられなくとも上手に呼吸ができるけれど、僕には同じことができなかった。みんなの見よう見まねで賑やかな輪に加わってみても、切実な喉の渇きを覚えるばかりで、無理に嚥下した空気からは、酸素を取り込めた気がしなかった。僕にとっての海がみんなとは違う場所なのか、それとも僕の呼吸器官が致命的な欠陥を抱えているのか、どちらかが理由なのだろう。どちらにせよ、原因に興味はなかった。
誰かと一緒にいるよりも、一人のほうが呼吸ができた。
みんなの輪の中にいるよりも、孤独でいるほうが苦しくなかった。
極端に人見知りをする僕に、誰もが手を焼いていた。
そのうちに、僕を遊びに誘う物好きなんて、いなくなった、はずなのに。
二つ年上の女の子は、台風のような勢いで、僕を日向へ連れ出そうとしているのだ。
ぐずった僕は、一年生が三年生の輪に交じれないとか、今日は家で遊ぶとか、幼いなりに精一杯の言い訳を駆使して抵抗したけれど、結局はお転婆の灯莉に手を引かれて、日差しの下という大海原へ連れ出された。
まだ通う前の小学校に、木造の旧校舎。よく母親とコロッケを買うという商店街に、海辺の町らしい船を象った遊具が人気の公園。僕らは二人で、時々は斜向かいに住む歩美も交えた数人で、日が暮れるまで遊び回った。朝ぼらけの空色が黄昏の鴇色に染まるように、初めてできた友達は、僕の毎日をいとも容易く、目まぐるしく変えていった。
やがて、二階の窓から見える近所のミモザが、黄色の花を柔らかく散らして、灯莉が連れていってくれた小学校で見た桜の木も、蕾をほころばせ始めた三月中旬――僕の家族と灯莉の家族は、ピクニックへ出掛けることになった。
当日の朝は、僕にとって不思議な時間だった。僕たちの母さん同士は大張り切りで、台所には初めて見る具のサンドイッチがたくさん並び、灯莉がそれらにカラフルな星形のピックを刺していた。ソファに座った僕は、窓から射す白い日差しと、長方形の青空を、シャボン玉になった心地で見上げていた。誰かが吐息を吹きかければ、音もなく割れて世界から消える。そんな白昼夢の中で微睡んでいた。
今にして思えば、僕は役割がなくて退屈だったのかもしれない。遠足前に似た浮かれた空気が、卵焼きや唐揚げの匂いとない交ぜになって漂う部屋で、僕が大人たちの調理の様子を、遠巻きに眺めていると――灯莉と、急に目が合った。
猫みたいなアーモンド形の瞳に、悪戯っぽい光が閃く。そのとき、僕は直感した。
灯莉は、新しい遊びを思いついたのだ。
『としき、行こう!』
あの日のことを、僕は一生忘れない。太陽のような笑顔で、溌剌と発せられた灯莉の声は、今も耳に残っている。僕は大人の目を盗んで、灯莉は大人の目だけでなくサンドイッチまで二つ盗んで、二人で家を飛び出した。
行き先は、瞳を通わせた瞬間に決めていた。
当時の僕たちの、お気に入りの場所だ。
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