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春原灯莉と出会う日は、空がまるで海に見える。澄み切った青色と薄雲の小波を見上げていると、ここへ落ちてしまえばさぞ気分がいいだろうと、僕はいつも投げやりに、それでいて胸がすくような心地で思うのだ。灯莉が二年ぶりに僕の前に現れたのも、空が海のように拡がった正午前のことだった。
部屋の壁がこんと硬い音を鳴らしたとき、僕はだらっと着たTシャツ姿でベッドに寝そべり、読み古した漫画のページを捲っていた。窓からは日差しに温められた風が入り、潮と桜の匂いが僕の前髪をでたらめに触っていったけれど、清々しさなんて全くない。春の気怠さが煙草の紫煙のように、狭い室内にこもっていた。
そんな部屋に、こん、ともう一度、硬い音が鳴り響いた。
壁に、小石が当たった音だ。かつては待ち侘びていた音が、春休みの退屈で凝った心を引っ掻いた。体温が俄かに上がり、起き上がった僕は、窓の外へ身を乗り出す。
こんなふうに、僕を呼ぶのは一人だけだ。
――自宅の手前、灰色のコンクリート塀のそばに、灯莉はいた。
白いワンピースに蒲公英色のカーディガン姿で、右手には籐編みのバスケット、左手には空色の封筒を握っている。ふわりと波打つ長い髪は、ミルクティーみたいな薄茶色で、僕は不味いブラックコーヒーを飲み干した気分になった。
――今日もまた、灯莉が大人びた分だけ、僕らの距離は開いていく。
けれど僕は、灯莉と遠ざかった距離の分だけ、何でもない顔が巧くなった。感情の磨滅した顔で、僕は二階から灯莉を見下ろした。ほら、大丈夫だ。なんてことないじゃないか。そのはずなのに決まりが悪くなって、瞼が震えたのが分かる。
灯莉の笑顔は、明るかった。幼い頃のように、楽しそうに見えた。
「俊貴。遊ぼ」
よく通る幼馴染の声が、僕を呼ぶ。数年ぶりの台詞を耳にした僕は、ベッドのくたびれた敷布の上で、魂が抜けたように座っていた。
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