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「やけぇ、早う帰れって!」
潮の香りをはらんだ風が通り過ぎる丘の上で、広川雅巳は目の前の男を睨みつけていた。
十二月初旬の瀬戸内は、温暖とはいえ流石に冷たい風が吹いている。潮風の中に爽やかな柑橘の香りが混ざっているのは、この丘が雅巳の営む檸檬畑だからだった。
「そこを何とか! お願いします、広川さん!」
やや大袈裟に思えるほど頭を下げて懇願するスーツの男は、石原というバイヤーだ。
石原から東京の老舗デパートの食品バイヤーだと名刺を渡されたのは、三ヶ月前のことだった。どこからのツテもなく突然訪ねてきて、突然名刺を渡され、世間話もそこそこに「広川さんの檸檬をうちのデパートに置かないか」と打診された。その時も「帰れ」と突っぱねたのだが、石原は笑って「また来ます」と言って帰って行った。
それ以来ずっと、石原は事あるごとに雅巳の元を訪ねてくるようになっていた。
雅巳としては、東京のデパートに自分の檸檬を卸す気など毛頭ない。
いま卸しているのは地元のレストランやカフェ、ケーキ屋ばかりで、それは「できる限り鮮度を保ったまま提供したい」という雅巳の拘りによるものだ。
雅巳の育てる檸檬は従来の品種と比べ香りが強い。
しかし、東京のデパートに卸したとして、収穫したての香りは楽しんでもらえない。輸送の際に傷がつき、そこからぐんと鮮度が落ちることもあるだろう。
それこそ父親の代から十数年をかけ苦労して品種改良したこの檸檬を、「こんなものか」と思われることだけは御免だった。
そして何より、雅巳はこの石原という男が苦手だった。
すらりとした長身に乗っかっている顔は小さく整っていて、一見すると人好きのする笑顔を浮かべている。にこりと細められた瞳はいかにも優しげだが、その奥から芯の強い射貫くような視線を感じていた。
それがどうにも居心地が悪く、雅巳は石原とは極力目を合わせないように努めていた。
それにしても、だ。
数回断れば退くだろうと思っていたのだが、それがまさか、三ヶ月も粘られる羽目になるとは。
正直なところ、根負けしそうになるくらいには辟易していた。
「なんべん言われてもできんもなぁできんて! しつこいなアンタも!」
「いくらでもしつこくしますよ!」
いつも以上にキツイ口調で当たる雅巳に、それでも石原は食い下がる。
もう三ヶ月だ。この男の顔を見るのも今日で何十回目だろうか。どうしても引く気がないことだけはよく理解できた。
雅巳は深くため息を吐いて、片手で首の後ろを擦りながら困った様に口を開いた。
「……なしてそこまでするんじゃ、アンタは。檸檬農家なんて他にもあるじゃろ」
自分の育てる檸檬が良い品物であることは自負している。しかし、「瀬戸内の檸檬」というブランドが欲しいのならば、言い方は悪いがどこの農園でも良いはずだ。それがどうして、こんなにも。
「惚れたからです」
「……あ?」
唐突な、そして簡潔な答えに思わず石原の方を見て聞き返す。図らずも、強い瞳と視線が合った。
「俺が、惚れたからです。広川さんの檸檬に」
ドクリ、と心臓が跳ねた。声音から、真剣さが嫌というほど伝わってくる。石原の視線と相まって、雅巳は僅かにたじろいだ。
二歩、三歩と後ずさると、それに合わせて石原がじりじりと間を詰めてくる。
「掛けている手間も、想いも。広川さんの全部が詰まっているこの檸檬に、惚れたんです」
視線を外すことができない。まるで石原の視線に掴まれているようだった。
――ああ、だから嫌なんだ、この男と目を合わせるのは。
一度捕えられたら逃げることができない、そんな力強さがあるから。
「……そう簡単にうんとは言わんぞ」
「それは分かってます。だてに三ヶ月通ってません」
それに、と付け加えて、石原は軽くウィンクをしてみせた。
「簡単にいかない方が落としがいがあるじゃないですか」
「な……ッ」
返す言葉もなく金魚のように口をパクパクさせる雅巳に、石原がぷっと吹き出した。
どこまでこの男の押しに耐えられるだろうか。
目の前で可笑しそうに笑う石原を眺めつつ、雅巳は今日何度目かの大きなため息を吐いたのだった。
【fin.】
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1.プリンシピオ~24.マル・ダムールまであるお題のうち21.クラン・ドゥイユを使用させて頂きました。
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