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第一章 壊れていく心の在処(ありか)
「世界には言葉の壁がある。それを伝えるのがお母さんの仕事なの」
小さな真理愛は、漢字より先に英語のスペルを覚えた。そうすれば母の紀美にうんと褒めてもらえる。けれど覚えたての英語で『good morning!』と伝えたかったのは、天国にいる父のアンジェロだった。
紀美と真理愛の暮らす一軒家は、ローカル路線の列車が走る小さな田舎町にあった。
母の紀美は翻訳家で、木の温もりがあるアンティークな書斎にこもって仕事をするのが常だった。整然と並んだ本棚には、古今東西の書籍が集まっている。真理愛が絵本を読んでおとなしくさえしていれば、気難しい紀美もご機嫌だった。
海の近く、白い外壁に緑の屋根が映える洋風の家は、近隣でも有名で真理愛は気に入っていた。
「緑の切妻屋根の家、グリーンゲイブルズに憧れて作ったのよ」
モンゴメリの小説『赤毛のアン』のモデルになったというその家は、カナダのプリンスエドワード島にある。いつか行ってみたい。
「あのね、真理愛。パパはあなたが生まれる前に死んだの。私たち家族は二人きりだけど、本の住人は誰もあなたを傷つけたりはしないから」
「アンのようになりたい」とせがんで編んでもらった三つ編みが、真理愛の肩で揺れる。日本人離れした目鼻立ちに茶色い髪と瞳は、田舎町で目立つ。加えて紀美は未婚の母だった。
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