足跡

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 本当に寒いですねえ。ここらあたりでもつい最近、積雪がありましたからねえ。この季節にこの界隈で雪が積もったのは、7年ぶりだそうですね。私はもともと南の方の出ですから、寒いのはどうも苦手で。早く春になって欲しいですよ。  私がこのぼろアパートに越して来てから、もう三年になります。まあ、安普請ではありますが、それなりに家賃も安いし、これで結構便利もいいし、特に不満は有りません。近隣の住民の方も、みな常識的でいい人ですしね。  ところがね、1ヶ月ほど前になりますか、隣の201号室に若い男が越してきたんですが、これが少々変な奴でしてね。そもそも入居の際の挨拶も無しで、気がついたらいつの間にか入ってたんです。ずっと空室だった隣の部屋から、時々水道の音がするようになってきたのに気づいて、それで多分誰か入ったのかと思っていたんです。  そんなある日、私が外出しようとドアを開けたら、殆ど同時に隣のドアが開いたんです。たまたま向こうも外出しようと思ったみたいですね。開けた隣室のドアの前には、一人の若い男が立っていました。金色に染めた髪が目を引きましたが、顔色も悪く、やせていて、いかにも不健康な感じでした。偶然私という隣人に出くわしてしまったのに余程驚いたのか、目をかっと見開いてこっちの方を睨みつけてるんです。  こちらは初対面なので、挨拶しようと思って「あ、どうも。隣の石川です」と言いかけた瞬間、そいつはバタンとドアを閉めてしまいました。変な奴だなあと思いましたね。何やら私に顔を見られたのが、よほど嫌だったようにも見えました。考えてみれば、あくまでも私が部屋にいる間の話ですが、隣からの生活音みたいなものが聞こえた記憶が殆ど無いんですよね。テレビの音や、携帯が鳴る音とか、そういう音も全然しなかったんです。  ところがね、暫くすると真夜中になると何やら声が聞こえてくるようになったんです。それが何とも不気味な話なんですが、もう午前1時を回ったころでしょうか。 「やめてくれよお……勘弁してくれよお……」  呻くような声が壁の向こうから聞こえてくるんです。どうも魘されている様子です。 「助けてくれよお……許してくれよお……」  毎晩のように懇願するような、許しを請うようなうめき声が聞こえてくるんです。そりゃあ、こっちも薄気味悪いし、嫌な気分になりましたよ。でも、起きて騒いでるのならまだしも、夢を見て魘されている人に文句を言ってもしょうがないなと思って、まあ、放っておきました。  そんなある日、そう、この間の雪が降った日です。宵の口から降り始めた雪がずっと降り続いて、外に向けてあけっぴろげになっているここの外廊下にも、雪が降りこんで積もっていました。真夜中頃には5センチくらいにはなっていたと思います。  その日も午前1時を過ぎた頃、例のうめき声が始まりました。 「やめてくれよお……勘弁してくれよお……」  いつも私を憂鬱にさせる隣の声が、今日はまた特に長いように感じられました。そうこうするうちに、懇願するような声がひときわ高まったかと思うと、バアン!とドアの開く音が聞こえ、またすぐにバタン!と乱暴に閉めたような音が聞こえました。その後はシーンとしています。  どうしたんだろう。  暫くたってから、私はおそるおそる自室の扉を開けてみました。外廊下は、外から吹き込んだ雪が綺麗に降り積もって、純白の絨毯を敷き詰めたみたいになっていました。その絨毯の上に、隣の部屋の扉の前から、一人の足跡が始まって、点々と続いていました。勿論あの男のものですが、その足跡が妙に乱れていたのを覚えています。歩幅も長くなったり短くなったり、右に寄ったり、左に寄ったり、かと思うとすり足になったような線形の跡もつけながら、外階段の方へと続いていました。酔っぱらっているのだろうか。こんな雪の日に泥酔して外に歩き出すのは危険じゃなかろうか。見に行ってあげた方が良いのかな。一瞬そんなことも考えましたが、それほど親しい人間でもなく、ましてや何やら不気味な感じの男だし、私としてもこの雪の中を外出する気にはとてもなれません。結局、そのままドアを閉めて寝てしまいました。  その翌日は仕事も休みで、私はずっと部屋にいました。雪の方は明け方には止んでいたんですが、気温の方は相変わらず寒かったのでなかなか外出する気になれなかったんです。遅くに起きて買い置きのカップ焼きそばを食べると、後はぼーっとテレビを見て過ごしていました。  すると、お昼過ぎ頃でしょうか、自室のドアがコンコンとノックされました。誰だろうと思って、覗き窓を覗いてみると、一人の中年男性が扉の向こうに立っています。 「どちら様?」ドア越しに声をかけると 「すみません、警察の者ですが、ちょっとお聞きしたいことがありまして」 という返事です。  警察?少しびっくりしましたが、別にやましい所はありません。とにかく話を聴こうと思ってドアを開けるとそこに立っていた男性が、おもむろに警察のバッジを取り出して見せくれました。確かにその人は本物の刑事さんのようです。 「お休みのところを、申し訳ございません。実はお隣の201号の住人について少々お聞きしたいんですが」  刑事が意外に丁寧な物腰で訊ねてきました。 「お隣がどうしたんですか?」 「実は、今朝死体で発見されたんです」 「え?」  流石に驚きましたが、自分としては、一度しか顔を見たことも無い人物ですし、そもそも名前も知りません。でも、警察が出てくる以上、事件性もあるのだろうか。とにかく、問われるままに、私は知ってることは全て話しました。自分も一度しか顔を見たことがない、金髪の不健康そうな若者だった、殆ど生活音を聞いたことが無い、でも夜になると魘されたような声が聞こえてきた、昨夜、というかもう日付が替わっていましたが、真夜中にドアの開閉音を聞いた、雪の上には部屋から出ていく彼の足跡があった……  メモを取りながら聴いていた刑事は、私の話が終わると、軽く頷いてお礼を述べてくれました。 「ご協力誠に有難うございました。なるほど、直近の事情が良く分かりました」  そう言って、今度は彼が知っていることを話してくれました。 「その201号の住人ですが、今朝がたM陸橋の下で転落死しているのが発見されました。状況からみて自殺と思われますが、実はあの男は特殊詐欺グループの幹部だったんです。何人もの老い先短いお年寄りから、老後の命綱とも言える財産を何千万、いや何億も騙し取っていました。実際、奴のせいで自殺に追い込まれたお年寄りが何人もいるんですよ」  告げられた事実に私は驚きました。自分の隣人が犯罪者だったなんて…… 「なかなか尻尾を掴ませなかったのですが、たまたまひょんなことから奴につながる確かな証拠を手に入れることが出来ましてね……まあ、有り体に言えば、要は仲間割れを起こしたらしくて、密告があったんです。有力な証拠と共にね。直ちに身柄を確保しようとしたんですが、向こうもこっちの動きを察知して逃走しました。結局仲間からも見放され、警察からは追われる身となった挙句に、こんな安アパート、いや失礼、ここで潜伏生活を始めたわけですが、もう逃げきれないと観念したんでしょうねえ。あの陸橋から飛び降りて自分の人生にけりをつけたってわけです。付近にも彼の足跡しか有りませんでしたし、貴方が仰ったようにふらふらした足取りでしたから、精神的にもかなり不安定な状態だったんでしょう。毎晩魘されていたというのも、わかるような気がします。沢山のお年寄りを泣かせて、さらには何人も自殺にまで追い込んだ男でも、良心の呵責に苦しめられていたんでしょうね」  あの声は良心の呵責に苛まれた人間の上げる声だったのか。そう思うと何やら一層不気味な感じもしてきます。 「まあ、自業自得と言えばそれまでですが、我々としては、悔しい思いです。この手で逮捕して、法廷で裁きをつけてやりたかったんですがねえ……」  いかにも残念そうな刑事の顔を見て、思わず私も「それはそうでしょうね」と相槌を打ちました。  刑事が帰った後、ぼーっとテレビのアクションもののドラマを眺めながら、私は今回の一連の出来事をもう一度思い出していました。 「やめてくれよお……勘弁してくれよお……」  懇願するような声。そして私が最後に見た彼と言う人間がこの世に残した痕跡、即ち外廊下に降り積もったの雪の上の足跡の映像を思い出しているうちに、ふと気づいたんです。  あの足跡の特徴。歩幅も長くなったり短くなったり、右に寄ったり、左に寄ったり、かと思うとすり足になったような跡……  嫌がる人間の両脇を抱え上げて、無理矢理に引っ立てていったら、まさにあんな足跡が残るんじゃないか……そんな気がしたんです。 (実際、奴のせいで自殺に追い込まれたお年寄りが何人もいるんですよ)  刑事さんの言葉が思い出されます。  彼を雪の中に引っ立てて行ったのは、一体誰だったんでしょうね…… [了]
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