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第一章 森の出会い
水気を失いカサついた唇がはーっと息を吐き出すと、ふわっと視界が白く濁った。
そして、そのまま周囲に散らばる霧の中に溶けるように消えていく。
ふ、と見上げた空には、冬の象徴とでもいうべき三ツ星が光を放っており、森の中ということを考えても季節柄これほどまでに湿気が多い冬は、珍しいかもしれない。
ちら、と肩越しに振り返ると、そこには頭に暖帽を被り、補褂の裾を跳躍のたびに翻している動く死体――僵尸たちの姿。彼らが履く両の朝靴が地面を蹴るたびに、朝珠と呼ばれる玉を連ねた数珠が胸元でシャラシャラと踊る。
額に貼り付けられている黄色の符呪がぴらぴらと揺れ、その下に施された死に化粧がちらりちらりと垣間見えた。例外なく、みんな血の気は引いており、中にはその顔に今後消えることのない傷を負う者さえも存在する。
物心ついた頃にはすぐ傍に僵尸の姿がある生活を送っていたため、すっかり見慣れた姿ではあるものの、本来皇帝に仕える一部の官吏のみが着用することを許されている朝服を、死者への装束として用いる規則は冷静に考えると、どうにも歪んでいるようにしか思えない。
もっとも、一番歪んでいるものは、死者を無理やり動かし故郷へ還さなければならないこの世界そのものなのかもしれないが。
(まぁ、その歪んだものが家業な私がどうこういえる話じゃないのかもだけどさ)
一定の律動で弾みながらついてくる人影が、数時間前に街を発った時と変わらないことを目視しながら、月は再び視線を前へと戻す。皇帝のほか道士のみが着用を許されている黄色の道袍に、手の中には小さな鐘。側頭部で作られたふたつの輪がまるで動物の耳のようにふるっ、と揺れ、短く切りそろえられた前髪を手で軽く整えた。
そして、手に持った鐘をちりりん、と鳴らすと、背後の隊列が再び両の足裏で地を蹴る。
「僵尸さまの、お通りだー。生きてる者は、道を開けろー!」
シン、と透明な空気が満ちる空へ抜けるような月の声が、暗い森に響き渡った。
――僵尸隊。
その始まりは、かつて世界がまだ「陰」と「陽」、天と地の境を曖昧にしていたころまで遡るといわれている。
大きな大きな河の、ほど近くにあった小さな小さな集落。
そこから始まったこの国――大華は、やがて小さな集落から大きな街へ、大きな街から大きな都市へ。そして、歴史がその歩みを進めるほどに人口は増え、世界は富み、皇帝と呼ばれる唯一の存在が生まれ――国と呼ばれるものを興した。
人間の暮らす土地が巨大になるほどに、いつしか故郷より遠く離れた地においてその命を終えてしまう者の数も増えていった。故郷に戻そうにも西方の山岳地帯は山道が険しく、輸送するに難を極めたという。
結果、かつてはお伽話の類だと思われていた僵尸という化物が、次々とその姿を現し始めた。そして、故郷に身体――「魄」を埋められず、僵尸となってしまった者たちがその地の人々を次々に襲い、襲われた者が傷口から「魂」を吸い取られ僵尸となり、また別の者を襲う――という事態に発展するようになった。
一説によれば、当時の皇帝一族にもその被害があったという。
深刻化の一途を辿る事態を憂いた国は、死者であるが故にこれ以上死ぬことが出来ない僵尸を唯一殺せる術を持つ道士たちに、死体を操り動かす呪術を編み出させ、なんとしても無事に故郷に帰し埋葬するよう命を下した。
それ以来、その道士の所属する宗派は、僵尸隊を名乗りそれを生業とするようになったようで、月の家もまさにその道士の末裔というわけだ。
(さっき街を出たのが酉時の正刻(午後六時過ぎ)で……三ツ星があの位置にあるってことは、一応行程は順調かな)
僵尸が太陽の陽の下でその身を晒すと、発火し、燃え尽きてしまうため、移動は常に夜に限り行わなければならず、朝日が昇るその前に次の目的地に到着しなければならない。それが出来ないときは、最悪、辺りにある日が当たらない場所をなんとか探し出し、そこで待機。
僵尸隊を率いる道士にとって、その行程を組むことも大切な仕事のひとつだった。
これから向かう先は、大華国の南方――朱南省にある都市周辺の小さな農村だが、そこに至るまでの間には森林をいくつか越えなければならない。
(でも……そろそろ、手持ちの銭が心許ない……気がする……)
昨夜の宿での支払いを思い出すと、恐らく財布の中には既に紙幣は一枚もなかったはずだ。銀貨、銅貨共に数枚といったところか。
最悪、塩を売ればなんとか銭は作れるだろうし、僵尸隊を泊めてくれる宿というのは滅多になく、あってもこちらの足元を見て吹っかけられてくることがよくある。なによりも清めの塩はなるべく売りたくないというのが本音だ。
(この先でなにか僵尸隊に仕事があるなら、いいんだけど)
流石に運任せにするには、相当の勇気が必要かと思えるほどの残金だ。
(あー、急遽入った仕事とはいえ、陽安周辺ぐるっと寄り道したのが痛かったなー)
僵尸隊という仕事柄、その旅先で新たな仕事を請け負うというのは珍しい話ではないが、流石に三件、それが続くと様々な予定が崩れてくる。勿論、仕事をした以上、収入はあるのだが、「道士」に清貧を強いる世間は、そうそう大金を弾んではくれないのだ。
行程を組んだ当初はその予定はなかったが、この森を抜けた先の街道をさらに西へ十里(約四キロ)ほど歩けば廟として構える自宅がある。一度、帰宅した方がいいかもしれない。
(でもなー、爷爷ちゃんにはまた、小言いわれんだろうなぁ)
額の上でさらりと揺れる前髪を整えながら、思い出すのは、父方の祖父の顔。
詳しい事情は知らないが、赤子のころに事故で両親と死に別れたらしい自分をずっと育ててくれた唯一の肉親であり、道術の師でもある。
基本的には好々爺であるとは思うが、ことに僵尸隊のこととなれば途端に口うるさくなる。けれど、例えばそれが、「行程の組み方が甘い」だとか「僵尸隊を率いる道術が未熟」などという指摘ならば、師としての言葉と受け止めることもできるかもしれないが、実際彼からいわれるものは「宿代くらい値切って来んかい」「仕事しとんのじゃから代金くらいきちんとふんだくって来んかい」というものなのだから真面目に聞くだけ損だと月は思っている。
(あ、待てよ? 爷爷ちゃんが起きる前に帰って、用意を済ませて出るってのは……って無理だ。夜が明ける前には村に着くけど、その後出るには微妙な時間だ……。しかも、私がいないときに、爷爷ちゃんが酒を飲んでない可能性なんて皆無だよ……)
大方、明け方まで飲んだくれているに違いない。
ならばそのまま酔いつぶれてしまえばいいものの、彼は酒に強く決して記憶を飛ばさない。ぐでんぐでんに酔っぱらうくせに、眠りにつくその瞬間まできちんと意識をはっきりと保つというある意味ありがたくもあり、ある意味面倒くさくもある厄介な酔っ払いだった。
(っていうか、そもそも爷爷ちゃんが浴びるほど酒を飲まなけりゃ、こんなカツカツの生活してなくて済むんだけどね!!)
どうあっても小言の回避が難しそうなことを悟った月は、苛立つ感情のまま眉間を寄せながら足音の速度を速めていく。
――刹那。
視界の端に、霧とは違う質量を持った白い色が映り込み、彼女の肩はビクッと揺れた。胸の内側で心臓が一瞬で何倍にも膨れ上がったかのような錯覚を感じたまま、視線をそちらへと走らせる。
巨大な森の中央を走るこの道は、確かに南方へと抜けるための唯一の道ではあるが、既に陽も落ち、辺りに響くものは梟の声ばかりという時刻にのんきに出歩いている者はそうはいない。こんな時刻にこんな場所に存在するものは、近年めっきり見かけなくなったが道士の支配下にない野良僵尸か、野盗、獣の類である。
なんにせよ、死体を引き連れている月としても、出来ることならば会いたくない連中ではあるのだが、遭遇してしまったからにはしょうがない。少女は肩下げの中に手を差し込むと、護身用かつ儀式用として持っていた桃木剣を引き抜いた。
邪気を払うといわれる桃の木から作られたこれならば、野良僵尸は勿論のこと野盗、獣にしても物理的に対応可能だ。
けれど。
「……っ、え? は? う……う、まぁ??」
睫毛を向けた先にいた存在は――白馬、によく似たモノだった。
というのも、形こそ馬に似ていたがその額には一角が生えており、体格もこの近隣で見かける農耕馬のように痩せておらず筋肉質だ。確か北方には何千里も走ることの出来る騎馬がいると聞いたことがあるが、河川や森が多い南方や、険しい岩肌の山地が多い西方ではそこまで高性能の馬はそもそも求められないという。
「なんで馬が、こんなところに……っていうか……馬っていうか、一角獣ってやつだよね……角、生えてるし……」
雲履と呼ばれる道士用の靴の爪先をそちらへと向けたまま、はた、と月は考え込むように唇へと指を当てる。
世界がまだ混沌としていた時代には、人の世界のすぐ傍にもああいった【妖】と呼ばれる存在があったらしいが、ここ数百年の内に彼らの姿はすっかり人の住む場所から消え、いまではもはや神話や伝説にも等しい。
家業で道家を営んでいる月にしたところで、実在することは幼い頃より聞かされ知ってはいるが、実物を目にするのは初めてだった。
(この森、何度も通ったことあるけど、いままで一度も見かけたことなんてなかったけど……え。もしかして見かけたことないだけで、実はこの森が住処だった??)
いやいや、んなバカな。
一番近い都市でも数十里は離れており、近隣にあるのは生きるか死ぬかというほどでもなければ、日々遊んで暮らせるというほど豊かでもない農村がいくつかあるばかりの、よくある地方の田舎である。
生ける伝説ともいうべき存在がこんなところにいるとは、俄かには信じがたい。
(いやでも本物だと仮定して。これ、このままにしといていいの……? いや捕まえたからって、どうしていいかなんてわかんないけどっ)
そもそも捕まえようにも、農耕用の馬と違い、ときには肉食獣をも退かせるほどに野生の馬は気性が荒いと聞く。そもそもこの一角獣を「野生の馬」という括りにしていいものか悩むところだが、少なくとも農耕用の馬よりもそちらの方が近いだろう。
(……一見、そんな気が立っているようには見えない、けど)
とりあえず下手に刺激しないよう、月は手に持った桃木剣を再び肩下げの中へとしまうと、ちりん、と一度鐘を手の中で鳴らす。そして肩越しに視線を後方へとやると、「とまれ」と短く指示を出した。
僵尸とは「陰」に属する存在であり、【妖】もまた「陰」に属するものである。もしこの【妖】の【気】に引っ張られ、僵尸が月の支配下から逃げ出す可能性もある。
この一角獣が本当に【妖】なのかどうなのかは再考の余地があるのだが、とりあえず下手に近づけない方が無難だろう。
幸いにも、一角獣は、鐘の音に一度ピクンと耳を震わせたようだが、それは特に興奮材料にはならなかったようだ。
「え、っと……そっちいっても、いい……かな?」
言葉が通じるかどうかは微妙なところだが、一応声をかけてから月は一歩、木々の合間に佇む一角獣へ、歩を進める。
――が。
「っ、あ、だ……ッ!」
深い霧の中、なにかを踏んだらしく身体の軸がぐらりと傾く。体勢を立て直そうとするものの、そのまま滑る足が止まらず、後方へと傾いだ身体はどすん、と尻から地面へと落ちた。
チリン、と手から鐘が地面に転がっていく。
「あ、イタタタ……」
元々身のこなしにはそれなりの自信がある。うまく受け身を取ったおかげでさほど痛みはないが、基本的に「先導する道士の行動を真似するように」という命を出している。最悪、隊列全てが尻もちをつくところだったので、僵尸をその場に留まらせておいて正解だった。
「って、なに……こんなとこに……なにが、落ちて……」
月が打った尻を摩りながら自身が躓いたあたりへと睫毛を向ければ、そこには薄色の内衣の上に濃色の上衣という道袍を身に着けた人物が転がっていた。短い黒髪、服の上から窺える体格を考えると、男――やや線が細いところを見るに恐らく十代だろう。
軽く彼の周囲を眼で簡単に探ったが、身分を示すようなものは他になく、道袍を身に纏っていることからも道士、もしくはそれに近しいことを生業とする者ということくらいしかわからない。
(ガッツリ背中踏んだのに反応ないってことは……死体かな……)
試しに背中をつんつんと指先で突いてみたが、やはり反応はない。
(……例年に比べて、今年は湿度が高い……)
外気温は例年通りともいえるものだが、ここは国の南部への入り口ともいえる場所であり、雨の量も多く、北部や西部に比べ冬場でもそこまで冷え込まない土地柄だ。先ほど踏みつけてしまった背を指先でも触れてみたが、男性特有の硬さはあるものの死後による硬直はしていなかった。
特に膨張もないように思えるので、死後硬直が解けたあとというわけでもないようだ。すん、と鼻を鳴らしても、特に腐敗臭が漂っている様子もない。
(ってことは、運よく死にたてほやほやの鮮度の高いご遺体に遭遇したってことね)
道士の術なくして生み出された僵尸は、その全てから僅かな腐敗臭がする。その理由は単純明快で、腐敗が始まったのちに行き場のない「魄」のみがとどまった肉体が僵尸として蘇るからであり、逆をいえば道士が術によって強制的に僵尸にする遺体は一部の例外を除いてほぼ全てが死後すぐにその処置が行われている。
例え行き倒れの死体といえども、こうして運よく道士にすぐに拾われたものは生前の姿を留めることができるので、人物特定しやすく故郷も探しやすい。
――腹、減った……。
うつ伏せに倒れる身体からは、そんな声さえ聞こえる気がする。
外傷がないところを見ても、恐らく襲われたというよりも飢餓による飢え死にだろうか。その割には随分と体格に恵まれている気もするが、まぁ人間は思いがけずあっさり死ぬこともある生き物だ。
「まぁ、ここで会ったのもなにかの縁ってことで……」
月は遺体に向かって手を合わせたあと、地面に転がった鐘を拾うと、肩下げの中から桃木剣、符呪、もち米、赤豆、墨汁を染みこませた糸など取り出していく。流石に鮮度の高い死体なので、この状況で僵尸として蘇るとは思えないが、念には念だ。
「安心してね。私が責任を持って立派な僵尸にして、」
「って、なにやっとんだ、テメーは!!」
必ず故郷に還してあげるから――と続くはずだった言の葉は、次の瞬間突然のがなり声によって行き場を失いその場で途切れた。うつ伏せで寝っ転がる遺体を仰向けにすべく、肩へと触れようとしていた月の手首は、急に伸びてきた指に捕らわれる。
「……えぇっ!? 死体が、喋ったっ!?」
「誰が死体だ! 勝手に殺すなボケッ!!」
行き倒れの死体だとばかり思っていた身体がむくり、起き上がり、月の腕を拘束したまま目の前に座り込んだ。手首を捉える手は、寒空の下放置されていたにしては随分暖かく、睫毛の先のその面もまた人相こそ穏やかなものではないが、死者のそれではない。
「えぇ……っと、生きてる人?」
「おうよ。たった今、勝手に殺されそうになったけどなァ?」
こめかみにぴくりと青筋を立てながら頬を震わせている辺り、どうやら本当に生者で間違いないらしい。うつ伏せに倒れていたその姿で確認した通り、推定年齢十六、七歳の少年で、目つきは言葉遣い同様かなり悪く、こうして手首を拘束している力の強さからも大体どういった人物なのかの想像はついてきた。
「オラ、でこっぱち。言い訳があんなら聞いてやんぞ」
「あたっ」
ぺしっ、と月の額へと指を弾きながら、少年の唇は凶悪な角度で持ち上がる。少女は額を抑えながら、眉尻をピンと持ち上げて人相の悪い面を睨み付けた。
「じゃあ、いわせてもらうけどっ!」
「あァ?」
倍以上の眼力で睨めつけられてきたが、負けじと月は唇の先を尖らせる。
「アンタ森の奥で死体の真似するとか、悪趣味すぎない?」
街中でやってたら、それはそれで構って欲しがりのチラチラした下心が鬱陶しいとは思うが、流石にこんな人気がないところでやるのはなにが楽しいのか理解不能だ。
月が尖った口先でそう告げてやれば、ひくっと少年の片頬が歪む。
「んっなわけねーだろがァ!! テメーが勝手に勘違いしとっただけだわッ!!」
直後、静かな森に怒声が響いた。
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