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誰も踏んでいない雪道を歩くだけで、よく知った道は新しい道になる。雪が溶けるまで。
──なんて洒落たことを考えてみるが、それを口に出したところで彼女は褒めてくれない。
「ねえ、あなた、がに股すぎない?」
「え? そんなに?」
後ろを歩いている彼女から指摘されて振り返ってみると、確かに僕はがに股だ。4cm程の雪に、不格好な足跡が続いている。
後ろを歩く彼女の、更に後ろに目をやると、僕とは違って恐ろしく内股だ。
「待って。君の方が内股すぎると思うんだけど?」
彼女は振り返って、僕の指差す先を確認する。
「あ、ほんとだ。知ってたけど。昔からよく言われてたからね」
「まあ、そりゃ僕も昔から、がに股がに股って言われてたよ。だから、特に新しい発見でもなんでもないね」
「うん。そうね」
僕らは二種類の足跡をつけて参道を進む。
田舎の神社には出店もないし、白い服を着た女性がお守りを売ってくれることもない。ただ神社はそこにあって、時々、本当に時々、お参りする人が来て、帰るだけだ。
この神社の参道に積もった雪に足跡はなく、しばらくの時間、ここを訪れた人が僕ら以外にはいないことを示している。
彼女の話し相手は僕しかいない。
「私ね、新しい発見だとは思わないけど、誰も踏んでない新しくて白い雪を踏むのは好きだよ」
「たしかに。去年までいた都会とは大違いだ。馬鹿みたいにいつでもどこでも人が集まってるし、僕はその頭の上をがに股で踏んづけて走り去ってやりたいくらいだった」
「まあね。それも良いかもしれない。あの街があなたをそんな風にさせたのかもしれないしね」
僕は人混みに入ることができなくなった。僕は電車に乗れなくなった。僕は彼女と映画館にいくことができなくなった。それもこれも、全部あの都会の喧噪のせいかもしれない。朝から晩まで働いて、通勤に1時間。僕の時間はどこにもなかった。僕の空間はどこにもなかった。
もちろんアパートに帰れば、そこは僕の空間だったのかもしれない。だが、隣、向かい、上、下、そこら中に沢山居る人達と、直線で区切られた空間を無理矢理に分けて使っている気がしてきて、僕は耐えられなかった。
山の形や田んぼの形で区切られたこの土地が良かった。田んぼや山は、もちろん人為的に区切られた空間ではある。しかし、土もあり草も生えている。自然を感じるもので構成されていることが、僕には必要だった。
僕は彼女と田舎に移り住んだ。
取引先の事務員である彼女を、猫みたいだな、と思ってナンパした。だれでもよかった。それだけのことなのに、彼女は僕についてきてしまった。
しばらく歩くと、十数段ほどの階段の先に、誰もいない社務所が見えてくる。
「ねえ。猫がいるよ。あそこ」
「え?」
彼女が指さす先の社務所の軒下に猫がいた。白い雪の中で、薄茶色の猫が一匹座っている。彼女が雪の上に新しい足跡をつけながら近づいていく。
適度な距離でしゃがんだ彼女は、猫に聞く。
「にゃんにゃーん。こんなに寒いのにどうしてここにいるの? ご飯は食べてる? 君のおうちはどこかな?」
もちろん猫は何も喋らない。尻尾も動かさない。でも逃げはしない。僕も彼女の背後に追いつく。
「にゃんにゃんはこの神社の主なの? 神主さん? ──あれ?神猫さんになるのかな?」
「いや、呼び方なんて、なんでもいいでしょ。この猫がここに座ってるって事は、なんとか生きてるって証拠だよ」
彼女はそれを聞いて、猫の鼻先の温度を確かめるために指先を差し出す。すんすんとそれを嗅いだ猫は、彼女と会話を始めたようだ。
「あら、いい子だね。お名前はあるのー?」
その様子を、僕はじっと眺めていた。
猫の座る軒下には、白い雪が2cmほど積もっている。降り続ける雪は、軒に張り出した屋根の端っこだけでは遮れない。雪は風によって軒下にまで到達する。
その軒下の端に、猫は前足をきちんと揃えて座っている。
ただ、足跡が無い。
猫の周りには足跡が無い。もしかすると、猫はしばらく同じ場所に座り続けていたのかもしれない。いや、長時間座り続けるには、猫にとって寒すぎる。
しかし、日中に足跡を消すほどの雪が降った事実は無い。それに、猫の小さな頭にも丸い背中にも、雪はひとつも積もっていない。
とすればやはり、猫が同じ場所に座り続けている以外に、足跡が見当たらない事実への説明がつかない気がする。あるいは──
「ねえねえ、お参りしたら連れて帰ろうよ。」
振り返る彼女によって、僕の思考が止められた。しかしまあ、僕は猫が好きだし、彼女があまりにも当たり前の顔をしてこちらを見るので、猫と暮らしてもいいと思った。
「んん。いいよ。お参りしてからな」
「はーい。猫ちゃん、ちょっと待っててね」
彼女は猫の耳の後ろを、指先で小さくこすったあとで、立ち上がる。
本殿に周り、僕らはお参りをする。
あらかじめポケットに入れておいた小銭の半分を彼女に渡し、賽銭の音を鳴らす。この神社の礼儀に従って、目を瞑る。
──ガラガラガラララ。
唐突に彼女が鐘を鳴らす。
彼女の祈りは長くなかったようだ。まあ、正直僕らがここに来たのも、することがなかったからお参りをしに来ただけだ。僕らは多くを望んではいない。祈りは短くても良い。
彼女が足跡を辿って、来た道を戻る。
僕の先を行く。
「ねえ!いない!!猫ちゃんいないよ!」
彼女の駆け寄る先には、猫がいない。もしかしたら、鐘の音に驚いて走り去ってしまったのかもしれない。
残念そうに彼女が社務所の端を見ている。
僕もその横に並び、猫が座っていた場所を確認する。そこには猫の座っていた跡だけが残り、周りには猫の足跡が一つも付いていなかった。
あの猫はがに股だったのか、内股だったのか、あるいは。
(おしまい)
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