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雪道の下に眠るアスファルトが凍結していないか足先で確認しながら歩く。時折、買い物袋に降り積もった雪が袋の中に入らない様に持ち方を替える。
腕時計を確認するが、時刻が読み取れない。まつ毛に雪が降り積もっているからか、文字盤が凍結しかけているせいなのか良く分からない。おそらくは、その両方なのだろう。
露出した手首に氷点下の風が吹き付けガラスの破片で撫でられたような鋭利な痛みが走る。反射的にコートの袖を戻す。時間を確認するために、手袋を外して携帯電話を取り出すのも億劫なので諦めて再び歩き始めた。それに結局のところ、時間が確認出来たところで事態は変わらない。雪が止む訳でも時間が遡る訳でも無く、得られるのは安堵か落胆のどちらかでしかない。それに例え、予定より些か遅れていようが、歩き方を牛歩から変更することも憚られた。
雪国特有の小さなプレハブ小屋の様なバス停の扉の前で、肩や髪の毛に張り付いた雪をあらかた落としてから、扉に手を掛ける。溝に雪や砂利が入り込んでいるために動きづらい扉をガタガタと音をたてながら引いて急いで中に入り、同じく力任せに閉めた。手前の座席に買い物袋を置き、手袋を外す。携帯電話を取り出し、壁に掲示されている時刻表と見比べる。直近のバスはおよそ15分前に出発しているらしく、次の便は約一時間半後だという事実が頭の中に木霊する。一瞬「タクシー」という言葉がよぎる。しかし、バス停にタクシーを呼ぶ事は何だか酷く馬鹿げた事の様に思えた。それに、これまでの努力を無駄と認めるような気がして、タクシーの電話番号を調べる気にもならなかった。
となると、もう打つ手は無い。ここで時間を潰すしかないのだ。バス停の中を見渡す。壁に先程見た時刻表、路線図が掲示されているのみで、暖房器具はおろか自動販売機も無い。古いトタン缶を再利用した灰皿が置かれているばかりだ。座席に腰を下ろすと、ズボン越しに臀部の体温がみるみる奪われていくのが分かる。窓ガラスに視線を移すと樹枝状の氷晶が張り付いていた。
目を瞑って、寒さに耐えていると不意にガリガリという音が聞こえた。前を見ると、お婆さんが扉の前に立っていた。その人影がどういう意味を持つのか一瞬分からなかった。
一小節遅れてから、扉が開かないんだという事に気付いて慌てて立ち上がり手伝う。扉を開き、招き入れる。お婆さんは雪を払い軽く会釈して「ありがとう」と言った。何か気の利いた言葉を返したいが、特に思い浮かばないので「いえ」という返事とも取れない言葉を発する。誰かに言い訳をするみたいに、頬の肉を片手で揉みながら扉を閉める。外はちょっとした吹雪になり始めていた。思い出した様に時刻を確認するが、まだ30分程度しか経っていないことが分かる。
「今日は寒いね」
お婆さんは、上品な笑顔を浮かべてそう言った。
「そうですね」
僕も微笑みながら返す。
「お兄さん、N大の大学生?」
お婆さんが座席に座る。
「ええ、まあ。何で分かりました?」
「何となくそんな気がしたんよ。雰囲気とか、言葉のイントネーションでね。この辺は若い人が来るような観光地でもないし。お兄さん何処から来たの?」
「東京です」
言いながら、ネイティブの「そうですね」がどんな発音なのか考えるが良く分からない。
「東京? 東京から、ここまでどれくらいかかるものなの?」
僕は実家から飛行機を乗り継いで約2時間と少し程度だと告げた。遠いと言えば遠い。
「遠くから来たのねぇ。一人暮らし?」
「はい。この辺りに知り合いも居ないので」
「偉いねぇ。もう生活にも慣れたの?」
「初めは洗濯とか掃除だとか億劫でしたけど、最近はようやく慣れてきました。あ、あと雪かきも上手くなりましたね」
「偉いねぇ」
「そんな事無いですよ」
「この辺りは何にも遊ぶ所も無いし、退屈じゃない?」
実際のところ、この街には娯楽が少ない。映画館は無いし、ボーリング場もない。ゲームセンターも、スターバックスも勿論無い。カラオケ屋はあるがチェーン店では無く個人営業の、入店に些か勇気のいる外装をしている。しかし地元のご老人に面と向かって、不満を言う事も出来まい。
「そんな事無いですよ。自然豊かだし、星も綺麗ですし」
「そう? ねぇ、さっきから気になってたんだけど、貴方痩せてるわよね。ご飯はちゃんと食べてるの?」
「一応自炊してますよ。焼きそばとか野菜炒めとか、炒め物ばかりですけど」
「ちゃんと、バランスよく食べてる? そうだわ。貴方、魚はお好き?」
「ええ。好きですよ」
「本当? じゃあ、これあげるから食べなさい。この辺りは海産物が美味しいのよ」
そう言って、お婆さんはスーパーのビニール袋から鮭の切り身のパックを取り出し、僕の手に握らせた。
「いや、そんな。悪いです」
「いいのよ。私の気持ちだから受け取っておいて」
「……ありがとうございます」
鞄に鮭の切り身を入れ、代わりに何か渡せる物が無いか探すが、東京に由来のありそうな物なんて持ち合わせていなかった。
「どうしたの?」お婆さんが不思議そうな目でこちらを見ている。
「いえ、ちょっと」
僕は言葉を濁す。でも、何を考えているのか悟られたようで、お婆さんは笑った。
「馬鹿ねぇ。そんなんじゃないのよ」
「でも、貰いっぱなしというのはどうも……」
「抵抗がある?」
「はい」僕は頷いた。
「そういうものかしら。そうね。なら、バスが来るまで私とおしゃべりしましょう? それだけで私は嬉しいわ」
そう言ってお婆さんはチャーミングな笑みを浮かべた。
それから、僕はお婆さんと他愛無い話を続けた。この季節の旬の食材や、野菜の直売所の存在、お孫さんの話やこの街の歴史など。殆ど僕は相槌を打つだけだったけれど、楽しそうに喋るお婆さんの姿は愛嬌があって。少しの間だけ寒さを忘れて、僕はその話に聞き入っていた。
曇りガラスが車のヘッドライトに照らせられて光った。扉を開けてバス停の外に出ると吹雪はいつの間にか止んでいた。雲の切れ間から顔を出した夕暮れが辺りを照らし、降り積もった雪に反射して眩しく輝いている。バスが停車して重厚感のあるバシュッという音を鳴らした。待ちわびていたはずなのに、何故か乗るのが躊躇われた。でも、僕達はバスに乗った。各々の帰路に就くために。車内は暖房が効いていて暖かく、それなりに混んでいたが幾つかの座席は空いていたので僕達はバラバラの席に座る事が出来た。僕は右後方の窓側の席に、お婆さんは左前方の優先座席に座った。幾つかの停車駅を通る度に乗客が増え、お婆さんの姿は見えなくなった。僕の下車駅が近づき、人影がまばらになる頃に再び優先座席を見るとお婆さんはもう居なくなっていた。
アパートに帰ると、僕はご飯を炊いて、ホウレン草の味噌汁を作り、鮭の切り身を焼いて出来る限りのバランスの良い夕食をつくった。食べる前に、知らない人から食べ物を貰っても食べちゃ駄目と、昔何処かで習った教訓を思い出す。少し考えてから、「これで死んだら、もうどうしようもないな」と呟きながら口に運んだ。
でもそれは、ただ単純に美味かった。
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