第五章『桜の吐息』

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「……ひとみのやつ、今日も来ないわねぇ」 「あれから落ち込んでいるか……一人で集中して学科の勉強をしているかだな」 「単純に……お仕事が忙しいのかもしれないわ……」 「瀬名さん……」 ……原付の免許を取るのに必要なもの。 筆記用具、免許証用の証明写真、現金、身分証……そして自らがこの新宿区内に住んでいる事を証明する住民票だ。 本を買った直後……瀬名さんはその事を知り、住民票という言葉に対して戸惑っていた。 区内に住んでいる事を証明する為にはまず家が必要だ……しかし自宅を持たなければ住所も無い瀬名さんは、ホームレスにとって住民票を発行する事は困難だと知る。 折角沢山勉強しても、国が定めた決まりに従わなければ免許を発行出来ない事を知った瀬名さんは……それから俺達の前に姿を現さなくなった。 「お家に住んでないと、免許は取れないって私達が教えた時……ひとみちゃん、凄く嫌そうな顔をしていたわ……」 「別に私達まで落ち込む事じゃないわよ……嫌な気持ちにさせたくないからって、真実を教えないであのままひとみに勉強をさせて、後々悲しい想いをさせるのも違うと思うし」 「しかし教えるなら教えるで、ひとみが免許を取りたいと言い出した時に教えてあげる事が出来れば良かったのだが……住民票の存在を忘れるなど、警察失格だな」 「……でも結果的にひとみの気持ちを大きくさせちゃったのは、私達の責任かもね」 「私も……最初は住民票の事、知らなかったから……それが必要だって、教える事が出来なかった……」 「最初からご存知無い場合は仕方が無いと思います」 それぞれで瀬名さんに対する反省点を見出し、今すぐにでも謝りたい気持ちでドアの方を見つめるが……依然として黒百合にて、瀬名さんが我々の前に現れる事は無い。 「でも住所とか無いんだったら、身分証も作れないだろうし……履歴書だって書けない筈なのに、今までどうやって働いてたのかしらあの子」 「履歴書無しで応募しているアルバイトだってあるのだ……住所も学歴も職歴も問わない、犯罪者だって欲しているぐらいに人手が足りていない所は、この世の中にいくらでもあるさ」 「でもひとみちゃん……ここの住所が書かれている物は持っていなくても……元々住んでたお家の物は持っているかも……」 「そうだな……生まれた時からホームレスという訳ではあるまい、必ずかつて住んでいた家がある筈だ」 「ひとみ……一体どこから来たのかしら」 「……」 彼女達が瀬名さんの出生地について気になり出している一方で……俺はある決断を強いられていた。 瀬名さんは原付の免許を取りたいのだが、住民票を発行する事が出来ない為に不可能……その事を知っているのは、ここにいる俺達だけでは無いのだ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ……昨晩、また斬江は俺を自分の部屋に呼び出していた。 主な目的は、俺に斬江のストレスの解消をさせる事……その度に事務所では無く、俺は彼女の部屋に泊まるのだが、何も行為をする為だけに来ているのでは無い。 「大和〜、今日のご飯はなぁに?」 「今日は……ナポリタンです」 「あら美味しそうねぇ」 ……斬江は料理が出来ない。 なので普段は外食をしながら毎日を食い繋いでいる……そんなお嬢様みたいな生活を送っていても流石に味に飽きてしまうのか、偶にこうして俺に晩飯を作らせているという訳だ。 そんな彼女は、俺がキッチンにてパスタを茹でている姿を後ろから眺めながら、ソファで足を組んでワインを飲んでいる。 「今日のお仕事はどんな感じだった?」 「特に大変な場面はありませんでした……いつも通り集中して仕事をしていたら、いつの間にか終わっていた感じです」 「ふふっ……頑張ってるわねぇ」 そう言うと斬江は立ち上がり、こちらに近付いて来て、まるで急に甘えたくなった猫のように俺に腕を絡ませて後ろから抱きついてきた。 彼女の鼻息から漏れる甘く酒臭い匂いが……俺の耳を擽る。 「……斬江さん?」 「バイクの方はどう……? もう運転には慣れた?」 「はい、最初の方よりは……走っている途中でエンストする事も少なくなりました」 「ふふっ、事故とか起こさないようにするのも勿論だけど、怪我だけはしないように気をつけてね」 「……ありがとうございます」 斬江に金を稼ぐ為のペットとして飼われ、皇組の極道の契という鎖に繋がれているのが今の俺だ……出来る物なら斬江の部屋から出た後に、マグナで新宿から脱走する事も出来る訳だ。 しかし彼女は武蔵さんという監視役に常に俺の行動を見張らせて、普段着ているスーツにはマイクを忍び込ませて……俺がどこで何をしたか、何を話したかまで知られている始末だ。 「……あなたのお友達に、ホームレスの女の子がいるでしょう、瀬名ひとみちゃんだっけ?」 「……はい」 なので今更、どうして瀬名さんの事を知っているのかと驚く必要も無い。 勿論斬江には、外で誰と会ったか知られている訳だ……かつてのコンビニで会った真緒さんも、ロイヤルメイデンで会っている飯田さん、黒百合で会った長内さんの事も 全て俺が歌舞伎町で本格的に活動し始めた、冬の時から知っている訳だ。 そんな監視下を突破してでも独りで東京から出たらどうなるか……後は想像しやすい結末を迎える事になる。 「なんでも貴方に影響をされて、免許を取りたいのだけれど、住民票が作れないから出来ないだとか……」 「……はい」 本来なら俺が話すべき事を、斬江が代わりに全て話してくれる。 なので俺は、斬江から武蔵さんの報告が間違っていないかを認めるべく、相槌で返す事しか出来ない……そろそろ相槌以外の言葉を返さなきゃいけないと思い、別の返事の仕方を考えていると…… 「……明日、そのひとみちゃんをここに連れてきなさい」 「……えっ?」 「あの子もうすぐ誕生日なんだってねぇ、貴方達は原付を買ってあげるらしいけど、私も私で誕生日プレゼントをあげようと思ってねぇ」 「……何を差し上げるのですか?」 「明日まで秘密〜♪」 そう言うと斬江は俺から離れて、質問から逃げるようにバスルームの方へ向かってしまった。 一体何を贈るのか……極道や詐欺師のよくある手で、贈り物との交換条件である代償まで与えなければいいのだが…… ……しかし彼女はさり気なく、瀬名さんの原付を買う為に金を使っていい事を認めてくれた。 贈り物によっては、ほぼ初対面である斬江を相手に、瀬名さんは絶対に遠慮をする事だろう。 そして仮にも、ここは極道の組長が根城とする(アジト)……そんな危険な場所に、瀬名さんを連れて来て良いのだろうか……。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「もし……ひとみちゃんが免許を取らなかったら……あのバイクはどうなるの……?」 「ふむ、買ってやっても本人が乗らなければ意味も無いしな……」 「本当に本人に免許を取る気があるなら、今からでも買って待つって選択肢もあるけど……どんなに時間がかかってもいいならね」 「最悪私が乗ってしまうしな」 「徒歩の方が効率がいいって言ってなかったっけ?」 「二台持ちにされるんですか?」 「うむ……そもそも買ったとして停める場所が無いだろう? 私がその役を引き受けてやると言っているのだ」 「……確かにそうですね」 「なんか偉そうね」 「何ならその原付は、これから乗るようになるかもしれない千夜にやるという手もあるしな」 「私は……別に誕生日では無いし……免許を取る気も無いから、今はまだいい……」 「そうか……」 ジョルノの行方は、最終的に誰の手に渡るのか。 ……そのような話をしていると、唐突に黒百合の扉が開く━━━━ 「いや〜お待たせなのぜ、今日はお仕事全然終わらなくて大変だったのぜな……」 ……そして自身の頭を撫でながら、申し訳なさそうに苦笑いを浮かべている瀬名さんが、あっさりと俺達の前に姿を現した。 「あらあんた生きてたのねぇ、久しぶりじゃない」 「うむ、必ず来ると信じていたぞ」 時が少し経ってもいつもと変わらない様子の瀬名さんを、飯田さんと真緒さんは入口まで向かって彼女を出迎えた。 「ひとみちゃん……いらっしゃい……」 「瀬名さん、お疲れ様です」 「ちーちーもやまちゃんもこんばんはなのぜ……ごめんね最近顔出せてなくて……」 「別に謝る必要は無いさ、ここに毎日来なければならないというルールは無いからな」 「今まで何してたのよ……お仕事で疲れて黒百合に来る元気が無かったとか?」 「そうじゃないのぜ!……実はあたい、ここ最近学科試験の勉強をしていたのぜな!」 「おお、上手くお仕事と両立をなさっていたという事ですね……ただでさえお疲れでしょうに偉いです」 「えへへ……だから暫く一人で集中して勉強したかったから、皆には会えなかったという訳なのぜ……ごめんなのぜ……」 「ひとみちゃんが……謝る必要は無いわ……」 「その通りよ、それでその猛特訓をして、勉強の方はどのくらい進んだの?」 「もうバッチリなのぜ! 今すぐ試験を受けたら絶対に合格出来るくらいの自信なのぜ!」 「ほう……大分戦意とモチベーションを溜め込んできた訳だな」 「……という事は、まだ住民票の事は諦めていないという訳ですね」 下手をしたら地雷を踏んでしまったか……そう思わせるように、皆も聞きたかったであろう質問を俺がぶつけた事により一同は沈黙する。 そして瀬名さんはそれに対して落ち込む表情を見せずに……むしろ眉を下げて、瞳に希望溢れた輝きを灯しながら俺に目を合わせてきた。 「そうだね……折角やまちゃんに新しい趣味を見つけさせて貰えたり、あたいでも買えそうな安いバイクも見つけられたのに……まだよく調べてない住民票の事を、作れないから無理だって簡単に諦めたくないよ……」 「瀬名さん……」 その優しくも、強さとやる気が溢れる逞しさも感じる瀬名さんの笑顔……見ていると嬉しさと反面、本当に彼女を斬江の元に連れて行っても良いのかという気持ちも強くなる。 「ふむ、まさかここまでひとみがバイクにのめり込むとはな……いつかの日曜にはバッティングセンターに行かずにバイクを紹介していれば、そのセリフも少しは変わっていたかもしれないな」 「いやいや、原付の免許を取る事を勧めてくれた皆のおかげでもあるのぜ……何か目標が出来る事はいい事なのぜ」 「それはそうかもね……ならとりあえず、次は住民票の事について調べてみる感じ?」 「うん! 住民票の事を聞いて、もしあたいじゃ作れないって言われたら……あたいでも作れるようにする方法を聞いてみるのぜ!」 「頑張って……一人で行くのが怖かったら……私もひとみちゃんに着いて行くわ……」 「えへへ……ちーちーありがとうなのぜ」 「あんた警察なんだから家に住んでない場合の住民票の作り方とか知らないの?」 「知らん、私は生活安全課では無いからな」 「何の為の警察であんたがここにいんのよ」 そうして瀬名さんは、今度の暇な日でも早速区役所に突撃してみるそうだ。 勿論それを実行される前に、俺は瀬名さんを斬江の元に連れて行かなければならない……しかしそれを頼むタイミングは今では無いだろう。 家のヤクザの組長に会いに来てくれないか……それを瀬名さんに今頼んだ場合、女の子の堅気をヤクザのいる場所に連れて行っては危ないと、他の三人に猛反対されるに決まっている。 ……そもそもどのような誘い方で瀬名さんを東宝ビルへと連れて行く? 「……おっと、そろそろ私帰らなきゃ。 ごめんねひとみ、あんまりおしゃべり出来なくて」 「いやしょうがないのぜ、そもそもあたいが来るのが遅かったのが悪いのぜ〜」 「ではいつものように駅まで送ってやるとするか」 「ブルちゃん……ちょっと行ってくるわ……」 「はぁい、行ってらっしゃ〜い」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「……ほう、今日はそちらの方に行くのだな仁藤」 「はい、少し用事の方がありまして……」 それから飯田さんを新宿駅まで送った後、俺達は歌舞伎町に戻り……いつもであれば真緒さんと長内さんに着いて行く所を、一番街ゲート前で別れる瀬名さんに着いて行こうとしていた。 「ばいばい仁藤くん……ひとみちゃんも、無理しない程度に、いつでもお店においで……」 「うん! ありがとうなのぜ!」 「それではまたな」 「はい、お気をつけて」 「ばいばいなのぜ〜!」 ……そうして真緒さんと長内さんとも別れ、漸く瀬名さんと二人きりの空間を作る事が出来た。 「あたいのお家まで、一緒に帰ろうなのぜ!」 「はい、よろしくお願いします」 誘うならば今しか無いが……やはり誘い方が分からない。 俺が入っている組の組長と、これから会って頂きますと正直に話すか…… 家の母親が、瀬名さんにプレゼントを贈りたいそうです……その言い方では何だか怪しすぎる。 「住民票をもし取れたらあたい……そのまますぐに免許を取りに行こうと思ってるのぜ」 「あっ、そうなのですか?」 「うん! やる気がある内にとっとと取りに行っちゃいたいのぜな」 ……とりあえず着々とネット喫茶に近付いて行っている瀬名さんを、まずは呼び止めなければならない。 「……あの瀬名さん、少々お時間頂いて宜しいですか?」 「ん? 何なのぜ?」 「実は……これから貴方を連れて行きたい場所があって……」 ……その時。 「……あら大和じゃなぁい」 名前を呼ばれただけで心臓を掴まれるような感覚になる声…… 「……斬江さん」 その声の主である斬江は、朝の事務所にやって来る以外に滅多に外に出ている所は見た事が無いのだが……偶然通りかかったかのように、彼女はそこに立っていた。 中々誘わない俺に代わって、斬江自らが出撃しに来たという訳か。 「何してるの〜こんな所で」 「はい……今こちらの方を、お家までお送りしようとしていた所です」 「あなたは……瀬名ひとみちゃんね!」 「えっ、お姉さんあたいの事知ってるのぜ!?」 「あらお姉さんだなんて、お世辞を言うのが上手いわねぇ」 「わぷっ」 その直後、斬江は瀬名さんを抱きしめて、自身の大きな胸に彼女の顔を埋めさせた。 「この大和から、あなたのお話をよく聞かされているのよ〜」 「そっ、そうなのぜか……お姉さんは、やまちゃんとはどういう関係なのぜ?」 「この方は……この街で暮らしている際に色々と面倒を見させて貰っている、いわば育ての親のような方です」 「てことは……やまちゃんのママなのぜなっ!」 「はぁい、大和のママでーす」 いつものふわふわしているような性格で、瀬名さんに俺の優しい母親だという印象を与えている斬江。 ……これならば彼女の正体も、瀬名さんに悟られる事は無さそうだ。 「そうだひとみちゃん、これからお家に来ない? 大層なおもてなしは出来ないけれど、お菓子ぐらいなら出せるわよ〜」 「えっ……でも、こんな夜遅くにお邪魔しちゃって大丈夫なのぜ?」 「いいのよぉ、何なら今日は私の家に泊まっちゃう?」 「ええっ!?」 「それが良いかと……俺もちょっとした軽食ならお出しします」 「えっと……」 何だか斬江の詐欺の第一段階のような手口に、俺も加担しているようで嫌な気持ちになる。 ……そう、もしかしたら斬江は、これから瀬名さんを東宝ビルに誘い込み、彼女の弱い立場を利用して優しくした挙句、代償という罠にはめようとしているのかもしれない。 ……そう思うと先程までは、瀬名さんを東宝ビルに連れて行かなければと思っていたのに、今では瀬名さんが東宝ビルに向かうのを、止めたいという気持ちの方が強くなる。 「……それじゃあ、お邪魔しようかな」 「そう言ってくれると思ってたわ〜……あっ、ここに泊まる方のお金は大丈夫?」 「大丈夫なのぜ! お金は後払いだから、今日泊まらなかったら今日の分のお金はかからないのぜ!」 「……でも荷物の方だけ取りに行って大丈夫なのぜ?」 「はぁい、行ってらっしゃ〜い」 「……」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「わぁ……広いお家なのぜ……」 「ふふふっ、面白いような物は何も無いけど、どうぞ自分のお家だと思って寛いでね〜」 「えへへ……お邪魔しますのぜ」 ……それから東宝ビルの斬江の部屋にやってきた俺達。 斬江は少し緊張気味になっている瀬名さんの背中を撫でながら、部屋の中を案内してやっていた。 「……そしたらひとみちゃんにはどこで寝て貰おうかしら〜、やっぱりベッドがいいわよねぇ」 「ええっ!? ソファとかだけでも全然……泊めさせて貰えるだけでありがたいのぜな?」 「気なんか使わなくていいのよ、ひとみちゃんはお客さんなんだから……ダブルベッド一つしかないけど、私とでいいなら一緒に寝る?」 「えっと……そうしようかな、あはは……」 「お風呂の方はどうする?」 「おっ、お風呂は! お家の方でシャワーを浴びてきてるから大丈夫なのぜ!」 「あらそうなの、じゃあ私だけ入って来ようかしらぁ、それじゃあまたねぇ」 「行ってらっしゃいなのぜ!」 ……一方その頃、俺はリビングにてテーブルを拭き、瀬名さんに食べさせる為の手作りの菓子を並べようとしていた。 「……やまちゃん何してるのぜ〜?」 「あぁおかえりなさい瀬名さん、来客用に何を振る舞えばいいか分からなくて……パンケーキを作ってみたのですが、如何ですか?」 「ええっ!? あたいの為に作ってくれたのぜ……?」 「はい……黒百合の方でご飯は既に食べられていましたよね、お腹の方は大丈夫ですか?」 「全然大丈夫なのぜ! いただきますなのぜ!」 「よかったです」 そうして瀬名さんをソファに座らせて、俺も隣に座り、早速俺や斬江の分も作っておいたパンケーキの味を確認してみる。 「んっ……! 美味しいのぜ〜! 焼き加減が丁度いいのぜ!」 「良かったです。 お菓子を作った事はあんまり無かったので……」 「やまちゃん、確かお家にいる時は朝ご飯当番なのぜな?」 「はい、朝ご飯にデザートをつける事も無いので……」 「でも美味しいのぜ! よく出来てるのぜ!」 「ありがとうございます」 美味そうにパンケーキを頬張る瀬名さんを見て安心し、俺はミルクティーを一口飲んで心を落ち着かせる。 「……わああっ」 すると瀬名さんは、窓から見える夜景に視点を合わせると、パンケーキが乗った皿を持ったまま窓へと近付いて行った。 ……俺も後に続き、片手を窓に当てて景色を眺めている瀬名さんの横に立つ。 「凄いのぜ! 東京の景色全部見えちゃってないのぜ!?」 「はい、流石に新宿の中でも結構なお値段がするお部屋なので……」 「そういえば、あのお姉さんはやまちゃんのママみたいな人なのぜな?」 「そうですよ」 「ならやまちゃん、ここにいるお姉さんと一緒に住んでないのぜ?」 「それは……偶に泊まりに来たりはしていますが、それ以外の朝は基本的にいつも寝泊まりしている家で、朝ご飯を作らなければいけないので」 「あっ、そういう事情なのぜな……あっ、急にごめんねっ、お皿持ったまま歩くなんてお行儀悪いのぜ!」 「瀬名さん、ご緊張されていますね」 「うん……人のお家には、滅多に入らないから……」 「大丈夫ですよ、まずはお席に戻りましょう」 「うん……」 それから瀬名さんと席に戻り、今度は借りてきた猫のように大人しくなり、パンケーキを無言でパクパクと食べ始めた。 「今日もお仕事疲れたのぜな〜」 「それはそうでしょう、パンケーキを美味しく感じて頂けているのは、瀬名さんがお仕事を頑張ったおかげです」 「えへへっ、明日もこうして美味い物が食べられると思うと、お仕事も頑張っていけるのぜ!」 「なるほど……目標、でしたっけ」 「そうなのぜ! 目標があればやる気も出るし……住民票の事を聞きに行く用事も出来れば、それもやらなきゃって思うのぜ!」 「……それで瀬名さん、仕事終わりも元気なのですね」 「えへへっ、元気って訳じゃないけど……疲れたって思っても、更に疲れちゃうから……」 「……分かります」 それから瀬名さんはすっかり落ち着いた様子でふふっと笑い返すと、パンケーキが無くなった皿をそっとテーブルの上に置いた。 「……あとね、その目標はやまちゃんでもあるんだ」 「えっ……俺が、目標ですか?」 「明日やる事の目標とはまた違うけどね……やまちゃんの事は歳上として、お兄ちゃんとして、先輩として憧れてるのぜ」 「そう、ですか……?」 「うん、あたいと同じで毎日お仕事してるし……疲れても頑張ってて……親近感ってやつかな」 「俺、そんな感じに見えてました?」 「……違ってたらごめんなのぜ! でも、そんなやまちゃんが新しく手に入れた目標が、きっとあのバイクなのぜ」 「バイクであたい達の前にやって来た時のやまちゃん……凄い楽しそうだった」 「……」 「そんなやまちゃんを見て、あたいもバイクに乗れば色んな目標が出来て楽しめると思った……ただのモノマネって言われたら、そうかもしれないのぜ」 「でもこの間も言った通りお出かけ自体は好きだし、バイクに乗ってどこかに行くっていう目標をやまちゃんも持ってるだろうから……一緒に頑張れてる感じがして楽しいのぜ!」 「瀬名さん……」 「……だからこそ、その事に気付けたからこそ、住民票が取れないからってだけでバイクに乗るのに諦めたくないのぜ!」 「……そうですね、俺も瀬名さんとツーリングしたいですし、応援しています」 「うん! 頑張るのぜ!」 ……無数に広がる、社会人達の魂輝く夜景の煌めきに負けないくらいに、瀬名さんの目は希望に満ち溢れていた。 それに圧倒されるも、これからその輝きを濁らせてしまう事になるかもしれないと、斬江に対しての不安を思い出す。 ……そうなればどういう対策を取ればいいのか、分からなくなっていると待つ筈も無く彼女は戻ってきた。 「……その意気よ〜ひとみちゃん」 「あっ、お姉さんおかえりなのぜ!」 「……そしてそんなひとみちゃんに、私からプレゼントがあるのよぉ」 「ん? 何なのぜ?」 「それはね……あなたに住所を貸してあげるの」 「……えっ?」
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