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……翌日。
俺は皆が寝ている中、寒い今の冬では陽が顔を出していない朝四時に、自分だけが起きて台所に行き皆の分の朝飯を作っていた。
今日のメニューは鮭のムニエル、サラダ、味噌汁、米……
鮭のムニエルは魚料理なのに骨が少なく、手軽に栄養を補給できる朝飯にとっての定番である。
部屋住み時代から、俺はこの事務所での料理担当だ。
中世時代の貴族並に、料理の味に五月蝿い兄貴達に、散々指摘されたお陰で料理の腕は鍛えられており、俺も多少の自信があった。
俺は炊飯器のスイッチを押して、味噌汁が入っている鍋に火をつけ、フライパンにも火をつけバターを溶かし鮭を焼いた。
するとその音と、そこから出る香りで反応したのか次々と兄貴達が起き出してきた。
昨日は遅くまでシノギをしていたのだろうか。
「……おはようございます」
「……ああ」
兄貴達はそれぞれトイレに行き、顔を洗った後に皆眠そうな顔をしながら事務所の中央にあるテーブルの席につき俺の朝飯が来るのを待っていた。
……数分後、俺は朝飯を完成させると、冷蔵庫から麦茶を出して朝飯と共にテーブルに運び、それぞれが座っている前に箸を置いた。
「お待たせしました……今日のメニューは鮭のムニエルです」
「おお、美味そ〜」
将太さんは箸を取ると米が入った茶碗を片手に箸で鮭を割ると美味そうに食べた。
「ふん……まぁまぁだな」
「ありがとうございます。郷さん」
「おい大輝、醤油取れ」
「はいケンさん」
……面倒な事に兄貴達はそれぞれ好きな味付けのタイプが全く違う。
ケンさんは辛味、郷さんは甘味、大輝さんは酸味のある味付けを好む。
なので、同じ料理でも毎回一つずつ違う調味料を使って味付けをする必要がある。
将太さんは美味ければ何でも良いらしい。
それぞれの鮭に上手く味付けが出来ていたたのか、今日は誰にも指摘される事無く朝飯の時間を終える事が出来そうだ。
俺達は斬江が来る前に朝飯を食べ終わり、俺は一人テーブルの食器を片付けて洗うと、昨日と同じように所定の位置につき斬江の到着を待った。
……誰かが階段を上る足音が外から聞こえてくる。
「おはよう〜」
「おはようございます!!」
……俺の借金返済生活三日目が始まる。
朝礼が終わり兄貴達は、今日の仕事場所に向かう為にそれぞれの違う方向へと出掛けて行った。
俺は布巾でテーブルを拭いていると斬江が声を掛けてきた。
「大和、今日のシノギの場所、どこだか分かってる?」
「はい…確か、黒百合の使徒でしたよね」
「そうそう〜、賄いも出してくれるみたいだから、夕方までうんと働いてきなさい」
俺の仕事は毎回斬江が決めている。
今日は黒百合の使徒という、あずま通りにあるバーで働く事になっていた。
俺も斬江も、そこのマスターとは知り合いで昔からの行きつけの店である。
「じゃあ…行ってきます」
「はい、行ってらっしゃ〜い」
……そうして斬江に見送られ、事務所から出て階段を下り、今日も花道通りへと仕事が始まる事を意味する、最初の一歩を踏み出した。
夜が明けたばかりの花道通りは、深夜とは違い人も少なくなり、道のあちこちで酔い潰れた居酒屋帰りの客が壁によりかかって寝ていた。
俺達は余計な会話をする事も無く、黒百合の使徒があるあずま通りの方へ歩き出した。
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時刻は朝の九時、俺達は黒百合の使徒の前に着いた。
黒百合の使徒……黒い下地に赤い殴り書きのような文字で書かれた店の看板には、いつ見ても禍々しさと不気味さを感じる。
バーが開くのは午後の六時からで、入口のドアの前には準備中の札が立てかけられていた。内側にはカーテンが掛けられてあり、中を覗く事が出来ない。
ひとまずドアをノックし、中にいる店の人間を待つ。
暫くするとカーテンが開き、中からワイシャツに黒のネクタイ、その上から黒いベストを身につけ、下にはこれまた黒色のパンツを履いた、身長が二メートル近くある筋肉質のスポーツカットの男が出てきた。
「あら、いらっしゃあい」
厳つい見た目と、蕩けるような口調が合っていないその男の名前はブルヘッドさん……本名を牛沢剛さんと言う。
この黒百合の使徒のマスターを務めているニューハーフである。
「よく来たわねぇやまちゃん。 今日のお仕事、しっかりサポートするから一緒に頑張りましょうねぇ」
「はい……宜しくお願いします」
「ふふっ……五年前の時は可愛かったのに、極道の世界に入ったからなのか、やまちゃんも怖くなっちゃったわねぇ」
「……すみません」
「大丈夫よぉ、謝って欲しくて言ったわけじゃないわぁ」
そういうとブルヘッドさんは俺の頭をくしゃとくしゃの撫で回した。
ブルヘッドさんは斬江同様に何故俺がこの街にやって来たのかを知っており、俺の正体を知る数少ない人間の一人だ。
「それで……バーでの仕事とは、一体何をするのですか?」
「店が開くのは、夕方辺りからだった筈では?」
「ああ、内容は後で説明するわ。とりあえず寒いし中に入りましょ」
そう言うとブルヘッドさんは俺を店の中に入れた。
「……失礼します」
店内は看板の禍々しさとは違い、全体的にミリタリー系のインテリアで統一されている。
店の奥まで続く縦長のカウンターの壁には、ハンドガン、マシンガン、ショットガンといったモデルガンが沢山掛けられていた。
……ブルヘッドさんは昔アメリカ陸軍の少佐を務めていた元軍人である。
彼曰く、軍人時代にアメリカでよく通っていたバーを再現したかったらしく、このバーのマスターに決まりこの店に来た時、このような内装にリフォームしたそうだ。
初見でこの店に来た者は、ここはバーではなくガンショップでは無いのかと勘違いしてしまう事であろう。
……因みにブルヘッドと言う名は、軍人時代に仲間の隊員達から呼ばれていた渾名から来ているらしい。
「じゃあ早速お仕事始めましょうか……その前に今日からこのお店で働く事になった女の子を紹介したいの」
「?……どなたですか?」
ブルヘッドさんは、いつも一人でこのバーの中で仕事をしていた筈だった。
長い間彼一人しか働いてなかったと思ったこのお店で、春からの新生活でも無い今のタイミングで新しい人が入るのか。
「ちょっと待っててね、もうすぐここに来ると思うから」
ブルヘッドさんはそう言うと、カウンターの奥にあるスタッフルームの方を見た。
するとその扉の中から彼と同じ、黒いネクタイに黒いベスト。下は黒のスカートに同じ色のニーソックスを履いており、上から緑色のエプロンを着けた、緑色のふわふわとした髪型の女が出て来た。
「ブルちゃん、お待たせ……えっ……」
女は俺に気づいた途端、近くにあった柱の後ろに隠れてしまった。
「あらあら」
「……あの方がそうですか?」
「そうよぉ……ごめんねあの子、人が苦手で……怖くないから、こっちにおいで」
「んっ……」
女はブルヘッドさんに呼ばれると柱から全身を出して、とぼとぼと下を俯きながらこちらに歩いてきた。
女は光沢が無い、死んだ魚のような目をしており、顔も人形のように無表情だ。
その黒く碧色の目は、ずっと見ていると、その闇に吸い込まれそうになる程に滲んでいた。
……いわゆるレイプ目という奴である。
一昨日の帝真緒からも俺の目は、今思った事と同じように見えていたのだろうか……
「やまちゃん紹介するわ。この子は長内千夜ちゃん。今日からここで働く事になった、貴方と同い歳の女の子よ」
「ちーちー? この子は仁藤大和ちゃん。今日だけここで貴方と一緒に働く事になっている皇組の男の子よ」
「初めまして……長内千夜です……」
ブルヘッドさんにちーちーと呼ばれたその長内千夜という女は、俺が今日一日限定の仕事仲間だという事を知ると、こちらに向かってきてぺこりとお辞儀をした。
……その女の話す速度は遅く、聞いているこっちまで眠たくなりそうなレベルだ。
「……仁藤大和です、宜しくお願いします」
「宜しく……仁藤くん……」
無事に何事も無くこの二人を対面させる事が出来たと安心したのか、傍に居たブルヘッドさんは、にこにこと満面の笑みを浮かべていた。
「じゃあお互いの自己紹介も終わったわねぇ。 やまちゃん? 裏に行って貴方も私のような格好に着替えて来なさい」
「了解しました」
俺は裏に行き、ブルヘッドさんが着ていた服と同じ物に着替えると、カウンターに戻り長内さんと共にこれから行う仕事の指示を受けた。
「じゃあまずは朝の掃除ね、これを使って床やカウンターを拭いたりはいたりして頂戴」
ブルヘッドさんは俺達に箒とちりとりと雑巾を渡すと、自分は裏で発注の仕事をするからと事務所の方へ入って行った。
誰もいないカウンターに二人……どこから掃除をすればいいのか聞くのを忘れて呆然としていた俺達。
そこで俺は手分けして掃除を進めていく事を提案した。
「では俺は、床の掃除をしますね」
「分かったわ、じゃあ私は……カウンターの掃除をするの……」
「お願いします」
長内さんは見た目通り普段から無口な性格なのか、俺と余計な会話は一切しようとせず、ただひたすらに黒いカウンターの上を布巾で拭いていた。
俺もただ黙って床に落ちている埃や塵を箒で集める。
……その後、俺は先程から何回も長内さんからじっと見られている事に気づく。
あの不気味な視線は長内さんに背中を向けていても、俺は今見られていると感じる事が出来た。
「……俺に何か用ですか?」
「っ……ごめん、なさい……」
今度は俺の方から長内さんに向かって視線を向けると、彼女は目を逸らして自分の作業を再開した。
すると長内さんは俺の事をじっと見ていた事に対しての理由を説明し始めた。
「……私、この街には来たばかりなの……周りの人達は、皆大人ばかりで……」
「私と同じ歳の男の子が、この街にはいたという事に……少し安心していたの……」
「……どこからいらしたのですか?」
「アメリカよ……」
「アメリカ……そんな遠くから……」
アメリカ……という事はブルヘッドさんと一緒に日本のこの街にやって来たのだろうか。
アメリカからやって来たという割には、長内さんの顔は外国人の血が入っているような顔ではなく、どう見ても日本人顔である。
「ブルヘッドさんとは、どういうご関係なのですか?」
「簡単に言えば……命の恩人……」
「まだブルちゃんが軍隊にいた頃、まだ幼かった頃の私を助けてくれたのよ……」
アメリカ、軍隊、命の恩人……
その三つのキーワードで、この女の過去に一体どういう事が起きたのかは何となく想像がつく。
「……なるほど、とにかく歌舞伎町で出歩いている人達に対して、あまり注目しない方がいい方がいいですよ」
「……この街では目を合わせただけで、喧嘩を売られたと思って突っかかって来る人達が大勢にいるので」
「ありがとう……気をつけるわ……」
礼を言った後に、我に返るようにカウンター掃除を続ける長内さん。
……それにしても何故、彼女はよりにもよってこの街のこの店に来たのだろうか。
俺同様に命を救ってやったんだから、その恩をこの店で働いて稼いだ金で返せという事なのだろうか。
「仁藤くんは、どうしてこの街にいるの……」
今度は自分の質問のターンというばかりに、互いの作業を続けている中、長内さんは俺にそう尋ねてきた。
「……話せば長くなります」
「そうなの……」
……実際に今も、俺の胸元にはピンマイクが仕込まれている。
現在進行形で長内さんとの会話を斬江に聞かれていた俺は、本当の事を言えるはずもなくそう誤魔化した。
会話はそこで止まり、俺と彼女は再び黙って掃除を続けていると、発注を終わらせたブルヘッドさんが扉の向こうからやって来た。
「二人とも終わった〜? あらぁ、大分綺麗になったじゃな〜い」
ブルヘッドさんの片手には、注文した商品が記載された明細表のようなものが挟まれてあるボードを持っていた。
「んぅ、おかしいわねぇ……確かに昨日注文したはずなんだけど……」
「まあいいわ、ちーちー? 悪いんだけどこのお金でそこのドンキ行って、ガムシロップが沢山入ってる大きな袋みたいなのがあるから、それ買ってきてくれないかしら?」
ブルヘッドさんはそう言うと、財布の中から千円札を出して長内さんに渡した。
「んっ、分かった……」
「あとやまちゃんも一緒に行ってらっしゃい」
「……えっ、俺もですか?」
「あんたねぇ……こんな女の子をこんな物騒な街に一人で出歩かせる訳にはいかないでしょう?」
「……?」
一緒に行くの?
長内さんは俺にそう聞いているかのように首を傾げながら、こちらをじっと見つめていた。
なら最初っからこんな物騒な街にあるバーで働かせるな。
俺はそのように言いたかったが、まだ開店しない店にいても暇だろうし、結局彼女と一緒にドンキホーテに行く事にした。
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……時刻は既に正午を回ろうとしていた。
俺と同じように歌舞伎町で働いている者達は、皆どこかに昼飯を食べに行こうとあちらこちらを行き来していた。
「凄い人……」
「逸れないように気を付けなければいけませんね……しっかりと俺の後に着いてきてください」
「うん……」
……長内さんを連れて、俺達はあずま通りから靖国通りに出る道を右に曲がり、その先にあるドンキホーテに向かっていた。
「仁藤くん……私達、さっきから誰かにつけられている気がするわ……」
「……振り返らないで。 そのまま歩き続けてください」
途中で長内さんは、先程から俺達の事をつけてくる者の存在に気づく。
……斬江の命令により動いている俺の監視役の組員である。
俺が事務所から黒百合に行っている頃から尾行していたのか。
俺が黒百合の中にいる間もずっと張り込んでいたのだろう。
とにかく一般人に、その者の存在を知られてしまうと色々と不味い事になりそうだ。
……俺は彼女に、その者の事は無視をするように注意を促した。
「……着きましたね」
「うん……」
ドンキホーテ新宿歌舞伎町店。
ここのドンキは遠くから見ても目立つ大きな看板が特徴で、待ち合わせ場所としてもよく利用されている。
都心にある店舗なだけあって、ここに来れば大抵の生活必需品は揃う。
俺達は後ろから着いてくる監視役の事を気にしながらも、ガムシロップを探すべく店内へと入った。
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店内はドンキでお馴染みのビージーエムが流れており、都心にあるディスカウントストアとは言え、あまり広くはないが縦に長く伸びている。
歌舞伎町から外側の道に面している店の為に、町内から来た客、サラリーマンの他にも……
ただ単純に新宿に遊びに来た感じの堅気の人間達、更には観光でやってきた外国人観光客も沢山いた。
「ガムシロップ……ガムシロップ……」
入口から入って、右側にある案内図を見てガムシロップがありそうな階を探す長内さん。
「……この日用品って所にあると思いますよ」
「そうかも……」
その日用品コーナーは一階にあるらしく、俺達は沢山いる堅気の者達に避けられながらも、店内の奥へと進んだ。
「……ありましたね」
「一袋五百円……結構する……」
「業務用のものでしょうから」
小型のゼリー容器に入ったガムシロップ百個分が入った袋を、長内さんは両手に抱えて持とうとしていた。
「んっ、落ちる……」
「これをお使いになってください」
俺は傍にあったカゴ置き場からカゴを取ると、彼女が持っている袋の下にカゴを入れて、そのまま落とすように中に入れさせた。
「ありがとう……」
「……ではレジに向かいましょう」
俺達はレジへと続く行列に並び、ガムシロップが入った袋を五百円で購入して、ドンキホーテを後にした。
俺達は靖国通りからあずま通りへと元来た道を戻っていく。
「……」
「……」
……特に会話する事も無く、長内さんは向こうから来る通行人の邪魔にならないよう、俺の後ろから着いて来るような形で歩いていた。
……途中、ドンキの黄色いレジ袋を一人で持っていた俺に気を使ったのか。
「今度は私が持つわ……」
と片手に持っていた袋を自分が持とうと、
俺の握られた拳を解こうとしていた。
ガムシロップが百個も入っているが、実際にそんなに重い物でも無い。
「大丈夫です……一人で持てますよ」
「そう……分かった……」
長内さんは本当に持たなくても大丈夫なのかという表情をしながら下を俯いた。
俺達は靖国通りからあずま通りに入る為に左へ曲がる。
……ふと前を見ると、向こうの方からスーツを着ている男達三人が、横に並んでこちらの方に歩いてくる。
ヤクザだろうか。
だが胸元に代紋が着いていない……という事はただのチンピラであろう。
いずれにせよ、すれ違いざまに肩にでもぶつかりでもしたらただでは返してくれなさそうな連中だ。
「そこをどけ、邪魔なんだよ」
と言いたい所だが、今の俺は組の代紋が着いたスーツを着ておらず、相手を威圧させるような事はまず無い堅気の格好をしており、自分が皇組所属のヤクザであるという事のアピールが出来ない。
俺はその者達と目を合わせないようにしつつ、ぶつからないように端に寄ってそのまま通り過ぎようとした。
視線を感じる。
お前達みたいな堅気の人間はそうやって黙って俺達みたいな奴に道を譲っていればいい、と俺の事を見下しているのかもしれない。
……だが、その男達は俺の方では無く長内さんの方に視線を向けていた。その表情はとても不機嫌そうである。
何だか嫌な予感がした。
チンピラの内の一人が長内さんの行く手を阻み口を開いた。
「なぁ嬢ちゃん。今凄い怖い目で俺の事睨みつけてたよね?」
思った通りだった。
長内さんもこいつらの事が邪魔だと思い、思うだけなら良いのだがそれに加えて睨みつけてしまったのだろう。
「あっ、俺も俺も。すんごい目つき悪かったよ?」
「なんか文句でもあるわけ? 睨みつけられても口で言ってくれなきゃ困るよ〜」
文句を言ったら言ったで、また別の理由で絡んで来るのがチンピラという生き物である。
チンピラ三人に囲まれて逃げ場が無い長内さん。
「あの、その……」
「とりあえずさ、俺達みたいな奴にガンつけたらどうなるか。分かるよね?」
「ごめんなさい……」
「お金払えば許してあげるよ。それかさ、お嬢ちゃん今から俺達と遊ばない?」
「だめ……今はお仕事中なの……」
「大丈夫大丈夫、お仕事早退する理由、一緒に考えてあげるからさ」
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
周りの大人達は、その状況を止めに入る者は誰一人としておらず、皆見て見ぬふりをして通り過ぎていくだけであった。
「あっ、誰?」
「ああこいつ、この嬢ちゃんの傍にいた奴だよ」
「マジか、嬢ちゃんと話してても全く会話に入って来ないから気づかなかったわ」
「仁藤くん……?」
今、長内さんを助けられるのは俺一人だけ。
仕方がないので男達と彼女の間に乱入して、長内さんの盾となり男達から守ってやる。
……どうやら俺は完全に空気として扱われていたらしい。
「すみません……この方の言う通り、今は仕事中なのです。 この方には、後でたっぷりと注意しておきますので」
「何? て事はお兄さんがこの子の代わりにお金払ってくれんの?」
「….…しかし貴方達も、道を横に並んで歩いてて、凄い邪魔でしたよ」
「へぇ〜、言うねえ!」
今の俺にはチンピラみたいな奴らに臆する事無く文句が言える強さがあった。
俺は既にこんな奴等よりも何倍も恐ろしい人間を知っていたからだ。
「……こんな人目が多い所だとあれだから、ちょっと裏行こうかお兄さん」
そう言うと一人のチンピラが俺の肩に手を掛けてくる。
これから三人で俺の事をボッコボコにしようかという事なのだろうか。
俺は大人しくそいつの指示に従った。
「にっ、仁藤くん……?」
俺は長内さんに目線を送ると、チンピラ三人と共に、近くにある人目のつかないビルの裏へと入っていった……
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「っ……」
……ビルの裏に着くと、肩に手を掛けていたチンピラが、俺をコンクリートの壁に向かって勢いよく押してきた。
チンピラ達はこれから痛い目に合って貰うと言わんばかりに指の骨を鳴らしてこちらを威圧していた。
店にも早く戻らなければいけないし、長内さんの事もあずま通りで待たせたままだし、一刻も早く終わらせよう。
俺はそう思い、持っていたドンキの袋を地面に置いた。
「お前さぁ、ガキの癖によく俺達みたいなナリの奴に生意気言えたよな」
「生意気も何も……俺は正論を言わせて頂いただけです」
「それが生意気だっつってんだよ!」
チンピラその一が走りながら俺の腹に向かって拳を飛ばして来た。
その拳は急所である俺の腹に狙いが定められていた。
まずはそこを狙い俺をダウンさせて、その後から三人でリンチにするという流れで進めようとしているのだろう。
「はぁ……」
「!?」
溜息をついた後、俺はその拳を躱すと、チンピラその一の横に回り、避けられる前に右膝で思い切りチンピラその一の腹を蹴り上げた。
「ごふっ……」
チンピラその一は声にならない声を出し、唾を吐きながらその場に倒れた。
その唾は俺の靴に少しだけかかってしまった。
「……チッ」
とにかく急いでいた俺はラッシュやコンボで徐々に相手の体力を削るのではなく、一撃で相手を仕留める必要があった。
「っ……この野郎!」
だが残りのチンピラ二人も、早々に決着を付けようと殴りかかってくる。
まず来たのは飛び蹴りを放ちながらこちらに迫ってきたチンピラその二。
「はぁ….…!?」
俺は前に繰り出された右足を掴むとそのまま後ろに引き寄せて、奴のバランスを崩させた。
……一体ずつ確実に一撃、もしくは二撃で仕留める。
俺はその状態でフックをチンピラその二の頭に喰らわせると、すかさず腹に向かって蹴りを入れた。
「ぐ……っ……」
どんな人間でも、腹に思い切り蹴りを入れられれば大抵の奴はダウンする。
残りはその二の援護に入ろうとしていたみたいだが……結局俺の一連の動きを見ている事しか出来なかったようだ。
「……後は貴方だけですが、どうされますか?」
「……てめぇ」
怠慢勝負になり、追い詰められたチンピラその三は懐からナイフを取り出した。
とっとと逃げてくれればいいのに、俺みたいな子供に負けを認めたくないのだろう。
「っ……」
「死ねやあああっ!」
そいつはナイフを上から斜めに振り下ろすように斬りつけながらこちらに走って来た。
俺は振り下ろされた腕を止めて、その腕を強く握りナイフを手離させると、そのナイフを拾ってチンピラその三に向けた。
「……」
「っ……!!」
最後の切り札も取られて、もう為す術が無いチンピラその三。
「……」
「チッ……覚えてろよ……!!」
そいつは俺の事を悔しそうに睨みつけると、悪役お馴染みの台詞を言い残しその場を立ち去った。
「……ふぅ」
とりあえず無傷で済んだのはいい。
……しかし地面に這いつくばって気絶しているチンピラ二人をこれからどうしようかと考えていた。
……その直後、通りの方からこちらにやって来る二人の足音が聞こえてきた。
「あーあー、派手にやったわね〜」
「えっ……どうして……」
足音の主は長内さんと、俺がチンピラに絡まれている間に店まで戻って助けを呼んでいたのかブルヘッドさんも一緒に来ていた。
長内さんは想像していたものと違う光景だったからなのか、表情は変わらずとも何となく驚いているように見えた。
「……どうやら助けは必要無かったみたいだけど、駄目でしょう! お仕事中に喧嘩なんて真似しちゃあ!」
ブルヘッドさんはそう言いながら、いつ付いたのかも分からない傷だらけの俺の顔を、ポケットに入れていたティッシュで血を拭き取りながらも叱ってきた。
「すみません……やむを得なかったので」
「私がこの人達に文句を言おうとして、目が合って……どこかに連れて行かれそうになった所を、仁藤くんが助けてくれたの……」
ブルヘッドさんに指摘をされるも、そのように弁護をしてくれた長内さん
「……そう、やるじゃないやまちゃん、でも、伸びるまでボコボコにする事は無かったんじゃない?」
「一発で終わらせました……そうでもしないと、何度でも刃向かって来そうだったので……」
ふと俺の手から、戦闘時にナイフにかすってしまったのか切り傷から血が流れてきて、ぽたぽたと地面に落ちた。
「仁藤くん、血が……」
「……いつの間に」
「まぁ大変! とにかく顔の傷も含めて治療が必要ね、さぁ急いで帰るわよ!」
ブルヘッドさんは俺が置いたドンキの袋を回収すると、俺は長内さんに手の切り傷を心配されながらも黒百合の使徒へと戻って行くのであった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「……っ」
「こら、男の子なんだから我慢しなさい」
俺は今、ブルヘッドさんとテーブルで向き合って座り、消毒液やらガーゼやらで治療を受けている。
「仁藤くん、さっきはありがとう……」
「あと、ごめんなさい……」
長内さんは俺の隣に座り、俺の右手に包帯を巻きながら礼を言いながらも謝ってきた。
「大丈夫です……今度からああいう人達に遭遇したら、目を合わせずにやり過ごした方がいいですよ」
「分かったわ……」
長内さんの方に向けていた顔を、ブルヘッドさんは絆創膏を貼る為に、自分から見て正面の位置に俺の顔を向けるよう調整をした。
「さてと、後は絆創膏を貼るだけね……これで良しと!」
「……ありがとうございます」
「うーん……治ったけど、とてもカウンターに立ってお客さんに見せられるような顔じゃないわねぇ」
俺は近くにある鏡を見て、自分の顔が今どんな状態であるのかを確認した。
顎に一箇所、左右の頬にそれぞれ一箇所、額に二箇所、合計で四枚もの絆創膏が俺の顔に貼られていた。
「……これは流石に貼りすぎなのでは」
「それぐらい、傷も多かったって事よ……よし、今日はもう帰っていいわよ」
「……えっ」
仕事が始まってからまだ四時間あまりしか経っていない……このまま給料を受け取っても五千円も満たないだろう。
今日のノルマも一万円。
それを稼ぐにはまだ半分以上もの時間で働かなければいけなかった。
「はい、これお給料ね!」
しかしブルヘッドさんは俺に給料が入っている封筒を差し出してきた。
「あの……まだ稼がなきゃいけないのでもっと働か
「いいからいいから、とにかく中を見てみなさいよ〜」
ブルヘッドさんの指示通り、俺は封筒の中身を開けた。
すると、その中には本来稼ぐ予定だった倍の額の三万円が入っていた。
「えっ……何でこんなに多いんですか?」
「ボディガード役を引き受けてくれた分よ。後チンピラの人達から、ちーちーを助けてくれた分もその中に含まれているわぁ」
「……すみません、ありがとうございます」
「謝らないの! その傷が治ったらまたいつでも働きにおいで、勿論お客さんとしても来てもいいからね」
「はい……」
俺は事務所に行き、着ていた服を脱ぐと元のスーツ姿に戻り、長内さんに外まで送って貰いながらもあずま通りへと出た。
「ごめん仁藤くん……傷を負うような事が無ければ、まだここで働かせて貰えていたのに……」
「気にしないでください……むしろお金を余分に頂いてしまって、こちらこそ申し訳ないぐらいです」
「また来て……待ってるから……」
「はい……お疲れ様でした」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
……その後、俺は別れ際に長内さんが浮かべていた表情を思い出していた。
彼女の表情は常に無であり、その影響もあって何を考えているのかも一切分からない。
……だがあの時の長内さんは、俺に対して寂しそうな目で見てくれていたような気がした。
彼女は元々、眉が少し太い八の字で、困っているような表情に見えていただけなのかもしれないが……
「どうしたのー?」
「あっ、いえ……少し考え事をしていただけです」
「ふーん……とりあえずシャーリーテンプル出来たわよ」
「……ありがとうございます」
「それじゃ乾杯しましょ」
「……はい」
「かんぱ〜いっ♪」
……そして今日もまた、俺はロイヤルメイデンにやって来て、飯田さんにシャーリーテンプルを作って貰って飲んでいた。
当然だが店にやってきた時は、将太さんや飯田さんは俺の顔に対して驚いていた。
「……それで、今日はどんなお仕事をしていたの?」
「今日は黒百合の使徒というバーで、仕事をしていました」
「くろゆりの、しと……? な、何だか凄いお店の名前ね……」
キャバクラとはキャバ嬢と酒を飲む以外にも、昼間で行った仕事に対しての愚痴などを、キャバ嬢に聞いてもらう場でもある。
周囲から他の客達の鳴き声や怒り声が聞こえてくる中……
「実は……」
「……ん?」
その者達程に感情的にはならなかった事だったが、俺も黒百合で起きた事を飯田さんに話した。
ブルヘッドさんの事、長内さんの事、チンピラの事……そもそも飯田さんは、黒百合の存在すらも知らなかったようだ。
「……そっかー、それで仁藤くん、そんなに顔に怪我してるのね」
「……はい」
「無茶しちゃってー……接客業でその様なら、確かに早退させられるわよ……」
「すみません……」
「にしても千夜ちゃんかー……あんたや私と同い歳なんだっけ?」
「はい」
「ふーん……」
今度は俺ではなく飯田さんの方が、何かを考えている表情を浮かべた。
「どうされました?」
「……いやーここで働いてる人達ってさ、皆私よりも歳上の人達でねー、同い歳の人がいないの」
「だから本人さえよければ、千夜ちゃんのお友達になりたいなーって」
頬を染めて目を逸らしながら、飯田さんは自身が考えていた事を告白してくれた。
「いいと思いますよ。 黒百合に行きさえすれば、長内さんともすぐに会えると思います」
「分かったわ、ありがとう……その千夜ちゃんとも会ってみたいけど、バー自体にも行ってみたいわ」
「そうなのですか?」
「うん! こういうキャバクラは基本わいわいしてて、賑やかなのはいいけど……」
「バーみたいな落ち着いた場所で、静かに飲むのも何だか大人じゃない!?」
他のキャバ嬢に接客をされている、酔い潰れている客を見た後、飯田さんはそう言って目をキラキラとさせながらこちらに振り向いてきた。
どうやら飯田さんは、そういう大人の場所に強い憧れを抱いているらしい。
……因みに彼女の手に握られているのは、シンデレラというノンアルコールカクテルである。
「大人も何も……今のあなたは未成年ですし、お酒も飲めないではないですか」
「うっさいわね……行くだけなら別にいいし、飲み物なんてお酒じゃなくても何でもいいじゃない!」
「……宜しければ、その時になったら俺もご一緒してもいいですか?」
「うん、それは勿論いいわよ。 仁藤くんもよくそのお店には行ってるのよね」
「はい」
「いつも何飲んでるの?」
「シャーリーテンプルです」
「あんた本当にそれ好きね……」
飯田さんが初めて黒百合に来た時の、長内さんの反応が何となく想像出来る……。
割とコミュ力が高そうな飯田さんと、コミュ障の中のコミュ障であるような長内さん。
長内さんも人が嫌いというわけではないであろうが、果たして二人は友達同士になる事が出来るのだろうか……。
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