空気読めない婆さん

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空気読めない婆さん

 あれは俺が中二の夏休み。おろしたてのアロハシャツ着て出かけようと、玄関で靴を履いてたら、タイミング悪く婆さんに見つかっちまった。 「ちょっと銀ちゃん!」  ああ、もう! 今から出かけるって時に。 「そのシャツ!」  婆さんは驚いたような顔で、俺のアロハを指差す。  あんだよ、派手だとか小言でも言う気か? これはアロハっつってもかなり控えめな柄なんだぞ。  そしたら婆さん、「イイじゃないのさぁ」って満面の笑みで。上の前歯の金歯が光ってる。 「へ……?」  俺が拍子抜けしてると、「イイ柄じゃないのさぁ」とまだ言ってる。 「あ、あんがとよ」 「やぁ、イイ柄だねえ」。まだ言い続ける婆さん。  用件を言え。わざわざ引き止めた用件は?  「うーん。イイ柄、イイ柄」  用件はそれか? それを言いたかっただけか? 用は済んだか? まだ気が済まねえか?  婆さんがいつまでも同じ事言ってっから、俺は足止め食らったまんま。イライラする。江戸っ子は気が(みじけ)えんだよ。 「じゃあ俺、出かけっから」 「そうかい。車にゃ気を付けなよ」  婆さんはいつもこんな調子で、空気ってもんがまったく読めない。  ちなみに俺のアロハは黒地で、水墨画みたいな筆致で描かれた白い巻雲(けんうん)のような柄が、全体的に入っている。かすれ気味でありながらも力強いその白い波線は、なめらかにクネ、クネ、クネ、クネ、と来て最後にシュウッと払ったような描き方だ。  線が細くなったり太くなったりしているのは、一定のリズムで筆圧に強弱を付けながら運筆したからだろう。こうして筆圧を変えつつ同時に曲線を描いて、一つの意匠を一筆書きで描き上げられるようになるまでには、かなりの修練を要した事くらい素人の俺にだってわかる。  店先でこのアロハの柄に目を奪われた俺は、この名もなき匠の技に舌を巻き、その場で取り置きを頼んでからすっ飛んで(けえ)って母さんに頼み込み、お(さつ)握りしめて取って(けえ)してアロハをゲットしたって次第よ。
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