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「記憶の掃除、いらないんですか?」
男は目をぱちくりさせて訊き返してくる。
「はい。そりゃ嫌な思い出もあるけど、別に……そこまで酷くはないかなって」
てっきり男からは考え直すよう諭されるのかと思いきや、彼は意外とすんなり申し出を受け入れてくれた。
「そうですかそうですか!いやね、実は平野さまも同じく途中でキャンセルなさったんですよ!」
「え、先輩が?」
「そうなんですよ!元婚約者の事はもう何とも思ってないそうなんですが、元婚約者を通じて親しくなられた方と疎遠になるのが嫌だと仰って……おっと、口が滑ってしまいました。でもそういうわけですので、クリーニング権を回されるだけになさったんですよ」
「クリーニング権?」
初登場の単語に引っ掛かる。
男は「あ、ご説明まだでしたか!失礼しました!」と小さく頭を下げた。
「私共シアワセ・クリーン・サービスはクリーニング権を回された方のもとへ訪問しております。クリーニング権が回ってきた方にはご自分の記憶の掃除を確認していただいた後次の方をご指名していただきます。そのあと私共シアワセ・クリーン・サービスに関することも記憶から抹消させていただき、すべてが完了となります。ほら、時々ありませんか?モヤモヤしてた気分が突然スッキリすることや、何かは思い出せないけど、何かを忘れてる感覚が。そういった事が起こった時は、大抵私共シアワセ・クリーン・サービスが関与してるはずです!今回は平野さまが橋本さまにクリーニング権を回されましたので、本日伺った次第です!」
明朗な男の説明に、わたしは思わず納得してしまいそうになった。
いやいやいや、そんなファンタジーな話あり得ないのだろうけど。
でもこの男に対する警戒はいつの間にやら解けていたようで、私は持っていた催涙スプレーを靴箱の上にコトンと置いた。
「じゃ、用はもう済んだんですよね?」
「はい。あとは橋本さまが次に回される方を教えてくださいましたら完了です!」
「次……」
頭の中で周りの人を並べてみるも、特にこの人という人物を選べない。
すると、点けっぱなしだったテレビがニュースに切り替わり、画面には児童虐待のテロップが出ていた。
「………じゃあ、次は、あの子にします。親から酷いことされたみたいだから、本人が望むならその記憶を消してあげてほしい」
するとそれを聞くなり、男のニコニコ顔が蕩けるような微笑みに変わった。
「あなた達は、本当にお優しいんですねぇ……」
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