遁走

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 振り返った瞬間、頭からさぁ、と血の気の引く感覚、そして暗くなる視界。自分の身に起こったことに気づく前に、平衡感覚を失った私はドタリと派手な音を立てて板間に膝をついていた。カシャン、と鈴が地面に落ちる硬い音がやけに遠くに聞こえた。 「斎主様!」  みのりさんのハッとした声が聞こえる。音が止んでしまった。大事な、神楽の途中なのに。  立ち上がろうにも視界はグラグラと落ち着かない。地面に手をついても力が入らない。呼吸が、浅くなってくる。この状況にさらに焦る私の腕を、ぐいと無理やり引き上げられる。 「何をしている! この馬鹿者!」  声の主であるお爺様は、力任せに私を立ち上がらせる。足を踏みしめる感覚も遠く、周りの状況も把握しきれていない中、お爺様の声だけはやたら明瞭に、私の耳に届いていた。 「何故いつもしていることができぬのだ! 赤子ではあるまいし、お前は斎主としての責任をわかってない!」  ぐわんぐわん、と頭にその言葉だけが、響く。 「我々のお役目のために、失敗はできぬとあれ程言っていたであろう!」 「何故、(がい)のようにできぬのだ!」  最後の言葉で、頭から冷や水をかけられたような気分になった。  凱のように、兄さんのように、完璧に儀式をこなさなければならない。それが私のお役目だから。  でも、私は兄さんのようにはできない。私は、兄さんではない。  私は、兄さんには、なれない。 「じゃあ私じゃなくて兄さんにさせればいいじゃないですか」  ポツリと漏れた言葉に、お爺様はあからさまに顔を歪めた。口答えするのか、とでもいうように。 「私は兄さんにならないといけないんですか? それならば、“私”はなんだというのですか」  溢れ出した言葉は、感情は、止めどなくこぼれ落ちる。今まで我慢に我慢を重ね、積もり積もったものが、決壊した。 「私自身がここにいる理由は、意味は、一体なんだというのですか!」  大きな音を立てて、窓が開かれる。吹き付ける風が塊のようになって吹き荒れた。  私は、空っぽで何もない。ただ家に、神に奉仕する、そのためだけの存在。  それならば、私がここにいる意義は?  いてもたってもいられなくなり、腕を掴むお爺様の手を振り払い、外へ駆け出す。  お爺様の怒鳴る声も、みのりさんが私の名前を呼ぶ声も聞こえた気がしたけれど、それらを全部振り払って、走って、奔って、疾った。
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