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――ただいま。  無音がわたしを出迎えてくれる。  小学生の頃はこの静けさが妙に怖くて、すぐに家を飛び出していた。  でも、今は違う。  蛇口からシンクに零れる水滴の音も、車の走行音も、心地よく感じてしまう。  わたしは小さく溜息をつき、自室のベッドに飛び込んだ。  最近はどうしようもなく眠たくなる。まぶたにおもりが取り付けられているように、自然と閉じていく。    制服の袖をぎゅっと握る。くしゃりとしわが広がり、言いようのないむなしさが心の中に浸透していく。  まさに檻だ。幸福感も、充実感もこの制服は奪う。  もう体を目一杯まで使って死ぬように眠っていたころの充足感は訪れない。    スマホが頭の横で震えた。  重くなった手をどうにか動かし、画面を見つめた。    ラインの表示とともに、見慣れない名前がそこにあった。  寝ころんでいた体を起こし、壁に寄りかかる。 『X:あんなことしてよく生きているな』  次はラインか。  いつからこんなことが横行されるようになったのかは覚えていない。少なくとも、教科担任たちのつまらない自己紹介交じりの雑談があったころはなかった。初々しさが漂う日常では誰かを執拗にかまう余裕なんてない。あるのは必死に誰かが思い描いた中学生になろうという藻掻きだけだ。  でも、それは時間が経つにつれて崩れ去っていった。人は退屈という言葉が心底嫌いなのだとわかる。誰かが求めた中学生像なんて時間が経てば、必要のないことだとわかり、そうなれば自ずとひどく退屈するものだ。中学生は退屈しのぎにグループを作り、明確なヒエラルキーを築き始める。  もちろん、最初から目に見える形で変化しない。お互いの顔色を窺いながら、机の角度を数ミリずらすようなことが続く。そうなれば、この機微に気づく者もいれば、そうではない者もいる。  わたしは言わずとも、後者だった。今もそんな感じだったという漠然さの中で語るしかない。  そんなわたしが次の生贄として選ばれてしまった。  わたしが何をしたのだ、と怒鳴り散らしたくなるがそれは間違っていると今ならわかる。だって、わたしは何もしていないのだから。何もしていないからこそ、わたしは檻の外に投げ出されたのだ。  まさしく理不尽という言葉がしっくりくる。わたしとしてもこんな檻の中にいるくらいならと思って清々していた。が、檻の外側は思ったよりも広くて、自由で、絶望するほどの曖昧さに満ち溢れている。その輪郭のぼやけは、人を不安にさせ、さらには家という安心の場に留まらせてしまう。  だから、例外なく、わたしもそろそろ籠城を決めようかと考え始めていた。  ——あいつこなくなったな。  ゴールデンウィークが明けて数日たったころ、そんな声が教室の端から聞こえた。  それは慰めでも、心配でもない。あざ笑うような声はわたしの耳の内側にひどくこびりついた。まるでカビのように。  眠ったスマホの向こう側にわたしが映る。  腫れぽったい瞼は目を細くさせていた。  そんな姿にどきりとしたと同時に、明美の姿が浮かび上がってきた。  スマホが震える。 『明美:たくみくんたちすごく残念がってたよ』  言葉はどんな刃物よりも鋭く胸を突き刺してくる。 『X:過去にあったことは消せない』  私は目を伏せた。  遠くで小さな子たちが騒ぐ声が聞こえる。  過去という言葉が脳裏によぎるたびに、今までの自分が崩れていくように感じる。あの頃の自分に今のわたしを見せたらきっと驚くだろう。  なんだろう、過去って。  わたしは現実から逃げるように目を閉じた。
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