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 人々の流れとは逆行して歩んでいく。  いつもとは違う道を通り、見慣れない交差点の信号を渡り、しらない空気を吸う。  すべてが新鮮で、でも確かにいつも過ごしている街には違いない。  見る景色が反転するだけでも、こんなにも世界は変わるのかという妙な高揚感を胸にのせて目的地へと向かう。  檻から逃げたわたしは強い。そんな謎の自信が続くわけもなく、制服姿の二人がひそひそと話しているだけで心臓が飛び上がるし、結局人目を気にして何度も左右と前後を確認しながら知り合いに会いませんようにと祈って歩くから時間がかかる。    これほどの安全確認はさながら戦場の戦士を連想させるが、冷静に考えるとそこまでかっこいいものでもなかった。  むしろ、滑稽だ。    そう、悪態つきながら歩まなければ心の平穏が保てなかった。    というのも、昨日行ったフリースクールだけでも通えと執拗に迫ってくる母にうんざりして、車を出すからとまで言われ、流石にこれでは逃げられまいと思い、とりあえず玄関から飛び出したという次第だ。    無計画すぎてひとまず、フリースクールの方へと向かっていたのだが、近づくにつれてどうすべきか心が迷い始めていた。    このままさぼろうか。    そもそも通いますなんてわたしは一言もいっていないのだから、さぼるという表現はおかしいのかもしれないけど、小さな罪悪感が心の中で弾けている。    昨日れいさんはぶらりおいでと言っていた。    ちゃんと来るようにという強制的な感じではなかった。  だったら。  曖昧さはお腹の奥をずぎずぎと痛めつける。    自然のにおいが消えて、人のにおいが濃くなってきたころ、昨日入ったねずみ色の元校舎が見えてきた。    元という表現は昨日、母と受付の職員が話しているときに聞こえてきたワードだ。だから、ちゃんとどういう意味でそう言われているのかは知らないけど、今はもう使われていないとかそういうつまらない理由だろうからあまり気にしない。    目の前の信号が点滅する。  走れば渡れる予感はあったが、わたしの足は踏みとどまった。  車が目の前を行き交う。    また、檻の中に入り込むことに意味があるのだろうか。  ぼんやりと校舎を見つめてそう思う。  信号が青になっても、わたしの足は進もうとしなかった。    このまま引き返そう。  母に怒られるくらいならそれでいい。    ——なぁ、一緒にさぼらない?  頭の上から声がふってきた。    状況が呑み込めないうちに肩を叩かれる。  順番として逆だろというよくわからないところに突っ込みながら、わたしは状況を呑み込もうと振り返る。 「散歩なんてどうよ」  白髪は初夏の風によってほどよく靡く。  迷いなんて言葉を知らなそうな彼は美しく笑っていた。 「わたしはこれからあの学校に行かなきゃいけないので」  思っていることとは裏腹な言葉が零れる。 「それは知っているよ。だから、声かけたんじゃん」  知っている……?    理解が追いつかないわたしは必死に心の距離を置こうとしているのだが、白髪の彼は逃がさないと掴んでくる。    その感覚が懐かしくもあり、わたしの胸中をもやもやとさせた。 「なんで、わたしとなんですか?」 「理由なんて必要? 俺はさ、今日は別にあそこに行かなくてもいいんじゃないかなって思ったんだよ」 「いや、でも……」 「じゃあ、なんで信号渡んなかったんだ?」  彼の吊り目がさらに鋭くなる。  いつから見られていたのだろう。  黙れば黙るほどことを肯定してしまいそうになる。  でも、そんなことを言ってしまっていいのだろうか。 「俺もさ、ここに最初来た時、足がすくんだんだ。心ではさ、行きたいとか、頑張りたいとか、まぁ本当は母親がうるせーからしゃーねかと思ったんだけど、そうしたらさあの人はこう言ったんだよ『それなら散歩すればいい』ってね」  軽々しい口調がよりその言葉の重みを運んでくる。  わたしは言霊を信じてなんかいなかったけど、もしかしたらあるのかもしれないと思った。  でも……。 「いや、ちょっとぼっーとしていただけなので」  わたしの周りは嘘で塗り固められていく。   そうやって、周りと壁をたくさん築いていき、一人という世界に閉じこもるんだ。  信号が点滅する。  わたしは微かな後悔と共にそちらへ駆け出す。  しかし、わたしの行く手は阻まれた。  あの時のように。 「よりよく生きる道を探し続けることが、最高の人生を生きることだ」  目は彼の姿をとらえる。  自信満々の口元がゆったりと動いた。 「自分に嘘をついて生きることが間違いだとは言わねーが、そんな顔で行く場所ならやめるっていう選択肢もあるんじゃねーか? だから、今日は散歩でもして気晴らそーぜ」  手が差し出される。    それを握れば、何かが変わるかはわからないし、変わらないかもしれない。もしかしたら、もっと怖いことに巻き込まれる可能性だってある。  だけど、わたしはその手を掴んでしまったんだ。
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