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初夏の生ぬるい風が頬をかすめていく。
白髪の彼はカバンも持たず、ジーパンにT―シャツというとても学校に行こうとする人の様相ではないけど、わたしよりもずっと大人びて見えた。
それは背中が大きいからだろうか。
「あーそうえいば、自己紹介がまだだったな。俺は神田冬也。エルザではしっちゃんと呼ばれているからよろしく!」
「あっ、しっちゃん!」
自分でも驚くほどの声量が口から飛び出て、思わずその口を両手でふさいだ。
しっちゃんと名乗る白髪の彼はそんなわたしの様子を見て腹を抱えながら笑っていた。
そこまで笑うことないのに。
「なんか安心したよ」
しっちゃんは遠くを見つめた。
「あんな調子だったから、あそこに馴染めなくて大変だったのかなと思ったけど、その様子なら俺の心配も杞憂だったな」
いろいろと聞きたいことはあったが、頭の中に浮かんだ質問はなぜしっちゃんと呼ばれているのかということだった。
それをそのまま言葉として伝えると、しっちゃんは歩みを止めた。
「まぁ、そうなるよな。その前にきみの名前は?」
なんかはぐらかされた……?
「西谷志乃」
「あだ名は?」
「……のっちゃんです」
むず痒さを残す自分のあだ名はけして嫌なものでもなかった。
「あいつらなんでもちゃんを付ければあだ名になるって思っているなー」
声は確かに呆れているものだったのに、しっちゃんはどこか楽しそうだった。
「最初はなんのままごとだと思ったんだよな……そのあだ名をつけ合うの」
ゆっくりとまた前に進み始める。
「でもさ、こうやってしっちゃんとか、のっちゃんとか呼び合っていくうちにさ、いつの間にかしっくりきて、気が付いたらかかけがえのないものになったりするんだよな。まぁ俺の場合はそう単純なものではないけど」
そこまで言い切って、しっちゃんはゆったりと息継ぎをする。
「しっちゃんっていうのはさ、静かにしろっていうところからつけられたんだ。くだらないけど、要するにお前は余計なことを喋るなってことだな」
その言葉は他人ごとではなかった。
心に引っかかる言葉はいつも過去を連れてくる。もう忘れればいいだろうとわたし自身もそう思っているのだが、人間というのは不思議なものでその傷が大きければ大きいほど簡単に手放すことはできないのだ。
そして、今まさに心臓を鷲掴みされた。
「昔のことを考えるとさ、なんだか怖くなるよな。なんであんなに人に悪口を言って、嫌なことをしていたのかってね。だけど、あの当時は何もわからず、いや今だってわからないけど、でも確かに必要な時間だったんだろうな」
言葉という存在は本当に美しい。
耳に響く音たちは一つの塊となって、わたしの血肉になっていく。
どうしてしっちゃんが語る言葉たちはこんなにも繊細なんだろうか。
「俺にとっては必要なものだったからもしれないけど、傷つけられた人たちからすればたまったもんじゃねーだろうけどさ。そういうぬかるみに嵌ると人は、もう本当に何にも見えなくなっちまうんだよな」
過去を嚙みしめる表情に心臓を起こされる。
「なんで、こんな話をわたしにしてくれるんですか?」
「昨日、俺よりもこの本を見ていただろ?」
どこから出したか分からない本は身に覚えがあった。
「あっ、ソクラテスの人!」
「なんかすげー馬鹿にされている気がするんだけど」
彼はそう言って笑う。
「そんなことはないです」
感情のしずくがわたしの心に零れ落ちる。
あの十字架は一生背負わないといけないのに、そんなことを忘れてわたしは楽しもうとしている。
「そんな作り笑いするくらいなら笑わなきゃいいじゃん。疲れねーの?」
中途半端な笑みは彼の前では無力だった。
たじろぐわたしに、葉たちは陰を作って初夏の暑さを遮ってくれる。
「じゃあ、今日のミッション!」
わたしの頭にハテナマークが飛びだす。
「思いっきり笑うことだ、なぁ簡単だろ?」
街路樹の枝葉がお別れを告げるように音を奏でる。
再び、肩や頭にのしかかる暑さなんてどうでもいいほど驚いていた。
「驚くのは隠せねーな」
しっちゃんは笑う。
それは何の嘘偽りのない本物だった。
「驚いてなんかいません」
むきになる自分に驚きつつも、もうしっちゃんのことを見ていられず、反対側にある石塀を見つめた。
何も面白くはない。
「じゃあ、ミッション追加。敬語禁止で」
ぐつぐつと熱いものがせりあがる。
ずっと奥底に沈めて、固めて、閉じ込めて。
もう出さないようにしようと決めていたものが、忘れかけていた爽快感とともにわたしの体に働きかけてしまった。
もう無理だよ、こんなの。
せりあがってくる熱いものは嗚咽として飛び出ていく。
わたしの感情のねじはもう壊れてしまった。
「そうだ、泣きたいときに泣けばいい。この世界は強くあることが、優等生でいることが良いなんて評価するけど、それは真っ赤な嘘だ。感情に正直に、そして何よりも楽しんだもの勝ちなんだからな」
言葉が沈む。
もう止めようと思っても止まらない。
乾いたアスファルトを濡らす雨粒はわたしの真下で激しく降る。
「どう……したら……笑えますか?」
彼なら知っているような気がした。
「じゃあ、あそこまで競争な」
そう指差した彼は、坂に向かって駆け出していた。
呆気にとられながらも、右手で涙を払い、足に力をこめる。
生ぬるい空気がわたしに纏わりつき、それを一つ一つ取り払いながら、必死に前に、前へ足を運ぶ。
下に向けていた視線を前に向けた。
景色は晴れる。
灰色のコンクリートが消え、淡い緑色の木々が映り、燦々と照らしていた太陽がわたしたちの世界に彩りをもたらす。
心拍数が上がるのを感じる。
それは走っているせいだけではない。
歯を食いしばる。
数メートル先を走るしっちゃんの背中をとらえる。
その背中は風を切る音とともにどんどんと大きくなり、そして追い抜いていく。
今ならどこまでも行けそうだった。
いつぶりだろうか。
こんな気持ち。
坂を上りきって、足を緩めていく。
酸素を吸い込もうと息を荒げる
風が体から流れる汗を吹き飛ばしていく。
わたしは振り返る。
「わたしが一番だね」
「だから、走るのは嫌なんだ」
吊り目がより鋭くなっている。
「じゃあ、なんで?」
「笑いたかったんだろ」
何か変われそうな予感はこうやって通り雨のように突如として訪れるものだ。
わたしは笑った。
何も考えず、感情に身を任せて。
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