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二
長距離走というのは、一種の麻薬だと山崎は思っている。
最初は軽い苦痛を伴うが、一定期間やり続けていると、だんだん気持ち良くなってくる。そして慣れてしまうと、走らない日はまるでサボっているような気分になり、不安に襲われる。まさに麻薬の作用だ。
山崎は、勤務時間や非番の日はかなりバラツキがあるのだが、雨の降らない日は何とか時間を見つけて毎日10キロから20キロを走ることにしている。
一月中旬の寒い日、山崎は、朝食を終えた後、ジャージに着替えて家を出た。
走るのはいつも、市の真ん中を流れている川沿いの道。この道は、路肩が広く車通りが少ないので、走るにはなかなか適した場所になっている。そして何より、マラソン大会のコースにもなっているので、ここを走るランナーは昼夜を問わずかなり多い。
自宅から川沿いに下って河口付近の橋までがちょうど10キロの距離になっているため、休日はその道を往復して合計20キロを走ることにしている。
走り始めて間もなく、
「こんにちは」と背後から声を掛けられた。
振り向くと、男が10メートルほど後ろにいた。
「ああ、西条さん。こんにちは」と山崎は言った。
彼とはたまに、こうして走っているうちに合流して軽く雑談をしながら並走する。
知り合ったのは、4か月ほど前の夏の日だった。
その日も山崎はランニングをしていた。夏は、運動用パンツのポケットに小銭を入れて、喉が渇いたら途中の自販機でミネラルウォーターかスポーツドリンクを買うようにしていた。
夏真っ盛りのその日も、汗として全身から噴き出した水分を補充するため、自販機の前に立った。
しかし、ポケットをまさぐっても、小銭が入っていない。きちんと入れたたつもりになっていたが、忘れたのだ。
さて、どうしようか。ここから家までは10キロ近くになる。熱中症になったりはしないだろうか。ひょっとしたら、途中で倒れて死んでしまう可能性だってある。
そんなことを考えながら自販機の前で立ち尽くしていると、
「どうなさったんですか?」と声を掛けてきた人がいた。
自分と同じように、細身でランナーの格好をした30代らしい男だった。
「いえ……、ちょっと小銭を忘れたようで……」
きまり悪く山崎がそう言うと、
「あ、そうですか。もしよかったら、お飲みになってください」そう言って、腰のボトルポーチからミネラルウォーターのペットボトルを出して渡してきた。
「よろしいんですか?」
「ええ、私はもう今日のトレーニングは終わりですから」
「ありがとうございます。かならずお礼は致します」
ペットボトルの水を飲むと、生き返るような実感が足の先から頭のてっぺんまで満たされていく。
このようなきっかけで、山崎は西条と知己を得ることになった。
以来、顔を合わせると、雑談をしたり一緒に走ったりをしている。
「山崎さんは、次の大会に出られるんですか?」西条は走りながら言った。
毎年2月の第一日曜日、市主催のフルマラソン大会が開催される。アマチュアだけが参加する平凡な市民マラソンだが、近隣のランナーはこの大会で好成績を残すことを目標としている人が多い。
山崎もその一人だった。
さすがに20代のころのようには走れなくなっているが、それでも今の自分のタイムを知ることは、身体の現在位置を確認するひとつの指標になっていた。
「ええ、参加する予定です。西条さんは?」
「今のところ、未定ですが、なるべくやりたいなと思ってます」
「西条さんなら、かなりいいタイム出そうですね」
ともに走っていて実感するが、10歳ほど年下の西条の身体能力は、おそらく山崎より少し高い。本気で勝負をしたら、たぶん負けるだろう。
「それでは、わたしはこっちに行きますので。また」しばらく並走した後、そう言って西条は川沿いの道を右折して言った。
その先に、西条の自宅があるのだろうか。
互いに、私生活の深いところまではあまり話さない。山崎はいまだに西条が何の職業に就いているのかも知らない。
相手の職業を聞けば必然的に自分の職業を相手に明かさなければならなくなるが、警察官であることを告げると、余計な警戒心や好奇心を招くことが多い。だから、プライベートで薄く関わる人には極力職業を知らせたくないと思っている。
西条は平日の昼間にランニングしていることもあるので、土日も出勤して平日が休みのサービス業か何かだろうか。
パンツのポケットに入れていた携帯電話が振動と共に着信音を鳴らし始めた。
ディスプレイを見ると、県警刑事部からだ。
息切れする呼吸を整えて、電話に出る。
「お休みのところ、申し訳ございません。木澤ですが」
「どうした?」山崎は応える。
「事件です。南署管内の民家で、死体が発見されました。鑑識と機動捜査隊が出ていますが、死後数日は経過しているようです」
「刑事部長と課長は?」
「すでに知らせてあります」
初動で解決できないとなると、しばらくは事件にかかりっきりになる、山崎はそんなことを考えた。
「わかった。30分後にはそっちに行く」
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