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 二週間後の日曜日の朝、山崎は市の施設である総合運動公園の運動場にいた。  市主催のマラソン大会の参加者は500人。初心者もいれば、何度もこの大会に参加している常連もいる。  マラソン大会に参加するために休みをくれと言ったら、さすがに捜査一課長はいい顔をしなかった。捜査本部の事件が解決していないのに、そんな不要不急のイベントに興じる暇があるのか、という主旨のことを課長はいったが、なんとか説得して許可をもらった。  市長の退屈な挨拶が終わると選手はスタートラインに異動して、市役所の観光課長の合図により、42・195キロを走るレースが始まった。  山崎は最初から全力疾走に近い速さで走って先頭に立ち、そのまま3キロほど走ったところから徐々にスピードを緩めた。  そして視線をアスファルトの真上にやって、自分を追い抜いていくランナーの足元を見る。有名メーカーのシューズを履いている人もいれば、ふつうの運動靴とでも呼ぶべき靴を履いている人もいる。そのひとつひとつを、見逃すまいと走りながら観察した。  犯人は、N社の高級ランニングシューズを買うくらいの人間だから、普段から走る習慣があるに違いない。  ランナーは、本番と練習でシューズを使い分ける人が少なくない。本番では高級品を使い、普段のトレーニングでは履き潰しても惜しくないような安いものを使う。  本番用のシューズを履くときは、タイムを競うレースか、もしくは全力で逃げる必要のあるときだろう。  強盗殺人を犯したばかりの人間にフルマラソンを走るだけの心の余裕があるだろうか、とは思うが、今の自分の実力を知りたいと、ランナーなら誰でも思うはずだ。実力を知るためにベストな機会は、多くのランナーとともに走るフルマラソン以外にない。  きっと犯人は、N社のシューズを履いてこの大会に参加しているはずだ。  山崎の目に黄色いラインの入ったシューズが目に入ってきた。視線を上に向けると、それは小柄な女性だった。この女性の足のサイズが26・5センチということは有り得ないだろう。  それから10キロ以上を走ったころに、ふたたびN社のシューズが目に飛び込んできた。  視線を上げると、前腕のひじ関節に近い部分に、かさぶたになっているひっかき傷が付いている。  この男に違いない。  そう思って山崎はペースを上げ、横に並んで、男の顔を見た。  なんと、それは西条だった。  西条は練習のときは手首まである長袖のシャツを着て走っているため、むき出しになっている前腕を見たことはなかった。  西条は山崎に気づいて、 「あ、どうも。こんにちは。やっぱり参加されていたんですね」と少し息を切らしながら言った。  山崎は西条としばらく並走しながら、何をどう言えばいいものか逡巡していたものの、残り20キロとなったあたりで、 「西条さん、実はね。わたし警察官なんですよ」と言った。  西条はそれを聞いて、一瞬口を大きく開けて驚いたような表情になったが、 「へえ、たいへんなお仕事ですねえ」といつもの調子で言う。  山崎はさらに続ける。 「この前、強盗殺人が市内であったの、ご存知ですか? あの件、わたしが担当してるんですよ」  西条は無言で走り続ける。 「現場からは、犯人は手袋をしていたのか、指紋は一切残っていませんでした。でもね、足あとはきっちり残っていたんですよ。一般の方は、指紋は現場に残ることはご存知でも、足あとまで残ることを知ってる方はあんまりいらっしゃらないでしょうね。犯人はね、土足で被害者宅に窓から侵入していたようです」 「そうなんですか、怖いですね」ややぎこちない調子で西条が言った。 「足あとからは、靴の種類なんかも特定できるんですよ。……犯人が履いていたのは、あなたが今履いているのと同じ、N社のXR-0100Wです」 「………何が言いたいんですか?」 「先月頭あたりから、ひったくりが何件か発生しています。そのうちの2件が、犯人はXR-0100Wと一致する特徴のシューズを履いていたと被害者が証言しています。わたしの推理では、犯人は先月あたりから犯行を開始し、さらにエスカレートして空き巣を試みたが、家主に見つかったため、突発的に殺してしまった、と」 「それが、どうしたと言うんですか?」西条は不愉快な表情をして言う。 「被害者は犯人ともみ合った際に、犯人の前腕を引っ掻いたようで、爪のあいだから犯人のものと見られるDNAが採取されています。……まことに僭越ながら、西条さんには参考人として事情をお伺いすることになろうかと思います。今日のマラソン大会のゴール地点に、うちの部下を複数人待機させています。もし心当たりがあるようでしたら、自首していただけませんか? わたしはあなたに出会った夏の日にペットボトルの水をもらった恩義がある。自首すれば刑が軽減されることが見込めます」  西条は足を止めてその場に直立した。山崎を足を止めて振り返る。 「山崎さん、私が犯人だと思ってるんですか? 心外だなあ。私が殺人なんてするわけないじゃないですか」  西条はそう言うと、いきなり180度振り返って、こちらに向かって走っているランナーの流れを逆走し始めた。 「待てっ!」山崎は西条を追いかける。  西条はマラソンコースから外れて、民家が密集している路地に入った。蜘蛛の巣のように複雑に入り組んだ細い道を、走り抜けていく。さすがに早い。  山崎は必死に食らいついて追いかけた。  10分以上追い続け、西条の背後に伸ばした手が背後のゼッケンをつかんだ。  西条の身体がうしろに引っ張られた拍子に、ふたりは転倒した。  ふたりとも息を激しく切らしている。 「もう、逃げられないぞ」山崎はそう言って立ちあがる。  西条も立ち上がって、握りこぶしを右手に作って山崎に殴りかかってきた。  山崎は無意識に、その腕を抱えるようにつかむと、一本背負いをして西条を投げた。  アスファルトに背中を打ち付けられた西条は、痛みでひっくり返ったカニのようにもがいている。  激しく息が切れて、倒れそうになるのをなんとか踏ん張った。  柔道技で人を投げたのは、警察学校以来だった。とっさのこととはいえ、自分にそんなことができるとは。  無理矢理やらされていた柔道だが、あのときの経験がまだ自分に残っているらしい。 「暴行の現行犯で、逮捕する」  荒い呼吸が収まるのを待って、山崎はそう言った。 了
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