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第一話 今の楽しみ
世の中は当たり前のことであふれかえっている。歩けることが当たり前。呼吸することも当たり前。お金を稼ぐことも当たり前。生きることも当たり前。声を出すことも当たり前。文字を読んで書けるのも当たり前。そんな当たり前のことが出来ないと普通ではなくなってしまう。それでは普通とはいったい何なのか。世間的に出来ていることことが普通というのだろうか。
そんなことが幼い頃からの疑問だった。だけど、ごく一人の一般人の俺には到底わからないことだった。そしてそんな疑問は年を取ると共に薄れていった。
今や、人間と人工知能を持つ人型ロボットの見分けがつかないほどのロボットが街に溶け込んでいると言う噂がある。だけどそんなことは世間的に言う普通の人間である自分には関係のない話であって、正直、どうでも良い。
ただ、生きるために金を稼ぎ、生きるために仕事をする。そんな毎日をもう高校卒業から数年続けてきた。今の楽しみと言えば羽休めと言うカフェで働く佐倉詩織さんに会いに行っている時ぐらいだ。
特に話をするわけでもなく、目が合った事なんて数回ぐらいしかなくて彼女は俺のことに気づいてなどいないだろう。だけどそれでも良かった。ただ、一日の終わりに店で笑顔を振りまく彼女を見られればそれでいい。こんな事を言ったら気持ち悪いと思う人もいるだろうか。
そして今日も仕事終わりに職場の後輩順と店に足を運んでいた。
「いらっしゃいませ。いつもお仕事お疲れ様です。今日はお疲れのようなので甘いカフェオレはいかがですか?」
いつものように店に着き席に着くとと佐倉さんがそう言ってメニュー表を持ってきてくれた。てっきり俺の事なんて知らないと思っていたから固まってしまった。
「ちょっと先輩、何固まってるんすか。せっかく彼女が先輩のこと知ってたのに。ごめんなさい。先輩、女の人にあんまり免疫がなくて」
俺が驚いて固まっていると順がそう言ってくれた。佐倉さんも固まっている俺の返事を待っている様子で笑顔でこちらを見ている。
「え、あ、その。自分の事なんて気にもしていないと思っていたので少し驚いてしまって。カフェオレ下さい」
「かしこまりました。いつもはお店のちょうど混んでいる時にいらっしゃるのでおすすめも出来ませんでした。だけど、常連さんの顔はちゃんと覚えてますよ。宜しければお名前とか教えて頂けませんか?」
佐倉さんとこんなに話が出来て自分の名前まで聞かれるとは思っていなかった俺は緊張してしまってすぐに返事は出来なかった。
「先輩、しっかりして下さいっすよ」
順にそう言われてやっと自分の名前を伝えることが出来た。
「雨宮智紀さんですね。お名前、覚えました。ありがとうございます。これからも宜しくお願いしますね」
「はっはい。こちらこそ」
佐倉さんと話をしているとここの店長が佐倉さんを呼んだ。
「はい、今行きます。それではまた。雨宮さん」
佐倉さんはこちらに微笑むと業務に戻っていった。
「良かったっすね、先輩。彼女のこといつも見てたっすもんね。癒やされるとかいって」
「なっ。別に佐倉さんに癒やされてるのは俺だけじゃないはずだ。他にもきっといる。いや、絶対にいる」
順にそう言い切って水を一口飲む。
「きっとそうですね。だけど、それだと、ライバルがいっぱいで先輩は大変っすね」
「良いんだよ、それでも。俺はただ、佐倉さんを見て癒やされてるだけで満足なんだから」
そんな話をしていると、注文したカフェオレを持って佐倉さんがやってきた。
「お待たせいたしました。どうぞ」
笑顔の彼女に思わず見惚れてしまう。そんな俺に気づいた順が小さく笑った。
「ごゆっくりどうぞ」
「はい」
佐倉さんはそう言ってまた行ってしまった。本当に笑顔が可愛い佐倉さん。少しだけでも話が出来て幸せだと思った。
「本当に先輩は、お気楽っすね」
「いや、俺がお気楽なのは仕事が終わってからだ。年がら年中お気楽の奴よりましだ」
順の顔を見ながら意地悪な表情をしてそう言った。
「それはないっすよ、先輩」
順は自分のことだと気づいたらしくてそう言うと頭を搔いた。そんな順に笑って見せた。それから順と仕事の話をしながら二時間ほど過ごして家に帰った。
ー続くー
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