好きっていいたい 1

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好きっていいたい 1

 階下で遠慮がちにガラリと玄関の引き戸を開く音がする。……虎だ。  俺たちが住むこの家は年代物の古民家で、商業ビルやオフィスビルの林立する中心地から少し外れた下町にある。近年、レトロな雑貨屋や洒落たカフェが増えて、フォトジェニックな町として若い女性に人気があるようだ。  先に住み出したのは虎。藤丘虎(ふじおかとら)。俺、四室艶夜(しむろえんや)の一応……恋人。家主は寿司屋の元店主で、虎は何処まで本気なのか、今は賃貸契約のこの店舗兼住宅をゆくゆく正式に譲って貰うと言っている。  大晦日も夜遅くなると静かだ。  近所迷惑を考えて、いつも住宅地への路地を入るまでにエンジンを切る虎が、駐輪場に使っている一階店舗の玉砂利へ車体を入れる気配がする。降りようかと思ったけど読みかけの小説があと二頁でキリが良かったから、俺は自室のベッドを離れなかった。膝下を布団に突っこんで枕元のチョコレートをひと粒、口へ放る。 「冷やこいのぅ」  ミシと軋む廊下の方で声がして、背を丸めた長身がのっそりと襖を開けた。今朝、見送った俺でさえ、そのダウンジャケットの黒々とした威圧感にギョッとするのだから、視界の悪い夜に表の曲がり角で出くわしたりしたら、さぞ怖いんじゃないかと思う。 「ただいま、艶夜。起きていたのか」 「おかえり、久しぶりに聞いた」 「何が?」 「虎の方言」 「ぉ?……おぉ。外、めちゃ、さみーよ」  照れ臭そうに笑って腰を折った虎が、俺の身体には触れないように唇にキスをした。相当、身体が冷えていて俺に移すまいとしたのだろうけど、近付いた顔から冷気が伝わってくる。袖を引くと夜露か雪か湿っていて、両腕に抱き寄せたら驚いたのか虎は僅かに腰を引いた。 「ちょっ、いつになく積極的なの嬉しいけど、俺、冷えてっから」  だから、抱きしめてる。  だから、抱きしめてる。  だから……、  グシュンとクシャミが出て、カッコつかない俺を虎は大笑いして押し離した。 「だから、言ったじゃん」 「……、お茶でも淹れるよ」 「先に風呂入ってくるわ」  余程、外は冷えていたらしい。  虎がいなくなると、部屋の空気が一段と冷たくなった気がする。今年もあと二時間を切った。  湯上りの虎を待って、下の和室で緑茶を呑む。  炬燵(こたつ)に蜜柑、テレビでは歌合戦がもう終盤で、時折、ヒュォオオと強い風が小さな中庭の方で硝子戸を震わせた。実家暮らしの学生時代から時代が逆行しているんじゃないかと思う今の暮らしを俺は案外、気に入っている。 「明日も仕事なんて大変だね」 「今日明日が踏ん張りどころ。俺は早出の15時アップでいいってさ」  虎が働く美容室は場所柄、ホステスさんたちの利用もあって閉店時間が遅いんだけど、大晦日から三が日は初詣や年始の挨拶で着物の着付けを予約する客が多く、早朝から店を開けるんだ。腕の良い師範がいて、ヘアセットやメイクも一処で整うのが好評らしい。 「早出って何時?」 「準備もあるから、6時。着付けの助手な。お嬢さんたちの髪、綺麗にしてやんねーと」 「嬉しそうだね」 「晴れ着の美人祭、羨ましいだろ」  好き者のツラで笑っても、俺は本当の理由をわかっている。  虎は美容師の仕事が大好きなんだ。女の子が自分の手で綺麗になっていくのが嬉しくて堪らないんだ。彼女たちが帰り際、来た時よりも顎を上げて『ありがとう』って店を出て行くのが誇らしいんだ。そのために技術を磨いて日々、努力しているのを俺は知っている。そんな虎がカッコイイと思う。たとえ今、うつらうつら寝かかって、年上の美人演歌歌手に(やに)下がっていようとも……。 「虎、好きだね。この人」 「色っぽいよな」  毎年、こんな調子だ。  画面の向こうでは良く口に入らないなと思う大量の紙吹雪が舞っている。銀糸の贅を尽くした着物姿は凛と気高く、和傘を手にした舞人を従えて、蠱惑的な眼差しを彼女は此方へ向けていた。 「母親と歳、変わらなくない?」 「ぁあ゛?もーっ、今、母さんの顔が邪魔した」 「あははは、馬鹿だ」  虎が好きだ。  飾り気がなくて真っ直ぐで、俺の何が良いのか好き好き言って、全然、好きを返させてくれない虎が好きだ。俺はタイミングをいつも逃してウンとか曖昧にしてしまうけど、拗ねたツラで恨めし気に見てくる、そんな虎が好きだ。そして……俺に、俺でいさせてくれる虎の傍が好きだ。  今年の初めは、もう少し俺からも好きを伝えようと思っていたけれど、たぶん、一度も言わないまま、また一年を終えようとしている。 「ぁ……」  茶柱が立った。 「虎、あのさ……、」 「お前も食う?」  蜜柑の甘い香りが暖房で温まった部屋にパッと広がって、 「あっ!」  ポーンと天井に弧を描いた蜜柑に俺が気を取られた隙に、もう一個、凡そ炬燵を挟んだ近距離の人間に寄越したとは思えないスピードで投げつけてきた。子供なんだ。27歳なんて嘘だろう?ってくらい、虎は子供なんだ……。 「虎ァー」  畳に転がった蜜柑を拾って呆れている俺に、虎は大欠伸を一つして、ゆったりと腰を上げた。 「すまんすまん、わかってるって。年越し蕎麦だろ?」 「眠たいならやめとく?」 「平気。お前のトロくせぇの笑ったら、目が覚めた」  口も悪いけど、虎の笑った顔は屈託がなくて、俺はつい何でも許してしまう。テレビでは賑々しい歌合戦のグランドフィナーレも終わり、料理の得意な虎は出汁から拘った旨い蕎麦を食わせてやるとキッチンへ入って行った。残された俺は、 「また、言えなかった……」  番組が変わって、ゴォーンと一発目の除夜の鐘を聞いたところで、大の字に転がるしかなかった。
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