<上>色のない二人

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<上>色のない二人

一、   ――はらり。不意に吹いた風に煽られ、帽子が頭から浮きかける。この崖淵で飛ばされては敵わないと手で押さえた。いかに変装のために誂えた趣味の合わないものといえど、弟から譲り受けた大事な帽子には違いなかった。  振り返ると、例の弟が崖でぽつねんと景色を眺めていた。そっと近づいてみる。 「何見てるの」  ん、と弟が顎で指した先には、峻厳とした峰々を覆うようにして聳える建物があった。霧で輪郭はぼやけていても、その荘厳な佇まいはここからでもはっきりとわかる。数日前まで私たちが世話になり、教鞭を振るっていた聖堂学校だ。  大きく胸を膨らませて山林の清涼な空気を存分に吸い、伸びをする。 「ずいぶん遠くまで来ちゃったね」 「そうだなあ」  半ば上の空のような返事に少しむっとして、弟に目をやる。弟は未だに何を考えているんだか判然しない表情で景色を眺めている。  すると突然、傍らから肩を引かれた。弟に抱き寄せられたのだ。突拍子のない行動に困惑していると、彼は私の方へそっと項垂れて来た。 「すまないな」  その言葉に私の胸は少しく軋んだ。弟が謝ったのは他でもない、私たちの逃避行についてだ。私は首を振って、「ありがとう」とそれに返した。弟は初めそれに驚いて、すぐに同じ言葉を返した。そうして優しく手を握り合った。  私たちは教師だった。つい先日まであの学校で教職を任されていた。学級を担い、多数の生徒達と交流を図りながら彼らを教え導く。生徒一人一人の個性を尊び、それに合わせた教育方針を打ち立て実行する。それは初め、刺激的な、とても充実した毎日だった。  そして今は、そこから数里も離れた山の中腹で馬車を止め、休憩がてら自分たちの元居た場所を眺めている。そう、私たちは逃げて来たのだ。生徒や教師達から受けた期待と責任を捨てて。
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