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【雪をかいた日】
まっさらな一面。
小枝も落ちず、くぼみもない平坦な白い世界。
隣家の声も、家の前の道路を通る車の音も聞こえない。
静かな雪景色が広がる家先。
積雪後、誰も足を踏み入れていない場所に躊躇いなく歩き出す。
――一歩分の、足跡がついた。
家先の雪かきをしよう。
そう思って外に出たのは、年が明けた冬の日。
強風の一日が終わりそうな夜、雪が積もった頃合いだった。
三日前から県内に大雪予想が出されたり、積雪と強風を警戒して電車の計画運休が発表されたり。
県内は二年前の記録的大雪での経験を活かし、今年の大雪予報に万全の態勢をとっていた。
ニュースでは日中から警戒の呼びかけが流れ、私はそれを自宅の室内で窓ガラスを揺らす強風の音を聞きながら過ごした。
静まり返った真っ白な世界が出来上がったのは夜。
風が吹く音が聞こえなくなった時間帯に、私は外に出る。
防寒の為に服を三枚重ね、その上にジャケットを羽織る。
雪が降った時の為に頭に手ぬぐいを巻いて、準備は完了。
フードを被るのは勿論だが、この頭に巻いた手ぬぐいはフードが脱げた時に雪を防いでくれる。その有能さを、長年雪国で暮らしてきた私は知っている。
傍から見ればオシャレの欠片もない恰好だが、防寒や悪天候への備えはバッチリだ。
「……寒い」
玄関を出た最初の一言。
二言目は「白っ」。
肌に冷たい風を受けて、目の前の平らに均された雪景色を見て洩れた感想。
毎年見慣れている当たり前の冬景色でも、いざ目にすると思わず声に出してしまう。
プラスチック製のスコップ片手に、雪をかいていく。
踏まれて固くなっていない。ぼた雪のように重くもない。持ち上げて投げればサラサラと風に流されてく、白くて細かい雪。
それらを庭の端に向かって、スコップで掬っては投げて、積み上げる。
雪をかいて、かいて、かいて。
暫くして振り返ると、不格好な地面が見えた。
コンクリートの黒味と、まばらにかかれた雪の白さ。そこに、先程までの一面を覆う真っ白な雪はない。
――そして、私の足跡も消えていた。
寒さで手が痛むが、それでもまた雪をかいていく。
家先の広いスペースは、屋根は設置されていないものの、普段駐車用に空けてある。
今朝も、出勤までは母の軽自動車が停まっていた。
今私が雪をかいているのも、帰宅する母の駐車スペースを確保する為のものだ。
積雪は大体十センチ前後。
雪をかかなくてもエンジンの勢いで駐車は出来るだろうが、そうすると今夜の大雪が追加された翌朝が怖い。
一度に大量の雪かきをするより、適度な間隔で雪をかいてく。
それが小さい頃からの雪に対する備え。
そして、無職という時間を持て余している自分に出来る行動。
「……帰る場所」
五年ほど前、母が言ってくれた言葉。
この家は、私の帰る場所だと。帰ってきていい場所だと。
雪をかきながら、手を止めることなく不意に思い出す。
あの時も、寒かった気がする。
自暴自棄になって入った川の水は冷たかった。
倒れこんだ農道の雪は冷たかった。
だから、風邪を引かないようにと入れられた湯船は熱かった。
あの頃の自分は、今より《自分》と上手に付き合えていなかった。
朝夕の服薬の量は多かった。腕の切り傷も多かった。
救急センターに行く機会も、形成外科に行く機会も、精神科に通う回数も多かった。
入院したこともあったなと、自分の事なのに他人事のようにぼんやりと思い返した。
《昔の自分》は、母の言った《帰る場所》が分からなかった。
そこに自分は帰っていいのか。こんなおかしな自分が、そこに居てもいいのかと。
けど、《今の自分》はその家に暮らしている。
こうして家先の雪をかいて、母が帰れるように駐車スペースを作っている。
自分にとっても、母にとっても。大切な《帰る場所》。
真っ白な雪につけた足跡は消えた。
母が帰ってくる頃には――雪かきが終わる頃には――きっと、足跡を残せる場所は限られているだろう。
それでも、いいと思えた。
いいと思えたからこそ、スコップを握る手に力が入った。
まだ半分も終えてない雪かきに、やる気が出た。
だから私は、雪をかいた。
かいて、かいて、かいて。
綺麗な雪一面の世界を、コンクリートの色が見える不格好な家先に変えてやった。
~*――――*~
【雪をかいた日】
~*――――*~
そして、その一時間後。
仕事終わりの母からメールが来る頃には、外はまた真っ白な世界に戻っていた。
【少し前に雪かきしたから、駐車は出来ると思う】
そんな文面のメールを送りながら、私は笑うしかなかった。
笑って、室内を温めて、母を待つことにした。
〈終〉
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