溝の虫

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 それは年に一度の大掃除での出来事だった。  カーペットに掃除機をかけ、居間の窓ふきに取り掛かろうとしたところである。ベランダにつながる閉じた大窓の下枠に、虫が挟まっていることに気づいた。大きさはビー玉ほどで、つややかな黒色であった。  私は特段虫が苦手という訳でもないが、悲鳴をあげそうになった。数歩後ずさりをすると、この大きな虫をどう処理しようかということについて考えた。  虫だけに無視してしまうという方法もある。しかし、虫は見事に窓の下枠に挟まっているので、このまま窓を開けようとすると、確実に虫を轢いてしまう。一寸の虫にも五分の魂、この虫に情などはわかないが、それでもいたずらに命を奪うのはいかがなものか。  その虫を観察してみる。まずゴキブリではなさそうなので、私は安堵した。徐々に距離を詰めて、覗き込みその姿をよく見る。名は知らない虫であったが、形はカナブンやカブトムシの雌などのそれに近い。  このタイプの虫であれば、ひょっとしたら触れるかもしれない。そして窓から投げ捨ててしまえば私の勝ちだ。恐る恐るその虫に手を伸ばすと、その虫の黒い体は一瞬にして赤色に変わった。私は今度は声を上げて驚いた。再び後ずさりをして、元の位置へ戻る。  もう一度その虫を遠目に見ると、元の艶のある黒色に戻っている。私は恐怖した。カナブンほどの大きさで真っ赤な虫など、何らかの毒を持っているに決まっている。うかつに触ることなどできない。殺虫剤はどうだろう。しかし殺してしまうのは危険だ。死ぬ間際にこちらに羽根を広げ突進してくるかもしれない。そうなれば私は毒で命を危険に晒すことになる。ティッシュを数枚重ねて掴んでみようか。いや、それも今の私には少々ハードルが高い。虫は体の色をほんの一瞬変えただけで、人間の心をたやすく砕いた。  これほどまでに得体のしれない生物が私の部屋にいるのだ。私は恐怖で少々パニックになっていた。よく見れば虫には小さな角のようなものも生えていた。おそらくそこから毒を注入して獲物をしとめるのだろう。うかつに近づけば殺されてしまう。そう、殺されてしまうのだ。  私はさらに2歩後ずさりをし、大げさに距離をとった。依然として虫は黒い。ふと頭に考えが過る。ひょっとして虫の体はずっと黒いままだったのではないか。赤く変色したのは光の反射による見間違えではなかろうか。私は少々冷静さを取り戻していた。奴の危険性を定めるにはもう一度確認せねばなるまい。黒いままであればとっとと殺虫剤で殺してティッシュにくるんで捨ててしまおう。  そもそも私は掃除をしていたはずだ。あいつがいては窓の掃除が進まないのだ。再び虫に近づく。今度はゆっくり、過度な刺激を与えないように。鉛筆で虫をやさしくつついてみようとした。虫は確かに一瞬で赤くなった。私は今度は逃げなかった。顔をずらし、見る角度を変えてみる。依然として虫は赤いままだった。  こいつはヤバすぎる。やぱっりあいつはとんでもない毒虫だ。私は家を飛び出した。もうあの家には帰れない。今日はどこかに泊まろう。私は近所の漫画喫茶に一泊した。  漫画喫茶の個室で目が覚める。もちろん寝心地は最悪であった。着替えもないので、まず家でシャワーでも浴びたい。私は家まで歩き、ドアを開け、シャワーを浴びた。体をふき、居間に進み、ベッドに横になった。午前6時である。  2時間ほどで目が覚める。私は窓を開けた。なんとも気持ちのいい朝であったことか。さて、私はこの2連休で大掃除をする予定であった。窓を閉めると、足元にぐしゃぐしゃになった昨日の虫がいた。私はため息を漏らした後、その虫の死骸を外に捨て、窓の掃除に取り掛かった。  
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