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放課後の教室はまるで心臓が抜かれた生き物みたいだ。教室は冷房が切られているから湿気の混じった暑苦しい空気が充満している。
夏も終わりが近づいているのに、すぐ近くで聞こえる蝉の鳴き声。バスケ部の声出しは体育館に数回反響したのちに体育館全体が唸りをあげているようにこの校舎まで響く。
あの後、私の憂鬱は全授業が終了するまで続いた。放課後は、図書室で勉強をして帰るのが日課だったため学校に残った。今日は家で勉強をする教科書をリュックに入れ忘れてしまい教室に再度戻ったのだ。素早く教科書を机から引き出し、リュックに突っ込む。そろそろ学校は閉鎖の時間だ。
しかし私は突然尿意を感じ、リュックを机に置いたまま教室を出る。まだ外は明るい。私は誰もいない、静寂が居座る廊下をぱたぱたと音を立てて走る。そしてトイレに駆け込んだ。トイレの流動性のない空気が私を包む。個室に入るとまず目に入るのは透けそうなほど真っ白な便器。今年の春の工事で付けられた洋式の便器は陰気くさい空間には異物で、不恰好だった。だったら元のままの和式が良かったのに。
私は用を足した。勢いよく水を流し、このあべこべの個室から一刻でも早く出ようとしたその時。遠くから数人の足音が聞こえてきた。怠そうに歩く、ぱた、ぱたと上履きの音。嫌な予感。
トイレで団体とすれ違うこと。私の学校生活の中で苦手とするものの一つだ。
上手く挨拶もできないし、だからといって無視をするのも気まずい。いつでも起こりうるシチュエーションだが、これを回避するために休み時間は終了の少し前にトイレに行くなど、工夫を凝らしている。
これまでどうにかして回避していたシチュエーション。こんなところでばったり出会うわけにはいかない。どうか見つからないでくれ。と私はグッと体に力を込めた。段々と近づく話し声と笑い声。手には汗がじんわりと滲んだ。しかし、反対に耳は澄まされ、どこに存在する音も拾えそうだ。
「あいつね、いつも頷いてばっかりで、一緒にいても楽しくないし。」
水道近くに立ち止まる音。ポーチを水道の淵に置く音。
「わかるわあ。そのくせ、いつもなんでも見透かしてますよって顔しちゃってさ、なんか見下されてる気がして嫌だわ。」
化粧品の開け閉めの音。
「わかる〜。何にも分からないくせに声かけてやれって。加藤も都合いいよね」
ビューラー貸して。の声。
「担任が生徒にお願いするのやばいよね。じゃあ、うちらは気の合わない奴と一緒にいなきゃいけないんですかって思う」
同意する声。
「本当そう。てか、話しかけてこないのはそっちじゃん。あ、ていうか愛衣仲良いよね。春音と。」
ああ。そこには魔界がいる。それと共に愛衣もいる。
そして私の話題が話されている。最悪なタイミングだ。私はいつも運がない。魔界がいると言うことですら辛いのに、この話題。耳を塞ぎたくなるほど聞きたくないのに、愛衣の返答が聞きたくてたまらない。彼氏の携帯を勝手に見ちゃう彼女はきっとこんな気持ちなんだろうか。
「ああ、別に仲良くないよ」
愛衣の自然な返事を聞いた瞬間、音が聞こえなくなった。
代わりに愛衣の顔が浮かんでくる。
あの瞼にのったシャドウと甘い香り。
私の知っている愛衣はもういない。
愛衣。
その短いスカート、私と一緒に切りに行ったよね。先輩に目つけられちゃうかなとか言って笑ったのも、放課後一緒に遊んだ思い出も私だけが覚えていたのかな。私だけがずっと変わってないのかな。私は変わらなくちゃならないのかな。
血の気が引いて足が重い。目の前の世界がぐにゃりと歪む。かといって今すぐこの一畳ほどの個室から出て愛衣を問い詰める度胸など私にはない。愛衣達が持っているポーチの中で化粧品がぶつかり合う音が消え、足音と笑い声が遠のいてから私は鉛のように重い身体を動かして個室から出た。
湿気が私を取り巻くから気持ちの悪い暑さを感じる。でも身体の内側はすうっと寒い。見上げると水道の鏡が私を映していた。
とても、惨めだった。
重い前髪。耳より下に結んでいる髪は飾りっ気がない。頬には大きな赤いニキビを付けて、短いスカートばかりが目立っている。本当は好きなメイクも大して厳しくもない校則と母のせいにしてできないし、思っている事も他人の目に映る自分ばかり気にして言えない。
「春音は勉強ができないね」母の声。
「じゃあな!」姉の声。
「こんなのやる暇があるなら勉強しなさい」メイク用品を取り上げながら怒鳴る母。後ろで興味なさげに新聞を読む父。
「別に仲良くないよ」愛衣の鼻にかかった声。
みんな消えちゃえ。
みんなから見えない私も消えちゃえ。
気づくと私の足はかけだしていた。どこまでも走ってやる。みんなから見えない地球の裏側までいってやる。階段を駆け降りて、校門をくぐってコンクリートを蹴った。
暑くて、汗が噴き出てくるがそんなもの気にしない。段々清々しくなる気持ち。何も聞こえない。
分かるのは揺れる景色だけ。血が身体中を駆け巡る。まだまだいける。と思った。が、突然足が絡まり、よろけ、私は両手を膝につきその場に座り込んだ。
次第に周囲の音が聞こえてきて、微かに水が流れる音がした。乱れた息のまま揺らめく視界を左に傾けると川が見えた。
目の前には『中野川』と『あぶない!この川で遊んだり泳いだりするのはやめましょう。』と書かれた看板。
毎日椅子にばかり座っていた十七歳の私は、二キロほどしか進んでいなかったようだ。地球の裏側なんて夢のまた夢。
激しく喉の渇きを感じて自動販売機で水を買おうとするが、携帯も財布も全て学校に残してきたことを思い出した。早速走ったことを後悔。
川の近くへ行くには階段を降らなければならないらしい。残念だが、今の私はそんな力を持ち合わせていない。
隅に砂の溜まったコンクリートの階段に腰を下ろした。コンクリートは日中の暑さを全て吸い取ったかのように熱かった。全身の毛穴が開いて汗が吹き出してくる。汗と共に湿気の混ざった空気は皮膚に絡みつく。
「ああっつい」声が漏れる。汗で下着までびしょびしょだ。ワイシャツの汗染みが気になって、スカートからワイシャツを取り出した。できるだけ汗が乾くようにとワイシャツを仰ぐ。遠くを見ると夕日は奥の山の後ろに隠れようとしていた。
この辺りは、祝日はバーベキューをする家族や団体でごった返しているが、今日みたいな平日は小学生の遊び場になっているようだ。しばらく流れる川を眺めていると、違和感を感じた。
何か異様な物が潜んでいる。どこだ。目を凝らす。地味な鼠色の石ころの上に派手なピンク色が乗っている。これか。いやそれだけではない。そのピンク色はノースリーブのワンピースで、その袖から生えている二本の腕は焦茶で筋肉が詰まっていて太い。これだ。
『中野川に女装をしたおじさんが現れるらしい。』『そのおじさんはなんでも願い事を一つ叶えてくれるんだって。』皮肉にもまた愛衣の話し声が聞こえる。
「あいつじゃん…」
なんだか今ならなんでもできる気がする。話しかけよう。怒鳴られようが無視されようが今更最低なことが一つや二つ起きても私の心の状態は変わりはしない。
階段を降りて、石ころだらけのおぼつかない足元を越え、絶対に逃しはしないぞとおじさんを一点に見つめた。気持ちは無人島生活三日目にまるまる太った豚を捕まえる感じ。
おじさんまで後数歩。近くで見ると、おじさんの少し焦げ茶の肌は夕焼に照らされてツルツル光っていた。ピンクのワンピースは白いレースやビーズが散りばめられていてより可愛らしい。それなのにおじさんはあぐらをかいて座っているから。女性らしさと男性らしさが張り合っている。
絶対に願いを叶えてくれよと念を押して私はおじさんの前に立ちはだかった。
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