青にとける

4/5
前へ
/5ページ
次へ
「おーい塩田〜ちょっと来い!」 加藤はこちらを手招きしている。私は片手に持っているペンキのついた筆を置き、重い身体を持ち上げる。 今日は校内全体で文化祭の準備をする日だ。 私は今、教室の外に飾る看板の色塗りをしている。『美味しいドーナッツ』の味の文字をピンク色に染めていた最中だった。 うちのクラスはドーナッツを販売するらしい。文化祭実行委員は忙しなく働き、クラスで浮いている私に気を利かせて一人でも作業できる仕事を託してくれた。誰かと話さなくていい。それだけで私は心が落ち着いた。 ひっそりと作業をしていたのに、加藤は黒板横のドアから大声で私を呼ぶからクラスの皆が私をギョロリと見た。 加藤は私の交友関係を聞き出したいのだろう。 この前、トイレで聞いた魔界の話も加藤が関わっていた。高校の先生はこうにも何か首を突っ込みたがるものか。ありがた迷惑。 私が廊下に出ると加藤は教室の扉を閉めた。 隣のクラスはアトラクション系の出し物をするらしく廊下まで作業をしていた。 名前の知らない数人の生徒がこちらを凝視している。 「なあ、塩田。最近学校生活はどうだ?」  加藤は私を覗き込む。 「変わりないです」 「変わりないってなんだよ〜、親友とかいるのか?」 「大丈夫です。特にいじめられているわけでもないし、当たり前のことなんです。こういうのは」 少し間があってから加藤は言う。 「塩田がいいって言うならそれまでだけど、何か不安があればいつでも相談のるからな」 私はありがとうございますとだけ言い、教室に戻った。 教室は人工的に冷えた空気とペンキの匂いが充満していた。 担任から交友関係を心配されるなど、一人であると言うことを実感させられているようで辛い。私の中で波紋の様に寂しさは広がる。誤魔化してきたけれど、そろそろ限界なのかもしれない。 筆を手に取り『美味しいドーナッツ』を塗り進めた。余白が無い様に。 黒板の方を見ると愛衣は魔界達と風船を膨らませながら笑い合っていた。愛衣の目によった皺が無防備に見える。忘れられたらどんなに楽だろうと思う。愛衣のあの言葉も自分の置かれている現状も。 私はその後も『美味しいドーナッツ』を塗り続けた。追加でドーナッツのイラストも書いた。次の仕事を文化祭実行委員に聞くのは決まりが悪いので、ゆっくり丁寧に作業をした。 作業中、西野とは数度か話した。社交辞令気味な挨拶を交して、今何をしているのかをお互い報告した。西野は積極的に重い荷物を持っていたり、「だりい」という同じサッカー部の仲間をやる気づけていたりもした。相変わらずクラスの補佐役であった。 愛衣とはペンキを補充する際に偶然二人きりになり、小話をした。愛衣は明日は晴れるといいなと言った後、三年生の先輩に明日は文化祭を一緒に回ろうと誘われているが、断ろうとしていることを教えてくれた。普段通りの愛衣を見て私は寂しさと怒りの混じった安心感を感じた。 放課後は残ってもいいことになったが私達のクラスはもう準備が終わっているから、当日の当番を再確認して明日は少し早めに集合することになった。 下駄箱で靴を履き替えている時、暑さはもう柔らかくなっていることに気づいた。時々吹く風は冷たさが混じっている。  校門を出る前に、体育館からポリキュアの音楽が聞こえて来た。サッカー部の出し物の練習だろう。放課後まで西野は忙しそうだ。 西野は明日のメイクをどうする予定なのだろうか。 「おおーーい」 体育館から声がした。振り返ると西野がいた。体育館はピロティー上にあって校舎の二階建ての高さにある。西野は私を見下ろしながら笑顔で手を振っていた。私は手を振り返す。 「しーおーたー!今そっちにいくからー!待っててー!」 西野は柵を乗り越す勢いで叫ぶ。私は出来るだけわかりやすいように強く頷いた。 西野はそれから後ろを向き、暫く見えなくなったが、すぐに螺旋状の階段を駆け降りているのが見えた。階段を終えるとすぐにこちらに向かって来た。西野は体育着を着ていた。首筋の汗が少しだけ光っている。 「塩田!明日俺、メイクしていくことにしたよ」 「そうなの」 「でも他の奴はしない。俺だけが俺の意思でやる」 「そうなの」 「俺、遊びなんかじゃ無いよ。塩田に教えてもらった事も俺の好きな事もちゃんと生かすよ」 「分かってる」 何が分かっているんだろう。西野のことも愛衣のことも自分のことも私は何も分かってない。 「そう。よかった。明日の後夜祭、サッカー部はニ番目に出場するんだ。割と早いんだ。よかったら見ていって欲しいんだけど…。」 西野の言葉は少し強張っていた。 「うん。見る。楽しみにしてる。今は、ダンスの練習中?」 「え?バレた?コスプレすることしか言ってないのに!!」 「バレるよ。そんな汗かいてるもん。しかもポリキュアの歌が外まで聞こえる。」 「そっか、そうだよな。ん、じゃあ明日!」 そう言うと、西野は手を挙げた。 「うん。明日!」 明日。明日は文化祭だ。もう夕陽が出ている。こうやっていつの間にか日は短くなって、冬はすぐに来るのだろうと思う。 この前まで、早く夏が来て欲しいと思っていた。そうして強い季節が私に生きる力を与えてくれるって思ってた。でも相変わらず私は皆んなの意見に同意ばっかりして、生きてるか死んでるか分からない十七歳だった。冬が来たら、寒さは何を与えてくれるのか。受け身の私はきっと何も変われないのだろう。 変われないまま私はいつの間にか大人になってる。ある日突然大人になれるわけではないのに。大人ってもっと立派なものだと思ってたけど、多分そうでもない。幼い頃から大人にならなくてはならない子供と、歳を重ねても大人になれない大人がいる。私はきっと後者だ。 夕日に染まる空を見ながら私は帰った。ポリキュアの調子の良い音楽が背後から聞こえる。 愛衣の「明日は晴れるといいね」という声が聞こえた気がした。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加