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晴天。太陽は高い位置にいる。日差しの強さは変わらないが、心地の良い冷たさの混じった風が吹く。私は空を見上げて空気を思いっきり吸った。
今日は文化祭。緊張を抱きながら登校中。
何故なら私は今、メイクをしているから。
客観的に見るとかなり濃い。久しぶりのメイクだが主観的にはいつも通り。
家を出る前に母は私の顔を見て顔色を変えた。「まだそんな物持ってたの」と言ったあとに「恥ずかしいからマスクをして行って」と言い真っ白なマスクを渡して来たが、途中のコンビニのゴミ箱で捨てた。いつまでも当たり障りのないものを求めるのは馬鹿らしくなった。踏み切るまで、勇気が必要だったけど、後悔していない。気持ちは清々しかった。きっと西野のおかげ。
校門をくぐり、校舎に入る。
廊下ではすれ違う同級生は思ったよりこちらを見ない。予想通りだ。今日は文化祭なので、皆は思い思いに顔にシールを貼ったりお面を被ったり、髪の毛を派手にアレンジしたりする。こうして、私の派手なメイクもどさくさに紛れることができる。
しかし手には汗をかいていた。弱気になった自分を心の中で一喝して、顔色を変えずに歩く。数分の教室までの距離が何時間にも感じられた。
教室のドアを開けるのは根性が必要だ。昨日までの憂鬱とは違う、変な期待感と緊張が胸を渦巻いている。ここでトイレに逃げ込めば、持ってきたメイク落としでいつものニキビを付けた私に戻ることができる。そうすれば当たり障りのない高校生活を引き続き過ごせる。
そんな誤魔化しもう効かないよ。どこかで声が聞こえる。
「分かってる。」
私は小さくつぶやいて思い切ってドアを開けた。教室は完全に文化祭モードで、実行委員は忙しなく皆をまとめていた。女子達は仲間同士で髪の毛をアレンジ中でこちらを見向きもしないが、男子数人が私を二度見した後、近くにいる友人に「おい、あれ見ろ」と言った。
痛いほどの視線に逃げ出したくなって、足元に目線を落とす。
上履きの青いゴムの部分についた汚れが目に入った。
川でついた汚れ。八重歯の見える西野の笑顔とピンクの衣装が脳裏をよぎった後、『周りの反応なんて関係ない。俺はただ楽しんでコスプレをするだけ。』西野の声が聞こえて背筋が伸びた。
私はリュックをロッカーに入れて、机は廊下の隅に置いてかれているから教室の地面に平然と座った。他の女子が私のメイクに気付き出したらしくコソコソとこちらを見てくるが気にしない。
すると、魔界がこちらを見て笑い出した。何か言っている。大体話している内容は想像がつくが、正確には聞き取れない。近くにいる愛衣は気まずそうだ。
暫く黙っていたが、突然私の中で荒々しい感情が湧き出してくる音がした。沸騰した鍋の泡みたいな形をしている。
「黙れ!!!!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。魔界は顔色を変える。クラスは静まり返り、隣のクラスの笑い声が聞こえてくる。
「おーう!おはよう!おっ!みんな気合い入ってんなあ〜!今日は楽しんでいこうぜえ!!」
遅れてやってきた加藤が上機嫌で黒板横の扉を開けて教室に入ってきた。暫くして加藤は稀に見る教室の静寂に気づくと「ん?どしたお前ら」と言った。今は場の空気を元に戻す陽気なサッカー部はいない。体育館でポリキュアの練習中なのだから。こちらを睨む魔界と、自分の出した声量に驚きキョトンとする私。顔色を変えて気まずそうにする周り。何もわからない加藤。
「じゃ、じゃあ加藤先生も来たことだし、文化委員から今日のルールを説明するね。まだサッカー部はいないけど。」
ナイス文化祭実行委員!皆がそう心の中で感謝したに違いない。
その後、文化祭実行委員からの説明が終わり、サッカー部が教室に入ってきて、文化祭開始の放送が流れた。去年と同じ流れで文化祭始まった。変わったのは周りの友達と私のメイク。あんな出来事が起きたのに、私の心は晴々としていた。
先程教室に入ってきたばかりの西野は近づいてきて、「初めて見たけど、メイクにあってる!後夜祭の後、話あるんだけど教室で待ち合わせしない?」と言ってきた。私は承諾した。
そのあと、私は一緒に回る友達がいなかったため、毎年開催する図書室の古本市に向かった。この高校の図書室は毎月十冊ほど新しい本を購入するので、溢れ返らないように、ある程度時間の経った本は古本として一冊五十円で販売されるのだ。
去年、私は愛衣を連れて古本市へと向かった。愛衣はそれ程本を読むタイプではなかったが、私が次々と選んだ本を見ては「面白そう」「読んだら感想教えてね」などと言ってくれた。校舎の一階の一番西側の使われていない静かな教室で開かれる古本市。前に長い机を置いてパイプ椅子に座っている図書委員は本を読んでいる。窓から差し込む光は愛衣の柔らかい肌を照らした。愛衣を表現する言葉はまだこの世には存在しない。そう感じたことを思い出す。
私はその思い出に浸りたかったし、実際本を買いたかった。私の教室は三階にあるため階段を降りる。下級生達は団体行動をしながら騒がしく上に上がり、私はその流動に反して歩いた。「どこ行く〜?」「チュロス食べたい!」「岡山先輩のクラス行きたいなあ〜!!」皆が興奮を込めた会話をしている。すれ違う大勢の中、数人が私を二度見する。
一階の下駄箱からは騒がしい音と放送で流れている陽気な音楽が聞こえるが、ある地点からは静寂が私を包む。
ふと、全身鏡に写った自分が目に入った。顔はかなり派手だ。スカートも短い。自然と笑顔が溢れた。久しぶりに会った私の好きな私。鏡越しに手を振る。少しだけ本当の自分と共鳴できた気がした。振り返って古本市へと向かう。そこには大切なものが置いてある気がするから。
無愛想な扉に「古本市」と明朝体で書かれた紙が雑に貼ってある。扉を開けると、図書委員以外には、誰も居なかった。
髪を二つに結んだ図書委員はこちらを見た後、すぐに読んでいる本に目線を落とした。懐かしい。埃っぽい匂いがする。誰も誰かに干渉しない世界。愛衣と来た場所。私は適当に本を見ていく。今日はたっぷり時間がある。
本を見ていると、数人が入ってきた。下級生の男女。眼鏡をかけた男の子。小さな声で何か話しながら来る団体。皆思い思いに本を読み、買い上げていく。
暫くしてまた、扉が開く音がした。何故か聞いたことがあるような懐かしい音がして後ろを振り向くと、そこには愛衣がいた。胸が鳴った気がした。愛衣はこちらを真っ直ぐに見つめて歩いてくる。
「ねえ、ハルちゃんちょっといい?」
私は力を体に込めて、選んだ本を置いて頷いた。図書委員に必ずもう一度来るので取り置きができないか聞いたら承諾してもらえたので、手前の机に本を置いて、古本市の教室からでた。愛衣はその間、珍しく黙っていた。いつもならごめんねとかありがとうとか言うのだが。
愛衣は廊下に出て、西側のほとんど誰も使わない階段に座った。私も黙って愛衣の横に座った。遠くで騒がしい音が聞こえるがここは静かだった。少し暑い。愛衣のワイシャツから出ている腕は真っ白で滑らかだ。魔界とお揃いの髪型。編み込みがされていて可愛らしい。愛衣は重い顔をこちらに向けて話し始めた。いつもとは違うその雰囲気に私は息を呑んだ。
「ねえハルちゃん。私、ハルちゃんに酷いこと言った。」
「え?」
「この前、聞いてたでしょ。私とみんなでトイレに行った時のこと。加藤からハルちゃんと仲が悪くなったのか。はぶいたりするのは卑怯だって怒られて、私達はイライラしながらトイレに行ったの。」
数週間前の私が走り出したあの時のことだ。愛衣が私がトイレにいたことを何故知っているのか変わらなかったが、私は頷いた。
「やっぱり。トイレから出た後、ハルちゃんが飛び出してくるのが見えたの。他のみんなは見てなかったけど。その時私、ハルちゃんのこと『別に仲良くない』って言った。本当にごめん。謝ろうって思っても、もしかしたら聞いてないんじゃないかって自分に都合よく言い訳して言い出さなかった。本当にごめん。」
「いいよ全然。私も悪いし。ごめん。」
間を置いて愛衣はまた口を開く。
「何が悪いの?何がごめんなの?」
「え?」
思っていた展開とは違かった。謝られて、謝って、終わりだと思っていた。
「いつもそうやって波風立てないように何でも解決しようとするよね。ハルちゃんは。本当は見下してるでしょ。私のこと。」
愛衣は引き攣った笑顔を向ける。その裏にある感情を読み取って私の顔も引き攣る。当たり障りのない解決。当たり障りのない方法で接してくるのは愛衣だと思っていた。
「なに、それ。愛衣だってそうじゃん。いつも当たり障りないことばっかり話してくるでしょ。愛衣から壁を私はいつも感じるよ!見下してるって何が?」
自然に口調が荒くなる。
「じゃあ、お互いそう感じてたんだね。私は今日、ハルちゃんがそのメイクをして学校に来た時、ハルちゃんと分かり合いたいって思った。今まで普通ばっかり目指してたハルちゃんが変わってたから。私もいつものままじゃダメだって思ったの。だから、私はハルちゃんに今まで感じてた事を言おうと思ったの。」
愛衣は落ち着いていた。自分が取り乱していた事に気づき私はごめんと呟いた。愛衣は首を振る。
「私はいつもハルちゃんが私のこと見下してるって感じてた。ハルちゃんは無意識かもしれないけど、お姉さんの事もお家のことも大変だからって、『愛衣は幸せでいいね』とか、『愛衣は楽でいいね』って、わたしが嬉しかった話をするといつもそう言う。もしかしたら、私はハルちゃんより幸せかもしれないけど、辛いこともあるんだよ。人にはその人自身のどん底っていうのが存在してて、それに大きいも小さいも私はないと思うの。だから、だからハルちゃんから私は離れた。不幸の大きさで競うのは嫌だから、下らないことで笑い合えるグループにいた。それで…それでハルちゃんが皆んなと仲が悪くなった時、私は正直、痛い目見ればいいと思った。ごめん。」
愛衣は涙をいっぱいに溜めていた。
「ハルちゃんの現状は理解してるつもり。お姉ちゃんのことが大変で、お母さんはいつもハルちゃんに当たって、勉強のプレッシャーも強いと思う。そのメイク…。本当はメイク好きなんだよね。教えてくれなくて寂しかったけど、そういうのも言えない関係を作ってごめん。」
確かにそうだった。私は不幸の武器を愛衣に振り撒いていたかもしれない。西野の『飯田が愛想つくならそう言うところじゃねえの』と言う声が聞こえた。そうだ。私のこう言うところが愛衣を傷つけていた。
姉のことを考える時、いつも夏の暑い日に水遊びをした思い出が共に蘇る。ビニールプールの中に入った私は確か五歳。蝉の鳴き声が聞こえて、プールの水は生ぬるくなっていた。姉はホースについたノズルをシャワーに設定した後、こちらを向いてにやりと笑い、どこまでも青い空に向かって水を吹き出す。私は驚いて空を見上げると水に光が反射して輪の色彩を作り上げている。それがあまりにも美しくて私は見惚れる。落ちてくる水は顔に当たるが、それも心地よい。窓を開けて、母はビデオカメラと笑顔を私達に向ける。途中から父もやってきて「お父さんも一緒に入ろうかな」と笑う。そういう思い出。私はそこからまだ抜けてない。
勉強ができれば、母の理想になれば、またそういう時間が流れるかと思っていた。けれど、いい加減私は私の人生を歩まなければならない。このまま誰かのために過ごすと、今後の失敗や苦しみを全て母のせいにしてしまう。私は自分の為に私の足歩かなければならない。その一歩が今日だったのだ。他人の目に映る自分を見つめる必要はないのだ。
愛衣が鼻をすする音が聞こえた。そして愛衣はもう一度口を開く。
「あとね、ハルちゃんがグループに馴染めない時私がどうして、どうして助けなかったかって言うとね、嫉妬したの。」
「嫉妬?」
先程より深刻そうに愛衣は言う。
「そう。ハルちゃん西野くんと付き合ってるでしょ。」
「え?なにそれ違うよ。」
「嘘だよ。だっていつも川で西野くんと待ち合わせして西野くんのおうちに行ってるんでしょ?サッカー部の子から聞いた。」
世間は狭いようだ。
「確かに待ち合わせはしてたけど、愛衣が想像してる関係ではないよ。例えそうだとしてもどうして愛衣が嫉妬する必要があるのよ」
胸騒ぎがする。この先を聞きかない方がいい。そう確信しても止まらなかった。
「好きなの。西野くんが」
愛衣は目に涙をいっぱいに溜めてこちらを見る。痛い。何がだろう。何か痛い。愛衣は続ける。
「西野くんがハルちゃんと付き合ってるって知った時、本当に自分でもびっくりするくらい汚い感情が生まれたの。ハルちゃんは知らないかもしれないけど、西野くんはね、席替えの時、ハルちゃんの隣になるために本来隣だった人と札を交換したんだよ。」
「し、知らないよ。そんなの。」
動揺する。
「だから嫉妬した。ごめん。」
「でも西野とは付き合ってない。本当だよ。」
私は愛衣を見つめて言う。
「そ、そっか。良かった、いや、よかったって変だけど、ごめんね八つ当たりばっかりして。」
「ううん、いいの。友達ならそれくらい許すよ。私も沢山愛衣を傷つけた。」
何もこもってない言葉を告げる。心が痛い。今までに感じたことのない感情。
私は視線を下ろし、指にできたささくれをめくった。傷口から出てきた血はぷくっと上に膨れ上がり、滲んだ。
愛衣の泣き顔はいつの間にか笑顔に変わり、今までで一番綺麗な顔をしていた。
愛衣はスッキリした。また仲良くしよう。と言った。そのあと、愛衣は、魔界のみんなは私がいつも意見を言わない事に腹を立てていたと言い、私が元の関係に戻りたいと思うのならば魔界と和解の方向へと話を持ち込むことができる。と言ってきたが、断った。
その後、私は一人で古本市で本を買い、クラスの出し物の当番をした。加藤は私のメイクを思いっきり褒めてくれた。ドーナッツを買いに来てくれた違うクラスの女子達は私のSNSをフォローしてもいいかと聞いてくれた。念願の新しい友達ができそうでも、ずっと私の胸は痛くて、意識は遠いところにあった。
後夜祭には行けなかった。
家に帰り、毛布に包まって西野の連絡を見た。何故来なかったのかと聞かれていたが、具合が悪くなったと嘘をつき、謝罪をした。
ずっと静寂な憂鬱と向き合う世界が私の青春なのだと思っていたけれど、今ではその反対と向き合っている気がする。
生暖かくなった毛布の中では、愛衣のあの笑顔ばかりが思い出されて苦しくなるばかりだった。
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