第二章 月影の、その夜に

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 昼間の汗ばむような陽射しが嘘のように、夜の帷が下りる頃にはひんやりとした冷たい空気が肌を刺す。  見上げた空には月の姿は見えず、ただ闇だけが広がっていた。  夜間でも賑わう廓などからは程遠い港近くの城下外れは、漁のための仮小屋が所々に散らばっているが、当然月明かりもないこんな夜更けに漁に出るような者は皆無である。  市場も少し離れた場所にあるため辺りは灯りにも乏しく、風の冷たさも相まって物寂しげな印象を与えていた。 (いや、この時分にこんなところで大量の人気(ひとけ)があったらあったで、あまりよろしいとも思えない人種なんだけれど)  阿久里(あぐり)は、風に煽られ頭ごと持っていかれそうになる(たぶさ)を何とか御しながら、街道に歩みを緊張と共に落とす。いつ何時誰に遭うかもわからないので、こちらの存在をなるべく知られないためにも、手には灯りとなるものは何一つ持っていない。 (……本当、狐火でも鬼火でもなんでも、使えるのなら使いたいくらいだわ……)  父が聞いたなら大声で騒ぎながら泡でも吹いて卒倒しそうなことを考えながら、阿久里は闇に染まる辺りへと目を凝らした。 (こんな(なり)で生まれて疎まれているのだから、それくらい使えてもいいと思うのだけれど)  残念ながら、この身はどこまでいっても悲しいほどに人間(ヒト)である。しかも、最弱の部類の――。  阿久里は自嘲に唇を苦いもので歪ませる。  腰には刀を佩き小袖に袴という男装姿に、さらに胸元には護身用の匕首を忍ばせてはいるものの、自分の戦闘能力がほぼ皆無であることはすでに経験として痛いほどよくわかっていた。  一月(ひとつき)ほど前――城下で起こった火事騒動。  城へ帰ってのちに、唯一の味方といっていい存在である乳母子(めのとご)を使い少し状況調べてみたら、あの日で既に三月(みつき)連続の火事騒ぎだったそうで、その何れも新月の晩に起きたものらしい。  そして、守護大名たる父親は恐らく知らなかったようだが、「曼珠沙華」の目撃証言は一番最初の火事の際からあったものらしい。 (その曼珠沙華というのは、本当の花のことなのか、それともなにかの比喩か……)  ――例えば、そう。小袖に描かれた模様であるとか。  何人の人間が間に入った又聞きになってるかすら知れない自分さえも知ることの出来た情報によれば、少なくとも現場には「曼珠沙華」があり、そしてそれを見た人物がいるということだ。  そうとなれば、とっくに下手人に目星くらいつけていても良さそうなものだが――。 (確か、城下管理は守護代の水尾(みずお)家に一任されていたはずだけど)  一月前に出会った黒髪、黒曜石の瞳を持つ派手な(なり)の少年は、あの家紋からしても本人の言からしても、水尾家の人間であることは確実だ。  けれど、あれからのち、火事を調べるのと同時に守護代・水尾家の若衆をそれとなく乳母子に聞いたが、彼のような容姿に該当する者はいなかった。となれば、榊家に仕える水尾本家とは縁を分かつ親類の者なのだろうか。   ――逢瀬の約束が、謎かけってのはどう?  彼も新月の晩に火事が起きていることはすでにわかっている。それが彼自身の手によるものなのか、それとも下手人は他にいるのかはまだわからないが。  阿久里が思案しながら歩いていると、一町(約百米)ほど前方にある仮小屋から、ゆらりと松明の灯りが現れた。そして同時に複数の人影が次々と顔を出す。少女は一瞬息を飲み、バクバクと鳴る心臓を落ち着かせながら相手に気付かれないように、街道沿いにある大きな樹へそっと身を隠した。  人影が、火付けの下手人なのかそれとも城下の自治のための見回りの者なのかわからない。だが、どちらにしろ自分は相手に姿を見られていい身の上ではなかった。 (落ち着いて……あちらには、まだ私の姿は見えていなかったはず)  阿久里は、睫毛を伏せ胸元に手を当てる。ほぅ、と大きく息を吐き、呼吸を整えた。向かい風ではあるものの、長い髻は自身の背と樹の間に挟まれており、相手へ存在を知らしめることはない。 (大丈夫、大丈夫……)  足音がどんどん大きくなっていき、ときおり言葉を交わす声が鼓膜を擽る。  胸の内の心臓は、向こうからやってくる気配が大きくなればなるほど音を増していき、喉の奥が痛みにも似た緊張に渇きを訴えた。  阿久里は、祈るような気持ちで伏せた睫毛を持ち上げる。街道をこちらへと進む松明の灯りは、大きな樹の影を草むらへと映し出した。 「……荷葉(かよう)、か? いま、香ったような……」  松明の灯りがちょうど樹を横切る瞬間、突然街道から声がかかる。まだ幼さを残す、若い男子特有の声。阿久里は、喉の奥で上がりそうになる悲鳴を何とか飲み込み、思わず息を潜めた。 「あぁ? 漁師どもが使う道具の臭いか?」 「いや、そういうものではなく……」 「あぁ、確かに匂うな。これは……女の匂いだな」 「そうそう、カカアの匂いってよりあれだ。遊女(あそびめ)の匂いだ」 「おいおいいいとこの坊っちゃんに、遊女の匂いがわかるのかよ」 「いやいや、高貴な身分の母ちゃんは香を纏うらしいからな。それじゃねぇのか」 「ひっひっひ、じゃあまだ坊っちゃんは乳離れしてないってことか」  下卑た笑い声に返事をしないまま、ひとつの影が街道沿いにある樹へと歩を進めてくる。松明の火に映し出された影が、視界の端でどんどん大きさを増した。 (香……!? 今は、特に焚き染めていないはずだけど……)  男装時の小袖にまで、香を焚き染めてはいないはずだが、日頃から香は生活の一部として当たり前だったために、自分では気づかない程度のものが髪に染み付いていたのかもしれない。 (落ち着くの……落ち着いて)  自身へと言い聞かせるように少女は喉を一度、鳴らす。そして、近づく気配に、懐中の匕首を探すため自然と胸元で組まれていた手を緩めた。  けれど――。 「……っ、えっ」  じんわりと痺れが指先に走ったと思った次の瞬間、彼女の腕は強く引かれ視界が逆転する。 「……わっ!?」 「誰だ!!」  ドサリ、と少女の身体が草むらへと転がる音と同時に零れる悲鳴に、戯言を繰り返していた街道を歩く人影から一瞬で殺気が放たれた。 「なにさ、商売の邪魔だよ」  やや低い、どこか艶のある濡れた声音が、阿久里の瞼に触れる。  倒された衝撃がさほど背中になかったことと、瞼へかかる声音に反射的に閉じられた瞳をこじ開けると、そこには黒髪を絹布や様々な色紐で結い上げいくつもの簪を挿し、桜色の小袖の上に若葉色の紗を打掛として羽織る女がいた。 「な……っ、な……!」  唇に艶然と弧を描く結構な美女は、身形や口調からして恐らく遊女なのだろうが、何故か阿久里を押し倒すかのように身体に伸し掛り、紅を差した唇を三日月の形に持ち上げる。そして思わず叫び出しそうな阿久里の唇に、そっと自身の指を添えた。 (……あれ、この……ひと……)  阿久里は見覚えのある三日月を宿す唇に、眉を顰める。 (この、笑い方――)   ――逢瀬は、火付けの晩に――また。  不意に鼓膜に蘇る、逆光の中の声。 「何だ、遊女の男遊びかよ」 「こっちゃおマンマのための大事な大事な商売さ。相手して欲しけりゃ、ほれそれなりのモン出しな」 「…………行こう、遊んでいるような時間はない」  先程阿久里の香に気付いた人物が、ふっと樹の影から離れた。しばらく街道沿いの色事に興味を示していた他の人影も、件の人物が遠ざかると流石にこちらにいつまでも意識を向けることはないままそれを追い、遠ざかっていく。  阿久里は、完全に街道から松明の灯りが去ったのを視認すると、視線を頭上の人物へと滑らせた。けれど、灯りの明るさに慣れた目は、なかなか暗闇から該当する人物を探り当てない。  少女は、草むらに押し倒された状況を先に打開するため、言葉を紡いだ。 「助けて頂いて、有難う御座いました。と、まずは言うべきでしょうか? それとも重いので、退いて頂けますか? が先でもよろしいでしょうか、水尾さま」 「どっちにしても、可愛げのない台詞だね」  黒髪の美女は、男装の少女より身を引きながら、三日月を作る赤い唇をさらに吊り上げ、くくっと笑う。  その声音は、すでに扇情的な女のそれから、若い男特有のそれへと変わっていた。
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