第二章 月影の、その夜に

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 古寺の格子戸を閉め、しばらく後――。  壁の隙間より、橙が少し感じられるほどに室内には炎が拡がっているようだ。直重(なおしげ)は特に何の感慨もないかのように、焼き崩れ落ちそうな寺を見つめていた。  彼の本音としてはこの場に曼珠沙華の打掛を捨て置き、とっとと自身の屋敷へと引き返したかったが、完全に焼け落ちたことを確認はもちろんのこと、一気に山へと火が巡り、山火事になるほどの大事になったらそれはそれで厄介である。  コトを荒立てるつもりは、まだないのだから。 (まぁ、すべては順調だ)  なにを焦る必要があるだろう。  逸る心を抑えながら、直重は一度大きく息を吸うと、連れてきた破落戸たちと寺から少し離れた岩陰で身を休める。 (存外……、時間がかかるものなのだな)  もっとも、冬場とは違い空気は水分を多分に含んでおり、今後どんどん湿度が増していく季節である。  大きいとは言えないものの、先ほど中を改めた際見かけた室内はそれなりの大きさがあった。なかなか焼き崩れるところまではいかないのかもしれない。直重は古寺から既に興味をなくし、視線を花咲城(はなさきじょう)の方角へと滑らせる。 (まずは……父を廃し、水尾(みずお)分家の棟梁になる)  このままでは、正室腹の嫡男である次男はおろか、三男、四男……と続く正室腹の弟、正式に側室となった女の腹から生まれたそれ以下の弟たちよりも軽んずられる存在だ。 (生まれが)  妾腹だったというだけで。  自分の存在は、一門の誰よりも劣ったものとなる。 (このままでは、終わらせない)  そう思ったのは、一体いつの頃か――。  まず、父親と不仲な本家の棟梁・水尾景直(みずおかげなお)に密かに通じ、彼の野心に火を点けた。表面上は守護大名・榊鷹郷(さかきたかさと)と上手くやっているようだが、心の奥底では危機感に欠けた主を苦々しく思っていたらしく、こちらの話にすぐ乗ってきた。  鳴海国(なるみのくに)の守護大名・榊鷹郷を追放、もしくは弑逆し、水尾本家がこの国の主となる。分家の棟梁である父と弟たちを廃し、自分が分家棟梁として水尾本家の家老に就く。 (そして)  水尾景直は、臓腑に持病を抱えた身だ。  いつ急な病(・・・)で亡くなるか、わからない。  あとに遺されるのは、この気弱で暗愚な少年のみ。  直重は、幼さを残す容貌の直周(なおちか)へちらりと視線を滑らせ、これから開かれる未来を思う。 (もうすぐ……もうすぐだ)  もうすぐ、手に入れたかった明日が手に入る。  胸の内側に湧き上がる感情のままに起こる笑いをなんとか抑えながら、直重はくつりと喉の奥を鳴らした。  ――が。  次の、瞬間。   ドォ……ォン……!!  何か巨大なものが倒れ込むような轟音が、鼓膜に響いた。同時に、バリバリと何かが裂ける音。直重が反射的に振り返ると、先程火を放った古寺から巨大な仏像の上半身が垣間見えた。  堂内に炎が回り半壊したために、仏像が自重を保つことが出来なくなったのだと思ったが、仏像に足をかけ堂内から出てくる人影を視界の端に捉え、一気に冷たいものが背筋に走った。 (誰だ!? いや、誰でもいい……っ!)  口を封じなければならない。  ゴクリ、と喉を鳴らしながら腰に佩いた刀へと手をやり、出てくる人影に目を凝らす。倒れ込んだ仏像から身軽に降りた影と、さらにその次に何かを抱えた影が一つ。  直重は、直周やその他の破落戸に目配せすると、人影めがけて少しずつ慎重に歩を進めた。草木と石を踏む自身の足音が、何故か大きく響く。 (人数自体は、こちらの方が多いんだ)  焦ることなど、何一つない。  ふーっと意識的に息を吐き出し、直周や破落戸へと視線を滑らせた。そして「()れ」と命じようとした、その、刹那――。 「兄上じゃないですか」  やや高めの、若い男児特有の若木を思わせるかの如き声が響く。  直重の肩が、滑稽なほど大きく跳ね上がった。  知っている声だ。  ゆえに、その事実を脳が拒絶する。 (まさか……)  そう思うのに、瞳は即座に声の主を追うように、今、古寺より出てきた人影へと走らせていた。堂内から零れる焔の橙を背に負ったその人物は、日頃より見下していたはずの弟その人。  どういうわけか女物の小袖を身に付けた弟は、紗の打掛を被布にしている小柄な女を片腕に抱きながら、利き手には黒塗りの鞘を握り締めている。そのやや前方には、彼の乳兄弟である少年が、刃をすでに抜いた状態で切っ先を直重へと向けていた。  直重の鼓動が、ひときわ大きく胸の内で鳴り、背にゾクリ、と冷たいものが流れる。カラカラに渇いた口内を湿らせようとしたが、意識とは裏腹に唇が上手く閉じてくれなかった。 「お、に……ちよ」  水気を全く帯びない声音が、僅かにあいた唇から零れる。 「直鷹(なおたか)ですよ、兄上」  軽く訂正をしながら、鬼千代(おにちよ)――直鷹は「於勝(おかつ)」と乳兄弟の少年を短く呼んだ。彼の乳兄弟の少年はなにやらやや不満そうにしながらも、白刃を鞘へと納める。  けれど向けられる尖った気配は、未だ直重を取り囲んでいた。  戦場にも似た空気を感じながら、直重は一度、思いっきり息を吐き出し、そして吸い直す。取り込んだ空気が彼の緊張を解きほぐし、脳が一気に活性化を始めた。 「何故、こんなところに?」  先程までの狼狽を感じさせないほどの、いつも通り傲慢な声。直鷹は一瞬、鼻白んだような表情をし、その後取ってつけたかのように唇に三日月を刷いた。  相変わらず、癇に障る表情(かお)をする弟である。 「あまり大きな声では言えないことですけど、女と会っていたんですよ」  直鷹が、片腕に抱いた少女へと視線を落としながら答えると、痩躯が僅かに身じろぐ。紗の打掛の奥で、肩先からさらりと癖ひとつない髪が一房こぼれ落ちた。 「女? 女との逢瀬が、こんな場所か?」  童子(ガキ)だと思っていたばかりの弟も、確か今年で十六、七ほどになるはずだ。  妻を娶らせるという話は聞いたことはないが、通う女の一人や二人、いても不思議ではない。  けれど、女との逢瀬にしては色気がないどころかそもそも仏像の前というのはいかがなものか。もっとも、それを焼こうとした自分がとやかくいえた話ではないのかもしれないが。 「堂々と通うには、少し問題が出てくる身分の女なんで」  直重は弟が大事そうに抱く女を凝視する。打掛を被布にしているため、はっきりとした容色はわからないが、先程細い肩口からこぼれた癖ひとつない手入れされていると(おぼ)しき髪質を考えると、なるほど下賎な身分の女というわけではないらしい。 (飛ぶ鳥も撃ち落とす勢いの水尾秀直の息子――しかも、正室腹の息子が表立って通えないとなると……)  相手の身分云々というよりも、恐らく立場的なものだろう。 (そう、例えば)  敵対する家柄の、(むすめ)。  そしてそれに該当する人物と言えば、水尾本家の(むすめ)か、もしくは(さかき)家の(むすめ)。前者は当主そのものがこの計画に参加しているため、特に問題はない。 (問題があるとすれば)  後者。  榊鷹郷の(むすめ)である場合。 「一体いつから通うようになったんだ? お前がこんな場所まで来て逢瀬を交わすとは、よほど美しく賢い姫君なのであろうな」  朗らかで明るい、春の陽射しを思わせるかのような声音が、直重の唇から溢れ出るように零れた。けれど声の質とは裏腹に、彼の瞳の奧は弟への疑いの色で染められている。  直鷹は兄からの疑いの視線を軽く受け流すと、直重の背後で訝しげに眉を顰める破落戸たちへと視線を向けた。 「ま、俺のことはともかくとして――。兄上こそ、すごいじゃないですか。領地のすぐ側とはいえ、これほど早く火事現場に駆け付け、下手人を押さえるなんて、ね」  片頬を吊り上げながら、少年は笑う。どこまでも深い黒曜石の瞳は、殺気とまではいかないが、けれど決して友好的なものではない。  直重は一瞬息を飲み、弟が向けた視線の先へと自らも目を滑らせる。この現場を見れば、火付けの下手人である破落戸たちと、女との密会中に被害に遭った弟たち。ならば、この場にいる自分は、どういった立ち位置なのか。  直周へと視線を流すと、僅かに眉の間に皺を寄せながら、小さく首を振ってくる。人数的にも、相手の戦力になるのは悪童二人。さらには女も連れていての戦闘だ。十中八九、こちらが勝つだろう。 (だが)  この場で消してしまうよりも、同じ消すにしてももっと効果的な使い道があるはずだ。  いずれ消すつもりだとしても、彼の「水尾秀直の息子」という条件は、自身にとっても最高の手札である。 (直鷹は、小賢しい)  故に、恐らく直重が確実に黒だと証拠を得るまで、主たる父親に報告せずに辺りを嗅ぎ回るに違いない。もしとっとと情報を父親に渡すような男なら、今ごろ敵に囲まれていたのは自分たちであっただろう。 (殺すのは、いつでも出来る)  直重は直周からの返答に、軽く頷くと一度睫毛を伏せる。ふぅ、と大きく息を吐き出し、左手に握り締めた鞘から白刃を抜き出した。緊張からか、鞘を握る手のひらにぬるりとした汗を感じる。戦前の緊張によく似たものが、胸の内に広がった。  唇に笑みを貼り付け、そして一気に目を見開くと、僅か後ろに控える名も知らない中年の粗野な男へと刀身を袈裟懸けに振り下ろす。肉を裂き、骨を断つ感覚が刀を通して腕へと走った。  同時に悲鳴というにはあまりにも小さい呻き声が、鼓膜を震わせる。  直重はその声に特に顔色ひとつ変えることなく、そのまま男の身体を通り抜けた刃の切っ先を、崩れ落ちる男の横に立つ男へと向け、何の躊躇いもなく彼の喉元へと突き刺した。  直周は、と見れば、彼もほぼ同時に近くにいる男の身体へと白刃を埋め込んでいる。 (あと一人)  直重はまるで出かけてから些細な忘れ物をしたことを思い出したかのような気軽さで、もう一人残った破落戸へと視線を向けた。 「へっ」  顔の半分が濃い髭で覆われた中年の男が、刀を抜く。常ならば、弱い者から金品を巻き上げたり、野伏(のぶせり)(盗賊)のような真似をしている男だからか、己に迫り来る「死」というものへの恐怖がないかのように、その髭だらけの頬には笑みすら浮かべていた。 (少しは、度胸があるか)  こんな状況になっても怯えを見せないとは、少し惜しい気もする。  しかしどの道、事が済んだら始末する予定だった男だ。  直重が刀を一度大きく振るうと、ビュ、と空を斬る音とともに、鮮やかな血が宙を舞った。男は、熊のような巨体を少しずつ横へとずらしながら、直重、直周と距離を取る。けれど瞳は二人から決して離さなず、鋭い視線を投げかけていた。 「なるほどね……都合が悪いから始末するって?」 「そうみたいね」  男が自虐的な笑みを浮かべると、背後から呟くような低い声がかけられる。男が反射的に振り返ると同時に、直重の視線も声の主へと走った。そこには先ほど古寺から出てきた女装姿の弟の姿。  一体いつの間に、彼の側に寄ったのだろうか。どれほど、暗闇での活動に、目が慣れているというのか。直重の眉が、苛立ちの感情を滲ませた。 「まぁ、これも運命ってやつかな」  どこか楽しむような少年の声音に男の肩が僅かに揺れる。けれど、刹那――彼の胸に何かが押し付けられ、一瞬の間を置いて苦悶の表情を浮かべながら、まるで錆びた刀を抜く時のようなぎこちなさで瞳を少年へと送った。  男は何かを紡ごうと、唇を僅かに震えさせ――けれど、そのまま崩れるかのように地面へと落ちる。  そして草むらへと落ちた男がぴくりとも動かない様に一瞥すると、懐から紙を取り出し濡れた手のひらを拭い、そのまま巨体へとそれを落とした。 「殺った……のか?」 「心の臓を突きました」 「そうか……いや、此奴らが火付けの下手人だったようだ」 「そのようですね」  真実がすぐそこにありながら、お互いにそれが見えていながら見えない振り、気付かない振りをして、兄弟は三日月を自身の唇へと浮かべる。けれど、瞳の奧は敵意の色に染まっており、二人の間に流れる空気はただただ冷たい。 「さて、下手人も始末したことだし、俺たちはそろそろ行くかな」  自身が手にかけた者たちには目も向けず、直重は鞘へと凶器を納めた。常ならば金属音と共に鞘へと納められるその刀は、鯉口が血に塗れたのか、涼し気な音を響かせることはなかった。 「兄上、忘れ物ですよ」  直鷹は、草むらへと無造作に打ち捨てられていた白を基調とした打掛を拾い、兄たる青年へと放り投げる。適当に丸められた打掛はそのまま宙で広がることなく、反射的に受け止めた直重の腕の中に納まった。  直重は腕の中にある打掛に一度目を落とし、その後、怒気とも殺気とも取れる視線を弟へと向ける。血を半分同じくした兄弟の視線が、重なり合った。 「そうか……。これは俺のものではないが、持って帰るとしよう」 「お気を付けて。曼珠沙華は、不吉な花とも言われますから」  弟の言葉に返事をしないまま、踵を返す。  同時に、炎に包まれた古寺が音をたてて崩れ去った。
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