第二章 月影の、その夜に

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 息をするかの如く、と形容するのが相応しいほどの風景だった。  阿久里(あぐり)は、目の前で当たり前のように人の命が奪われる様に、言葉を忘れたかのようにただ黙って事の成り行きを見ていた。  数十年前より時代は乱世と呼ばれるものとなり、合戦は小競り合いを含めれば全国どこででも起きている。常識外れの父親を持つものの、曲りなりにも武家の出身である以上、「死」と言うものに関して公家や商家よりも近しいところにはいたと思う。  そして今回の件に首を突っ込めば、必ず命のやり取りが発生すること。そしてその命には重みがあるということを、覚悟はしていた。 (ちゃんと、わかっていたけど)  でも実際、強制的にもぎ取られた命を目の当たりにすると、その覚悟はあってなかったようなものだったのだと、自身の覚悟などないに等しい甘っちょろい戯言だったのだと、そう自覚せざるを得ない。  それほどの、衝撃だった。 (なに、よりも)  直鷹(なおたか)が、何の躊躇いもなく男を突き刺したことへの衝撃が大きかった。  あの場面では、仕方がないことだとはわかっている。  阿久里自身、あの場で死ぬわけにはいかなかった。  何かを生かそうとすれば、捨てなければならないものがある。 (思っていたけど)  自覚が足りなかった。 (この人は……変な人だけれど)  でも、人に対して垣根を作らず接することの出来る人で。 (私にも、良くしてくれる人で)  けれど。 (武家の男で)  日々、誰かの命を犠牲に生きながらえている人で。  ――そして。 (私も、武家の女なのよね)  阿久里はふーっと軽く息を吐き出すと、直重(なおしげ)直周(なおちか)の背中が闇の中に完全に消え去ったのを確認し、被布にした打掛をするりと滑らせ、肩へと羽織り袖を通す。打掛の内側へと入り込んだ髪を掻き出すと、ふわりと煙のにおいを纏う荷葉(かよう)が舞った。 「大丈夫?」  黒拵えの鞘を持ちながら、直鷹が阿久里へと声をかける。その声音は、常よりも少し低く、先ほどまでの尖った気配が未だ少年の近くにあった。 「……はい。少し、驚いただけです」 「ま、人が斬り殺される状況なんて、名家の姫さんには縁のないものだしね」  この時代、女だからといって、合戦に無関係なわけではない。家臣の妻子は、夫や父親が取ってきた首に死化粧を施すこともある。攻め込まれ籠城ともなれば、男たちの怪我の手当は女の仕事だ。  けれど、阿久里のように守護大名の(むすめ)という身分では、自ら首に死化粧を施すこともない。仮にどこかの家へ嫁ぐにしても、恐らく相手も大名かそれに準ずる家柄だろう。合戦において「死」というものが現実的なものになるとするならば、それは――。 「戦に敗れて、一族皆殺しにされる可能性なら近々ありそうですけれど」  阿久里は草むらの中でピクリとも動かない死体に一度睫毛を向け、そしてそのまま直鷹へとそれを滑らせた。このまま直重の計画が順調に進めば、次、ああして草むらに骸を転がすのは、自分である可能性が高いのだ。 「それを、父親の(さかき)さまに知らせる予定は?」 「微塵もございません」 「清々しいほどの即答をどーも」  流れるように答えを返す阿久里へ、直鷹は鼻先から笑いを弾けさせる。先ほどまでの殺気は闇の中へと消え去り、そこにはいつも通りどこか外連味のある表情をした少年の姿があった。 「曲がりなりにもあんたの父親は、鳴海国(なるみのくに)の守護大名でしょうが」 「まぁ立場を言えばそうなのでしょうけれど……この事態をどうにかできる器があるような方ではありませんし」  阿久里は小首を僅かに傾げ、この騒動における父親の初動を思い出す。  如何に疎んでいる娘を示唆するような情報が流れたとしても、まっ先に娘の館を訪れ曼珠沙華だ狐火だと騒ぎ立て、火事の原因詳細は全く気にせずお構いなしの城主など稀有にも程がある。――もちろん、悪い意味で。  挙句、娘が屋敷から外出していないかを一度確認したら、それ以降の行動には無関心。 (だからこそ、お忍びとはいえいまこうして外出出来ているわけだけど……)  阿久里は父親の狸のような顔を思い出し、知らず眉の間に皺を刻む。肩口から癖のない栗色の髪が一房零れ落ちた。 「じゃあ、いっそそのまま謀叛でも起こさせようか?」  零れ落ちた少女の髪を指に絡ませながら、直鷹は戯言に唇に三日月を刷く。ふっと唇から漏れた吐息が、阿久里の額にかかる髪を微かに揺らした。  少年の指に弄ばれる自身の髪が、まるでこれからの榊の家を暗示しているかのように思えてならない。水尾(みずお)の手の中に落ちる、榊の姿。  少女は眉の間に皺を刻むと、柳眉に憂いを滲ませた。 「そう、ですね……。このままではいずれ、榊の家は滅びるとは思います」  いつの間にか乾いていた唇を、一度湿らせ、喉を鳴らす。そして真っ直ぐに直鷹へと睫毛を向けた。宙に浮く髪を軽く引っ張ると、するり、と捕らえていた指を何の抵抗もないまま髪が滑り落ちる。   彼の指から、滑り落ちる。 「でも……まだ、その時期じゃない」  阿久里の唇から、はっきりとした根拠を秘めた言の葉が零れると、少年の目が俄かに大きく見開かれた。  二十年前の大戦での影響は、都からやや離れた鳴海国(このくに)にも伝わってきており、権威の象徴たる将軍によって守護大名に任ぜられた榊家が権力を失って既に久しい。国人衆を纏め上げ、武力によって土地を切り開いてきた直鷹の父親のような存在が、これからの時代、国を動かす要となるのだろう。 「それにはまだ早い。そう、思います」 「……早い?」 「えぇ。これは、個人的な考えなのだけれど。将軍家から一国を任された守護大名というのは、いってみれば民からの施しで生きている物乞いのようなものでしょう?」 「……この国において、上から数えた方が高い地位を、最下層の物乞い扱いする人間は、初めてお目にかかるね」 「でも、そうじゃないですか。漁師は、魚を獲ります。商人は物を売る。職人は物を作る。農夫は米を、野菜を作る。でも、私たちは、なにも生み出すことがない。人からの施しで生きながらえているだけの人種に過ぎない、と。そう思っているんです」 「ふぅん……。それをいうなら、公家や武家……支配者層が全部がそうなるね」 「えぇ」  阿久里は睫毛を一度羽ばたかせると、軽く唇を湿らせる。 「だからこそ、私たちは彼らを……民を、護ることをしなければならない。そう、思うのです」  漁師が、明日も魚を獲れるように。  商人が、明日も売るものがあるように。  職人が、自分の望むものが作れるように。  農夫が、田畑を耕し米や野菜を作れるように。  彼らの暮らしを護り、そして富ませ、豊かな生活を保障することで、はじめて支配者である自分たちはその施しである税を手にすることが出来るのだと。  そう、思っている。 「そういうことが出来なくなっているのが、あんたの親父さんじゃないの?」 「うちのお父さまは、武家の棟梁としては失格でしょうけれど。でも、まだ『榊家』という名を有難がり、その威光を蔑ろに出来ない人も多い」  武力によって力をつけてきた者たちの時代がもうすぐ見えてきているとはいっても、それでも京の将軍から代々任ぜられている守護大名家の権威が未だ人々の意識の中にあるのも事実だ。  それがなくなり、完全な武力のみの時代になるには少なくともあと数十年は必要だろう。 「それまで、榊の家は滅ぼされるわけにはいかないわ」  民の暮らしを護り、国を富ませ、豊かにする。  そのために。 「……榊さぁ」 「はい」 「いままで軟禁されてたっていってなかった?」 「いいました、が……?」 「軟禁されていただけの人間が、どうしてそういう考えに至るようになったわけ?」  最初こそ驚きの表情を以て阿久里の言の葉を受け止めていた直鷹が、その感情をやや持て余すかのように苦笑を頬に貼り付けながら問うてきた。 「んー、軟禁されていたからこそ……かもしれません」 「っていうと?」  直鷹の眉尻が軽く持ち上がり、疑問符が瞳に宿る。 「前にもいいましたが……私は、父を始めとする家族からは疎まれ育ちました。けれど、乳母や乳母子からの情には恵まれていたと、思うのです」  母親は物心ついたときには父と離縁しており、その記憶はない。  けれど、傍にはずっと乳母がおり、彼女の娘と姉妹のように育った。彼女たちからの愛を、常に感じて育っていた。家族から見放された自分でさえも、敬ってくれていた。  けれど、昔の自分は、大名家の姫君とは名ばかりの自分が、本当の家族にさえ疎まれる自分の存在を、何故そこまで大切に思ってくれるのかわからなかった。 「そこで出した結論が『大名家の姫君だから』でした」  名ばかりであったとしても、その名こそ――肩書こそが、この世界ではなにより大切なものなのだと。  家族に疎まれる自分でさえ、それでも大名家の姫君だからこそ大切にされる。 「なんていうか……俺がいうのもなんだけど、かわいくない女童(ガキ)だね」 「わかってますよ。でも、あのときは自分なりに必死に、答えに辿り着こうとしてたんですよ。あ、もちろん、彼女たちからの情というのは嘘、偽りはないものです。彼女たちの慈しみや忠義の心を疑ってるわけじゃないんです。いまは」  乳母は阿久里が十二の時に亡くなったが、その今わの際に至るその瞬間まで、彼女の愛情は確かに自分にあったと思っている。 「家族からも愛されていないような自分が、それでも乳母や乳母子からの忠義を得られる。じゃあ、その名というのは、身分というのは一体なんなんだろう……って考え出したのが、ちょうど乳母が亡くなってからの話ですね」 「へぇ……それって何年前?」 「確か……十二の頃でしたから、四年ほど前でしょうか」 「じゃあ俺が花咲城(はなさきじょう)に挨拶にいった頃だ。元服したの、それくらいだから。あぁ、思い出した。あんた、確か屋敷抜け出そうとしてて……、で、侍女に叱られてたんじゃなかったかな」  確かにあの頃、いまほど屋敷を抜け出すのはうまくなく、たまたま父の住まう奥御殿の侍女が様子見伺いにきたときに見つかり小言をもらったものだ。どうやらあの過去に流れた日々の中に、この少年とすれ違う時間があったらしい。 「城を抜け出して、『榊の姫君』ではなくなった自分はどういうものなのか、知りたかったのです」 「抜け出して……、で、どう思ったわけ?」 「なんにもない、小さな存在だなと思いましたよ」  遠い日々を手繰り寄せながら、阿久里はくす、と笑いを食む。 「初めて行った城下では、その日、市が立っていたんです」  人と人が洗われるようにごった返すその中で、今朝方、獲ったばかりだという魚を売る人、家で家族が作ったという小物を売る人、油を売る人。皆が何かを得るために、働いていた。 「そこで、皆が話す声が聞こえて……」   ――今日、市が開催出来てなによりだったなぁ。   ――ほんとだよ。ほら、隣の波津(なみづ)じゃ殿さまが討たれたらしくってよ、もう国中ピリピリしてるってさぁ。   ――あぁ、蒔田(まきた)さまの納める本国からは、ちぃっと離れてっからなぁ。   ――蒔田さまは偉ぇ殿さまなんだろうけど、お国がおっきくなりすぎちまって、目が行き届かねぇってことなのかねぇ。   ――鳴海(ここ)は、そんなおっきい国じゃねぇけんど、殿さまのお膝元ってことでまだまだ活気があっていいことだなぁ。 「気づいたんです。私はなにも持っていない、じゃなくて。名こそ、身分こそが、私の仕事なんだと。その名があるから、こうして人々は暮らしていっているんだって」 「そこで『じゃあそんなに私は偉いのね』って選民意識に走らなかったのはすごいな」 「十二の子供でしたからね……」  もしかしたら、「榊の姫君」という名について、自分の身分について、もう少し事前に知っていたのならば、そういう意識が芽生えてしまったかもしれない。  けれど幸か不幸か、実の家族からは離れて育てられていたため、選民であるという意識が生まれるその前に、新しい世界を見つけてしまった。 「まぁわからなくもないな。十二歳っていえば、まさにそういう年齢に差し掛かる頃だしね」 「そういう、とは?」 「んー。なんていうか、こう……権力への反発というか……。与えられたものから逃げたくなるっていうか」 「あぁ……あなたを見ると、まだそんな感じがしますね」 「どういう意味かな」 「はっきりと申し上げてもよいのでしたら、申し上げますが」 「……んっとに、イイ性格してるよなぁ」  直鷹はそういうと、苦笑を頬へと貼り付けながら視線をスィ、と横へ流した。阿久里がそれを追えば、鬱蒼と生い茂る木々の合間から小さな橙の灯りが映る。恐らく、花咲城で焚かれている篝火のひとつだろう。 「っていうか、俺と同じことを考えているやつが、他にもいるとは思わなかった」 「……え?」  直鷹がぽつり、呟くように言の葉を落とす。  阿久里はその意図するものが読み取れず、軽く首を傾げた。 「んー? だからさ、そろそろお互い腹をかっ捌いて、その中に溜めたもん全部洗いざらい話し合おうか」 「あの……私、切腹の作法は、流石にまだ学んだことありませんけれど」 「まだって……今後、学ぶ予定でもあんの?」 「そうならないといいな、とは思ってはいます」 「じゃあ、榊は俺と同盟でも組もうか」 「……は?」  どうめい……?  耳慣れない言葉を鼓膜が拾い、阿久里は鸚鵡返しに語尾を高くした。 「そう。俺も、まだ武力のみに頼っている水尾(うち)が守護大名を追い落とすのには時期尚早だと思っている」 「……お父上さまのご活躍を間近で見ながら、そう言われるのですか?」 「いずれは、この国の主として名乗りを上げるのかもしれない。でも、水尾(うち)が鳴海国の名実ともに主となるにはまだ早い。このまま武力だけで押し切っても、必ずしっぺ返しが来る」  阿久里は、突然の少年からの言葉に長い睫毛を上下させた。驚きのせいか、ふわりと睫毛を落とした頬が重く固く、ぎこちない。 「そのためには、是非とも榊に頑張ってもらいたいと思ってたんだ」 「つまり、あなたのお父上さまが鳴海国全てを切り取らないよう、榊家に権威を持ち堪えさせろ、と?」 「もっといえば、あんたに榊の当主になってもらいたいくらいだね」 「……それは、また随分…………突飛なお話ですね」  もともと六人の(むすめ)のうちただひとり残された棟梁娘であり、いずれは婿を取る予定にはなっていたが、それでも榊の家を継ぐのは婿養子に入る夫の役目だ。阿久里の仕事は、榊の血を絶やさぬよう榊の子を孕み産むこと。  もっとも父親との関係ゆえに具体的な婿取りの話が出たことなど一度もないし、仮に出ていたにせよこんな見場の女の婿に来ようとする男衆もそうそういないと思うのだが。 「あんたの親父さんが大名な時点でもう既に突飛もいいとこだし、今更じゃない?」 「そして謀叛の企てもこの際一緒に潰してしまいましょう、と?」 「有り体に言えばそうなるね」  直鷹は、阿久里の瞳を見つめながら悪童めいた笑みを頬へと浮かべた。まるでいつぞやお忍びで城下に行った際に偶然見かけた、幼子が母親に内緒でなにか悪戯をしようとするときの表情そのものだ。 「改めて思いますけど、変な方ですよね」 「比較対象次第では、ちょっと傷つくなーそれ」 「特に比較対象があったわけではないのですけれど……、思えば私、さほど知り合いというものも、おりませんし」 「っていうか、あんたも十分変なやつだからね」 「じゃあ変人同士の同盟ですね」  少女がつられるようにふっと頬を緩めると、まるで花が咲きほころぶかのようにゆっくりと長い睫毛が白磁の頬へと影を落とす。  刹那――。  少年が息を呑み、黒曜石の瞳が大きく見開かれた。  栗色の艷やかな髪へと誘われるかのように、少年の指が宙を掻く。 「………あー……、悪い」  寸でのところで無骨な指が止まり、直鷹は気まずそうに視線を阿久里から離した。宙に浮いたままの指が、居心地悪そうに拳の中へと入り込み、そのまま下ろされる。  阿久里は一連の流れにいまいちついて行けないまま、柳眉を顰め小首を傾げた。 (えっ、なんなの……。さっきは平気で人の髪に触れたくせに)  何故ここで気まずそうになるのか。  今さら、人の髪に無断で触れることを申し訳ないと感じたのか。  少年のどこか困惑したかのような横顔に、再び息の仕方を忘れそうになる。胸の内側が何となくもやもやとして、少女は思わず視線を少年から逸らした。 「若」  少し離れた場所で恒昌(つねまさ)が、短く直鷹を呼ぶ。直鷹と阿久里がほぼ同時に視線を向けると、草むらに転がる骸を調べていたのか、膝をたてしゃがみこむ少年の姿があった。 「何かあったか?」  常よりもやや低く少し早く紡がれた言の葉を、直鷹は乳兄弟へと投げかける。阿久里へと伸ばされていた指はすでに下ろされており、先ほどまでの気まずそうな雰囲気は少年から消えていた。 「いえ、やはり何も証拠は残してないようです」 「だろうなぁ」  ガサガサと草の海をかき分け、直鷹は恒昌の方へと歩を進めていく。阿久里が打ち掛けた小袖の裾を持ち上げながら従いて近づいて行くと、数歩前を歩く少年の背がぴたりと止まった。 「榊、来ない方がいい」 「え?」 「あんたみたいなお姫さんが見るようなもんじゃない」  その言通り、ツン、とした青臭い草木の臭いに混じって錆びたような臭いが少女の鼻先を刺激する。少年の言外の意味を悟るには十分過ぎるほどの、不快な臭いだった。  けれど。 「私も、武家の女ですよ」 「知ってる。でも、死体はまだ見たことないだろ?」 「……ありません。でも、私だけ綺麗なところにいるだけだなんて、それは同盟ではなく、庇護に近いです」  同じ目的を持つ者同士、役割分担の差はあれど、利益も不利益も共有してこそではないのか。  琥珀色の瞳を真っ直ぐ直鷹へと向け、阿久里はゆっくりとした声を唇へと乗せた。目の前で行われた惨劇に恐れを抱いていないと言えば嘘になる。けれど上に立つ者として、そして武家の女として、「榊の姫君」として、これらのことは決して目を逸らしてはいけないのだとわかっている。 (勿論、彼が遠ざけようとしてくれたその気持ちもわかるけれど)  でも、自分はわかるからこそ、見なければならないのだ。  直鷹は少女の言葉に「へぇ」と呟きを零すと、瞳を細くし唇でうっすらと三日月を描く。 「そんだけの覚悟があるなら、そっちで寝たふりしてる熊を起こすの手伝って欲しいね」 「……熊……?」  阿久里は眉の間に皺を刻みながら、語尾を跳ね上げた。直鷹は、少女の疑問に返事をしないまま、前方に倒れる男へと歩を進めていく。 「おい、起きろ」  少年は短く命じながら、絹布や色鮮やかな結紐がくくられた黒鞘をおもむろに倒れる背へと軽く打ち付けた。 「……ッ、いってぇ!!」  一瞬の間をおいて、野太い悲鳴と同時に骸が跳ね上がる。 「その方、人間(ひと)ですけれど」 「いや……人間(ひと)だけどね」  肩越しに苦笑めいた光を宿す瞳を半眼にする直鷹に、阿久里は何か悪いことをいったか、と思わず唇を両手で覆った。 「というか……そもそも……」  先程直重らの前で、直鷹自ら彼の胸を突き刺したはずだ。少女は目の前にある少年の背中越しに男を見ると、刺したはずの胸元は古びた印象こそあれ着物に傷はひとつもついておらず、けれどもどす黒い何かがべったりと付着していた。 「血糊、ですか?」 「御明察」  直鷹は、悪戯が成功した子供がするかのような表情を浮かべ、阿久里へと笑いかける。   ――殺った……のか?   ――心の臓を突きました 「確かに、殺めたとは一言もいってませんでしたね」  森の暗さとあの距離だったら、血糊を使わずとも直重にバレる心配などはなかったのだろうが、懐紙で手を拭うという行為までしたからこそ、確実に殺めたのだと阿久里も思った。そして、それを残酷と思いながらも、仕方がないのだと諦めた自身の心が少しさもしいものに思えた。 「何故、助けた?」  熊が言語を司ったとしたら、恐らくこんな声なのだろうというような、低い声が直鷹へと向けられた。  よく見れば想像していたよりも若く、年の頃は三十ほどか。無精髭を整えることなく、いつ櫛を通したのかわからない程、結われた髪は乱れていた。しかし、眼光は野生の獣――まるで熊を思わせるかのように鋭く、そして僅かに敵意が感じられる。 「殺したほうがよかったなら、今からでもそうするけど。どうする?」 「…………いや、悪かった。命の恩人だ。有難い」  一度目を伏せ、そして深く息を吐くと、再び視線を持ち上げ答えを返した。視線こそ未だ鋭いそれだったが、敵意は男から消えており、声も重々しく低くはあったが先ほどまでの尖った印象はすでにない。 「で、俺から何か聞き出したいのか?」  こめかみあたりに節くれだった太い指を入れ、掻き毟りながら草むらにどっかりと腰を下ろし胡座をかき座る。直鷹は片膝を草むらに付きながら、座しても阿久里の背丈の半分以上もあり、下手な熊よりも大きいそうな男へと視線を合わせる。 「いやー? いくらお前を調べても、兄上との繋がりが出てくるとは思えないし」 「じゃあ、何で……」 「あの状況で、兄上に斬りかかろうとした度胸を惜しいと思ったからかな」  斬り殺された三人の腕前はどの程度だったのか、今となってはわからない。味方だと思っていた人間から不意打ちに近い形で斬られているため、結果をもって直重や直周よりも剣が劣る、と判断するのは早計だろう。  けれど、ひとり生き残った彼は、あの状況でも負けるつもりなどなかったに違いない。 「なのに、俺の都合で芝居にわざわざ付き合わせて悪かったね」 「それだけ、か?」 「他にも何か、理由がいる? いるなら考えるけど」  直鷹は立膝をついた足を崩し、男と同じように草むらへと胡座をかいて座る。黒髪が額の上で僅かに揺れ、同時に阿久里からの移り香がふわりと空気を揺らした。 「……この匂い……そうか、あの時港近くにいた遊女はあんたか」 「あら、今頃気付いたのかい」  やや掠れた艶のある声音を流し目とともに投げかけてくる少年に、男は一瞬目を丸くする。そしてこみ上げてくる何かを抑えようと顔を真っ赤にし、けれど鼻先から一度笑いを零すと堰を切ったようにそれを開放した。 「くははははははっ、芸達者だな。若さんよ」 「そいつはどうも」 「ってことは、そっちの姫さんがお相手役の若衆だったのか」  阿久里は視線を向けられ、僅かに身体を傾げ男へと視線を合わせた。立ったままで挨拶するのも失礼かと、掴んでいた打掛の裾を下ろし手馴れた様で捌くと、そのままスッと音もなくその場へと正座する。  彼のような身分の者と接する機会も今までなく、どう挨拶をしていいものか一瞬思案するが、少なくとももう「初めまして」ではないだろう。 「えっと……二度目まして?」 「常識が迷子になってんだけど」  律儀に三つ指をついて挨拶する阿久里へ、直鷹は半眼でボソリと呟いた。 「先ほどまで女装されて声色まで使われてた方に、常識を問われましても……」 「あんたも男装してたでしょうが」 「……あら墓穴」  驚いたかのように目を丸くしながら、阿久里は珊瑚色の唇に細い指を添える。 「ぶははははははっ、あんたら武家なんぞやめて狂言でもやったらどうだ? 夫婦狂言(めおときょうげん)なんて新しいだろ」  男が濃い髭の奧で頬を弾ませながら、笑う。 「榊とは、夫婦じゃない」 「はは、そりゃ知ってっけどよ。でも、似合いだぜ?」 「…………そりゃどーも。まぁ、いいや」  直鷹は、抜いた力を再び入れ直すかのように、地面へ膝をついていた足に力を込め立ち上がった。同時に、チャと鍔鳴りの音が響き、阿久里はその音を追うかのように睫毛を上へと持ち上げる。  顔の前に少年から手が差し出され、阿久里がそれを取ろうと腕を伸ばすと、待つのが面倒だと言わんばかりに彼女の細腕ごと引っ張り上げられた。細い背で色素の薄い髪が揺れ、空気を孕んだ打掛の裾がふわりと舞う。 「さて、どうするかなぁ」  ほぼ真上から落とされる言の葉に、阿久里が彼を見上げると、その視線に気づいたのか彼の瞳が少女のそれと重なり合った。 「あの、腕」  阿久里がぽつりと告げれば、掴んだままでいたことに今更気づいたのか、「あぁ」と少女の細腕を掴んでいた彼の指から、ふ、と力を抜ける。そしてさり気なく、でも確実に阿久里との距離を取るように彼の草履が半歩下がり、向き合っていた身体の軸が僅かに逸らされた。  人の髪に無断で触れようとしたり、米俵のように人を無断で抱えたり。  世間をあまり知らない阿久里には、それが正しいものなのかどうかさえわからないままだったが、そのくせ何故かいまは気軽に触れていたことが嘘のように距離を取る。 (まぁ……近くない分には、それはそれでいいのだけれど)  とりあえず腕は離してもらえたので良しとしよう。  阿久里は思考を入れ替えるかのように、大きく息を吸い込み、透明な風を脳へと送る。 「え、と。とりあえずは、直周どのと接触出来るのが、理想ですね」 「……へぇ、何でそう思う?」 「あの方、私たちが古寺にいた時から気づいていましたよね。なのに、こちらに情報を与えるような事ばかり仰っていたので…」  古寺に足を踏み入れた時点で、港で出会った人物がその場にいることには気づいていただろう。  けれど――。   ――あぁ、先月何度か足を運んだ折、私が焼香致しました。恐らく、その時の残り香でしょう。  彼は香に気づいた直重から、自分たちを庇った。  先程彼の父親へと直重が話を持ちかけたといっていたが、彼自身はこの計画には反対なのだろう。父親であり主である水尾景直がそれに乗ったからこそ、付き合っているだけなのだと、そういいたいように聞こえた。 「ん? 直周って、あの坊ちゃんだろ? なんだよ、なんかキナ臭ぇ面白そうな話じゃねぇか。どうだ、ここで会ったのもなんかの縁だろ? 俺も混ぜろよ」  男が熊のような身体を揺らしながら、立ち上がる。阿久里と直鷹が瞳を向けると、そこには「悪い笑み」以外に相応しい表現が思いつかないほど鋭く目を光らせた姿があった。 「面白そう、で済めば御の字だよ。最悪、その首が飛ぶことになるけどいいの?」 「生憎と、悪運だけは強いんでね」  黒鞘を男の首元へと差し出しながら、似たような笑みを浮かべ訊ねる直鷹に、男は「ご存じだろ?」と、全く動じることなく髭に覆われた唇の端を持ち上げる。 「悪運ね……」  男から鞘を下ろすと、少年は自身の首筋へと手をやり独りごちた。トントンと首筋を叩きながら、崩れ落ちた古寺へとちら、と直鷹が視線を走らせるのへと少女の琥珀が後に続く。  あれほど巨大な仏像なので、跡形もなく消え去ったとは思えなかったが、崩れさる建物に押しつぶされたのだろう。外から見る限りでは、堂内に大きな影を落としていたあの仏像の姿は確認出来なかった。 「こうして仏さまの姿も見えないと、先ほどの火事が何か悪い夢だったんじゃないかって思えますね」 「まぁ夢でも何でもなく、俺と若で足蹴にしたのは現実で……はぁ、俺地獄行きかなぁ」  阿久里の独り言のような呟きに、同じ方向へと視線を向けていた恒昌が自嘲を孕んだ泣き言を漏らす。   ――若の場合、お願いしても極楽浄土にいけない気がしますけどね。   ――地獄行きにはお前も付き合えな。   ――地獄行き決定、おめでとうございます。  先ほど交わした会話が脳裏で蘇り、阿久里はふふっと頬を笑みに揺らした。 「地獄、か……」 「え?」  深い森に小さく落とされた直鷹の言の葉を拾いきれず、阿久里は崩れ落ちた古寺を見つめる少年を振り返った。阿久里の視線を受け、直鷹はお得意の外連味じみた笑みを頬へと乗せる。 「俺は一度、地獄に行くべきなのかもな」  穏やかではない一言が、謡うように唇から紡がれた。
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