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序章
父親に伴われその城を訪れたのは、十五歳の時。
陽射しが厳しい季節に元服をし、その時自身の烏帽子親となった主筋に当たる貴人へ形ばかりの返礼をしに訪れたその城は、とても武家の館とは思えないほど危機感に欠けたものだった。
籠城に備えるかどうかは城主の価値観に委ねられるものだが、流石にいまのご時世、物見櫓くらいはどの城にもあるはずだ。しかし、その城はまるで攻め込まれることなど考えたこともないかのように、物見櫓どころか堀すらなかった。
辛うじて塀はあるが、それ以外己を守るものが何一つ見当たらず、実に清々しいほど開放されていた。一応、山城という形状ではあるが、本丸まで直線でなんの障害物もないまま進める城など、聞いたことがない。
「どうした? ……あぁ、実に画期的な城だろう?」
余程驚いた顔をしていたのであろう。先を歩く父親が片頬をやや吊り上げながら鼻先で笑いを弾く。その表情から窺い知れるのは、素直に驚きの感情を露わにした息子への嘲りか、それとも武家でありながらも危機感を忘れた主に対するものか。
(父上なら、後者だな……。いや、前者もあるだろうけど)
少年は、既に先に歩を進めた父親にわからぬよう息を吐くと、そう独りごちた。そして前を歩く父を追い歩を進めながら、ふと耳朶にカチャカチャという音が触れていることに気付く。
チラリ、と視線を下へと向ければ、自身の進む道に敷かれた白い石。
粒の大きさは不揃いで、この貴人の城に敷かれたものとしては少々粗末にも思えるが、けれどその効果は視覚ではなく聴覚なのだとしたら確実に大正解といえる代物だった。
乱破や素破といった間諜は、足音を消して歩くことが出来るという話だが、いくつもの小さな石が無造作に散らばるこの路ではそれもなかなか難しいだろう。
(でも、この一帯だけ……?)
路地の奧――この城の構造を考えると、恐らく搦手門(裏口)に近いと思われるこの場所は、周囲に視線を巡らせても人の通りが全くといっていいほど感じられない。むしろ、ひっそりと寂しげな印象すら覚えるほどだ。
人の目から避けられている雰囲気こそあれ、なにかを大切なものを大事に隠しているような雰囲気は皆無といえた。
(もしかして、罪人でも閉じ込めておく場所?)
けれど城主の住まいの裏側に位置するような場所に、そのような者を置くだろうか。
疑問を胸に抱えながら、カチャカチャとした足音は自身よりもやや背の高い垣根の辻に差し掛かる。
刹那――。
「な!?」
視界の端に、突然燃えるような赤を見止め、少年の唇からは思わず驚きの声が零れた。先程、感情を露わにしたことで父親から嘲るように笑われたので出来れば無表情を貫きたかったが、一度唇を溢れ出た言の葉の回収は不可能だ。少年は、気まずそうにそれを手放した。
「あぁ、曼珠沙華か」
息子の声に肩越しに振り返った男は、彼の睫毛の先にあるものを捉え、こともなげに言い放つ。
垣根に囲まれた小さな庵のような建物を守っているかのように、色鮮やかな赤い花が――曼珠沙華が、一帯に咲き乱れていた。
今まで野山で群生するその花を目にしたことは、勿論あった。
辺り一面、その赤で埋め尽くされた景色も目にしたことはある。
けれど、人の住む場所で所狭しとばかりにここまで絢爛としか表現のしようがないほど見事に咲く姿を見たことがなかった少年は、言葉を忘れたかのように軽く開かれた唇から音を発することなくただただ呆然と立ち竦んでいた。
何故、このような場所に咲いているのか。
思った通り、ここには人が住まうのか。
様々な疑問が脳裏を過るが、そんな声を掻き消すかのように、視界に飛び込んでくる赤に魅入られる。
まるで炎のように咲き乱れる赤に、ただ魅入られた。
けれど。
不意に、視界の端の花が微かに揺れる。
一瞬気のせいかと、睫毛を上下させたが、間違いなくゆらゆらと赤い華が揺れている。
少年は、意識がその状況を把握するよりも先に、腰に佩いた刀に手を伸ばした。同時に、目の前の父親がまるで少年を背後に隠すかのように片腕を広げる。
生まれてからいままでずっと父親の庇護の下で育ち、父としてはいまだそのつもりなのだろうが、それでも元服し成人した以上、父は親である前に主である。いざとなればいつでも彼の前に出る気概を持ちながら、少年はチャリ、と鍔鳴りの音を宙に揺らした。
その音に、目の前の父親の背がふ、と笑う。
「まぁ、姫様……斯様なところで何をしておいでですか?」
けれど、彼ら父子の覚悟を嘲笑うかのように、曼珠沙華のさらに奥――垣根の向こうから、女特有の甲高い声が響いた。怯えと、やや怒気が混ざったような焦りの声音に、ゆらゆらと揺れていた曼珠沙華はようやく動きを止める。
「…………別に、なにもしていないけれど」
やや幼さを残す、吐息のような声音。
例えるなら、水晶が波紋を描いたかのような透明さ。
けれど、そのくせどこか太々しさも感じる声音。
透明なのに、アクのような渋みも感じる。
そんな相反する印象を与える声音に、少年は軽く眉根を寄せた。
「地べたに寝そべることは『なにもしていない』とはいいません」
「そんなことをいったら、人は息をするだけでなにかをしていることになるんじゃないの?」
「そのような問答を、姫様としているわけではありません」
「私も別にそのようなつもりは、ないのだけれど」
屁理屈に屁理屈を重ねたようなその言の葉に、先ほど感じた印象は間違っていなかったのだと思わず頬が緩んでしまう。
不意に、ふ、と地面へと視線を落とすと、垣根が破損しており、曼珠沙華の茎の奥から真白い小袖と、それに負けないほど白く小さく細い指が垣間見える。
手の大きさからいっても、さほど年長の者のそれではない。
恐らく自身と同じか、僅かに幼いか。
どうやら話を聞く限り、そこから抜け出そうとでもしていたらしい。
「一応お年頃の姫様なんですからね。地べたに寝そべるなどというようなはしたない真似をわたくしに見せないで下さいまし」
「そうね。今度は見られないように気をつけるわ」
「そういうことを申し上げているのではありません。あ、見られない……といえば、いま、父君によそからお客人がお見えですからね。姫様が、安易にお姿を見られでもしたら、わたくしが殿にお叱りを受けます。はやくお部屋へお入りくださいませ」
しばらく押し黙ったままの赤い花は、甲高い声の女からの圧力に負けたのか、自身の頭をゆらりと再び揺らした。
そして再び甲高い女の声が小言を紡ぎ――次第に、それは遠ざかっていく。
空気に波紋を描いたその声は、その女の声に塗り潰されるかのように淡く消えていた。
(いま、のは……)
何だったのか。
わからない。
わからないが、わからないことだけがわかった。
「なるほど、姫君のうちのひとりが疎まれていると聞いていたが……これがそうか」
はっ、と曼珠沙華から目の前の背へと視線を移すと、どうやら先ほどの問答を父も聞き入っていたらしい。
「姫君、ですか。御城主さまの、姫君ですか」
「あぁ。確か六の姫だったと思うがな……なんでも奇怪な姿で生まれたらしく、疎んでおられると噂になっていた」
実の父親に疎まれるほどの女とは、どれほどひどい姿なのか。
目の前にいる自身の父にしてもそうだが、自分たち息子に対してのそれよりも姉や妹に対する態度の方が何十倍も甘く、よく母や侍女たちから叱られているほどだというのに。
(六の、姫……)
まぁ確かにあの声を聞く限り、御しやすい女というわけではなさそうだ。
「おい、三郎――直鷹」
再び曼珠沙華へと視線を向け立ち止まっている少年に気づいたのか、父親より声がかけられる。
直鷹。
水尾三郎直鷹。
この鳴海国の守護代(守護大名の政務代行人)を務める家の傍系・水尾秀直の三男で、この度元服を済ませたばかりである。
「あ、はい。いま参ります」
先日声変わりをしたばかりのやや掠れた声音で父親に返事をしながら、直鷹はもう一度赤い花を見遣る。
しかし、先程の水晶の如き――けれどアクの強い声音はもう耳朶を撫ぜることはなかった。
京の都で将軍家の跡目相続問題を引き金にして起こった長い長い大戦が終わりを告げたのは、今からはや二十年前の事。
都の荒廃は地方へ飛び火し、将軍家の息のかかった守護大名は長年の戦にて力をなくし、その配下であった者や豪族、さらには商人、百姓でさえも力さえあれば上へ上へと高望み、そして主の座に食らいつく――そんな時代。
下剋上の、時代。
時はまさに、群雄割拠の幕開けだった。
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