第三章 真実を穿つ雨音

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 ねっとりとした風が、肌にまとわりつく夜だった。  常よりも襟元をきっちりと閉め行儀よく小袖を着込んでいるせいか、内側にこもった熱がなかなか逃げない。ツ、と背中に汗が走る不快感に、少年は眉根を顰める。 「あっついなぁ……」  扇代わりに手のひらでパタパタと扇ぐと、高く結われた(たぶさ)がうなじ辺りで僅かに揺れた。細かい透かし織りの白い小袖に、藍の袴を合わせた身形だけで見れば、名のある家柄の御曹司にも思えるが、そんな印象は窮屈だと言わんばかりの大胆な所作が全てを台無しにしている。  時間が時間なだけに、外を出歩いているような人間がそうそういるとも思えなかったが、念のために部屋の格子は全て閉じきっており、空気が暑く重く部屋に充満していた。 「いつものお召し物とは正反対のもの、と仰られたじゃないですか」  背後から、まだ幼さの残る声が投げかけられた。少年は暑さに苛立つ表情のまま肩越しに振り返り、声の主を軽く睨む。 「お前はいつも通りじゃないか」 「そりゃ死んでいませんからね、俺は」  そう答える彼も暑いのだろう、こめかみから汗が流れ落ちるのを手のひらで軽く拭いながら、眉の間に皺を刻んだ。それでも自身よりは幾分マシだろうに、暑そうな素振りをされるのは腑に落ちない。  直鷹(なおたか)は、やや険の孕んだ視線を彼へと飛ばしていたが、バチバチと互いにぶつかり合うその温度さえも暑苦しい。一瞬のちに、どこか冷たい風が思考に吹いて「アホくさいな」と火花を消した。 「……で、どうだった?」 「本家のお屋敷から、先ほど何名か出入りしていました。とはいっても、時間が時間ですし、今日、いますぐに事を起こそうってほどの人数じゃなかったですけど……」 「存外、のんびりしてんね」  あの廃寺での一件から、早十日――。  周辺を嗅ぎまわり真実を知った邪魔な(じぶん)()し、不安要素は排除したとはいえ、兄・直重(なおしげ)の謀を知っている人間全てが退場したわけではない。()()が通ってこなくなったことを不安がる女が、もしかしたらそれを探そうとする可能性だって、ないわけではないのだ。 (まぁ、あの時の(さかき)の態度と、堂々と通えない身分って辺りで、その線は兄上の中じゃ消されてそうだけど……)  なにより、あの時あの場にいた恒昌(つねまさ)は表向きにも健在だ。彼の身分と年齢を考えれば、恐らく取るに足らない存在なのだと軽んじているのだろうが、不安材料としては決して無視できない存在だろう。  いつ事が露見してもおかしくない状況だけに、自分を片付けたら即行動を起こすのかと連日張っていたが、相手はよくいえば慎重派、悪くいえば腰が重いらしい。 (女でさえ「兵は拙速を尊ぶ」って行動してたけどな)  花咲城(はなさきじょう)乗っ取りの筋書きとしては、恐らくまず火事による騒動で榊鷹郷(さかきたかさと)の意識をそちらへと向け、謀叛の企てが露見しないようにする。その後、内密に搦手近くにある古寺を焼き、森の中にもある程度の兵が割けるような空間を作っておく。 「さっき虎口(こぐち)付近の……花咲城の出城だった場所見てきたけど、焼け落ちた建物は片付けられてて軽く百人は配置出来そうな広さがあったな。あそこにそれだけの兵を展開したら、城内は大混乱間違いなしだ」  何せ、花咲城には本来あるべき堀や物見櫓など防衛の要となるものが一切存在しない。唯一彼らを守るものといえば家老たちの屋敷や、それこそあの出城部分になるのだろうが、そもそも筆頭家老自ら謀叛を起こそうとしている時点で、丸裸も同然だった。  そして、城の前に一気に展開された兵の姿に、反旗を翻した筆頭家老の姿に、意識を表へと向けさせたあと、手薄となった城内に搦手付近に待機させていた伏兵が一気に押し寄せ、城主の身柄を確保する。 「なんていうか、兵法書に載ってるそのまま、お手本みたいな計略ですよね」 「お手本ってのは見本に出来るほど素晴らしいから、お手本なんだよ。多分、成功するんじゃないの。――俺らにバレてるってことを、除外視したら」  そもそも謀反なんていうものは、悟られないことが大前提の奇襲作戦だ。成功させたいのならばあの日廃寺で、何を置いても自分を殺すべきだったのだ。  少年がふーっと大きく息を吐くと、額にかかった黒髪が風を孕み揺れ動く。僅かに涼を感じるものの、締め切った部屋は空気が淀み、照明のために着けられた蝋燭の灯りの色が今は鬱陶しいほど暑苦しい。 「しっかしウジウジと謀叛(こと)を起こさない相手見張るために、ご丁寧にきっちり変装するってのもいい加減肩が凝ってきたなー」 「いっときますけど、それが本来あるべきお姿ですからね」  肩に手をやり腕を軽く回しながらぼやく少年へ、乳兄弟から鋭い言葉が撃ち込まれた。少年は暑さのために顰められた眉を一層険しくしながら軽く()めつける。 「そんなこといったって、こんな時期に首元きっちりと着込むなんて正気じゃないっつーかさぁ……」 「変装するのに、普段とは正反対の外見になればいいって仰ったの、若じゃないですか」 「……じゃあせめて、空気くらい入れさせてくれよ」  花咲城下に潜伏するにあたり外部からの干渉を避ける意味で、部屋の格子は常に閉めようといったのは直鷹だったが、そんなことはすっかり忘れたかのように自分の責任を遥か高い棚の上へと押し上げながら立ち上がる。汗を含んだ前髪が揺れ、ポタ、と板間へと雫を落とした。  花咲城下と言っても城よりも海に近いこの小屋にもともと住んでいたのは、漁を生業とする人間なのだろう。十畳ほどの小屋は、三分の一が土間になっており、そこには漁で使われたと思しき古びた道具が散乱していた。  いくら正体を隠し潜伏するのに平素の自分とは真逆の外見が都合がいいとはいえ、外に出れば潮の香りが鼻先を掠めるほどの場所において御曹司でござい、という(なり)は逆に怪しさ満点なのではないだろうか。  言い訳をつらつら胸中で考え無理やり結論づけると、もう格好など知ったことではないとばかりに、少年は襟元に両手を入れると一気に下へと引き胸元を開いた。こもった空気がすぅと抜け出るものの、新たに入り込んだ空気もやはり温い。 「だぁぁああぁぁ、ほんと、もうあっつい!」  土間に降り、そのまま古びた木の引き戸へと手をかけた。指先に力を入れ右へと引くと、大きな抵抗と共にガタガタという大きな音をたてながら戸が開かれ、潮の香りがする僅かに冷たい空気が小屋の中へと入り込む。  少年は心地よさに一瞬ほっとしたように目から力を抜き――、けれど次の瞬間、先ほどよりも深い皺を眉間に刻んだ。  ――黒曜石の瞳が、遥か遠い場所で咲く紅を見つける。 「花咲、城か?」  語尾を持ち上げながら、その声音は確信を含んでいた。  闇の中にぼんやりと、赤く灯る炎が遠くで浮いている。隣国や都などでは、山を切り取り特定の文字を松明の炎で焼く行事があるらしいが、鳴海国(なるみのくに)ではそういった行事は存在しない。方向と高さを考えれば、十中八九、花咲城からの出火で間違いなかった。  一瞬、水尾(みずお)本家と直重が今まさに事を起こしたのかと思ったが、乳兄弟である少年は本家からの人の出入りは合戦のものではないといい、また彼自身も火事の跡地を一刻ほど前に見てきたばかりだ。さすがに僅かな時間の隙を掻い潜って今夜反旗を翻すとは思えない。 (花咲城……、――っ、榊か!)  不意に、先日自身へ向けられた殺意を思い出す。  そうなるように、仕向けてはいた。  その方が今後動きやすいと踏んだからこそ、敢えて相手の策略に乗ってやった。殺意の矛先が自分に向いていると思ったからこそ、それを甘んじて受けてやった。 (でも)  まさか、とも思う。  こちらの事情を知ってか知らずか、彼女はあの時今までの言動が嘘のように、一言も発しなかった。  ただただ、現状に怯え恐れる姫君だったはずだ。  内心は、どうであれ。 (歯牙にもかける価値がないと)  そう思われるように、彼女は背景のひとつでもあるといわんばかりに、存在を目立たせはしなかったはずだ。  けれど、あの時彼女の正体に気づかれていたら――。  少年の中で、符号がカチリと合わされた。  ゾク、蒸された身体に寒気にも似たものが走る。 「……っ!」 「直鷹さまっ!?」  乳兄弟の少年の声を背中に受けながら、直鷹は反射的に走り出した。海風が身体を突き抜け、先ほどまでの茹だるような熱気を吹き飛ばしてくれたが、腹の奥底で何かが沸騰したかのように煮えくり返っている。 (クッソ……!)  なぜ。  なぜ、そこに考えが及ばなかったのか。  なぜ、気づけなかったのか。  やはり自分もあの時、冷静ではなかったのだろうか。  群雄割拠の時代、下剋上が珍しくはないとはいえ、実の兄が謀叛に加担し、父親の殺害すら目論んでいるのを目の当たりにするのは、さすがにそうそうあることではない。 (だから)  気付けなかった。  余計な詮索を避ける意味で、堂々と通うのに差し障りがある身分の女とはいったが、まさに彼女は「通うのに差し障りがある身分の女」だ。  水尾秀直(みずおひでなお)の息子である自分が通えない女など、そうそういるものではない。いるとするなら、父親の敵以外の何者でもない。  適当に煙に巻いたつもりだったが、真実をそのまま告げていただけだった。そしてそれに気づいた兄たちが、彼女をそのまま放っておくわけはない。これから廃する予定の一族の(むすめ)だ。 (放って、おくわけがないんだ)  汗でべたついた肌に、海風がまとわりつく。鼻腔を掠める潮の香りが、今はただただ鬱陶しい。  遠くで浮かぶ紅の花が、ゆらりとまた大きく揺れた。  炎の大きさが、目に痛い。  出し抜いたはずの兄に、真実を見透かされていたという現実に、目の前が炎の色に染まる。  ――でも。  ここからどんなに急いだとしても、火事場泥棒よろしく城へ侵入出来るわけがない。着いたころには、城の宿直番(とのいばん)が鎮火にあたっているはずだ。 (自分自身で、彼女を助けられる可能性は――ない)  腸が煮えくり返っているのに、頭のどこかで冷たい思考がそう告げてきた。  ひやり、目の前の炎が黒く染まり、反射的に飛び出した身体が、不意に動きを止める。前方へと身体を折り曲げ骨ばった膝へと手のひらをつくと、喉の奥から掠れた吐息が溢れ落ち、後れ毛を伝いながら汗が地面へと染み込んだ。 (冷静になれ)  もし城への侵入が出来たにせよ、自分自身堂々と身を晒せる状況にもない。また彼女を助けるという自己満足だけで、火の手が上がる城へと入りこの身を危険に晒していいわけでもない。  自分には、まだ為すべきことがある。  確かに彼女へと告げた通り、父がこの国を支配するのは時期尚早だと思っている。  だからこそ、まだ滅びたくないだろうあの少女に手を組もうと告げた。  その想いは嘘じゃない。 (でも)  だからといって、自分の命を危険に晒してまでその同盟に価値があるのか。  それを真正面から問われれば、きっと自分は声を返すことは出来ないだろう。 (自分には)  まだ、生きて為すべきことがある。  それは、「出来れば父の覇道は先送りにしたい」程度の想いで摘み取っていいものではなく――。 (思い出せ)  なんのために、彼女と手を取り合ったのか。  なんのために、こうして単身で動いているのか。  なんの、ために――、()が、ために――。 「若っ!」  兄にしてやられた、という感情に振りきれそうになる思考へと、足枷となるべきいくつもの理由を必死に探していると、背後から馬の蹄の足音が迫ってくる。直鷹が肩越しに振り返ると、そこには自身の愛馬に乗りながら尾花栗毛(おばなくりげ)の馬を並走させている乳兄弟の姿があった。  少年の身体にはまだ御するのが大きすぎるのか、やや不恰好な状態での並走だ。 「相変わらず月雲雀の相手、下手だね。お前……」  腹の底で煮えくり返る感情に蓋をするかのように、無理やり頬へと笑いを貼り付ける。煮詰まりすぎた身体の奥に、目の前で嘶いた愛馬の鼻面を軽く手で撫でると、金色(こんじき)の尾をゆったりと振りながら気持ちよさそうに鼻を鳴らした。  すり、と手をそのまま首筋へと撫でていくと、手のひらに感じるのはとくん、とくん、と脈打つ彼女の命。温かなその音と重なり合うように、自身の胸の内側でも鼓動が響く。  命が、そこで響いていた。   ――だからこそ、私たちは彼らを……民を、護ることをしなければならない。そう、思うのです。   ――私はなにも持っていない、じゃなくて。名こそ、身分こそが、私の仕事なんだと。  (よわい)十をひとつ、ふたつ過ぎたばかりの彼女でさえも気づけたその事実。 (名こそ、身分こそが――民を護る、仕事……)  自分の身分は、水尾秀直の三男であり、父は榊を追い落とすそのために日々力をつけていて。  けれど、自分はそれを阻むそのために、彼女と手を取りあうことを選んだ。 (選んだんだ)  他の、誰でもない。  自分が、そう決めたのだ。  水尾の()を持ち、彼女を護る家来筋(みぶん)の自分が、そう決めたのだ。  それが、自分の務めなのだと――。  直鷹は鼻面を撫でる手をそのまま(たてがみ)へと滑らせ、そこに潜らせる。海風を孕み柔らかく舞う金の鬣が無骨な指を優しく包み込み、少年はそのまま馬頭を抱え込むように、抱きしめる。   ――髻結ってると、ほら。なんていうか馬の尾みたいに見えますね。  いつぞや彼女が呟いた戯言が、鼓膜を擽る。 (知らないんだろうなぁ)  馬の尾は、見た目の割にさほど手触りがよくないことを。  馬に触れるどころか、外出すらろくにしたことがない姫君なのだから、わからなくても仕方がない。 (でも)  そんな命さえも、きっと護ろうと必死で生きているのだ。  あの姫君は――。  名付けがたい感情の波に押されるように、直鷹の唇が歪に歪んだ。不意に、月雲雀が首を傾げ甘えるように直鷹へと擦り寄ってくる。同時に、日向の匂いが鼻腔をくすぐり、視線を横へと滑らせるとそこには愛馬の金色の鬣。  数日前に慣れ親しんだ清涼感のある香の香りとは正反対の匂いに、少年の唇から「ははっ」という乾いた笑いが漏れた。下馬した乳兄弟の少年が小さく「若」と呟くのへと視線を向ける。 「恒昌」 「はい」 「莫迦なことをする」  一瞬、大きく目を見開いた恒昌は、けれどもすぐに頬の位置を持ち上げた。 「若のやることについてこれる度胸のある姫君って、稀有ですよね」  直鷹は月雲雀の鐙に足をかけながら、唇の端を吊り上げる。そのままぐっと足に力をいれ、馬体に跨ると眼下の乳兄弟へと視線を落とした。 「そんないうほど俺、突拍子ないことしてなくない?」 「若に自覚ないから困ってるんですよね、俺は」 「ははっ。乳兄弟に選ばれたことを恨むんだな」 「しませんってば」  恒昌は眉を軽く寄せながら、自身の愛馬へと跨る。それを見ながら直鷹は、鐙を履く足を月雲雀の栗色の胴へと打ち付けた。うなじでやや硬質な黒髪が踊り、身体が馬体で軽く揺れる。 さすがに本家の前を素通りしながら城の虎口に侵入するわけにはいかないので、先日少女を送り届けたとき同様に搦手(からめて)に向かった方が良さそうだ。直鷹は軽く(たずな)を引き、城正面へと出る大通りから外れた小路へと月雲雀の鼻面を向けさせる。彼女の金色の鬣がふわりと揺れ、足が僅かに地面を蹴った。  刹那――。  彼女の足音ではない蹄の音が微かに耳朶へと触れる。  その音の遠さからいっても、数歩後ろで轡を乳兄弟の少年に握られた彼の愛馬のものでは勿論ない。直鷹はほぼ反射的に腰に帯びた刀へと手をやった。左手で鯉口を切ると鍔鳴りの音を海風が攫う。  殺気は未だ窺えないが、明らかに近くなる蹄が地面を叩く音と馬に乗る人の姿に直鷹の眉の角度は鋭くなり、轡を握っていた右手を刀の柄へと這わせた。しかし、向かってくる馬が失速し、小さな影を馬上から落としたのを視界に捉えると、少年の瞳が大きく見開かれる。 「……か、き……」  唇から、吐息と共に名が溢れ落ちる。  下馬した小さな影は未だ馬上にある大きな影へと一度礼をすると、こちらへと転がるように走り出した。体力に全く自信がないと大見得切っていただけあって見事なまでの不恰好な走りっぷりに、直鷹は先ほどまでの感情を風が持ち去っていったのではないかと思うほどの勢いで吹き出す。  そして、くっくとさらに溢れ出そうになる笑いを我慢しようと俯いた。鯉口を切った刀を再度鞘へと収め月雲雀から身を翻すと、綺麗に結われた黒髪が海風を孕み舞う。  直鷹の草履が地面を舐め、つま先を馬の鼻の向く方向へと滑らせると、闇の中でも表情が視認出来るほどの距離まで少女が近づいてきていた。  細く痩せた月が、薄く少女の髪のその輪郭をぼんやりと光らせる。 「無事だった?」  笑い声を滲ませた声音に、少女は少し不思議そうにしながらも頷いた。 「おかげさまで」  恐らく水を被ったのだろう、濡れた髪が頬へと貼り付くのを細い指で払う少女の頬が、いまは煤で汚れている。多少煙を吸い込んだのか、水晶のような声が微かに掠れていた。 「ごめんね」  無意識に落とした言の葉は、彼女への救助が間に合わなかったことか。  それとも、彼女の命を一度は見捨てようとしたことか。  直鷹は頬に浮かべた笑みに僅かに苦いものを加えながら、呟くように言葉を少女へと落とした。 「? 何がですか?」 「いや、色々? 兄上、出し抜いたつもりだったんだけどね」  遠くの空では、既に火が消し止められたのか炎の色は確認出来なかった。恐らく、既に消火は行われた後なのだろう。彼女があの場から姿を消したことは、どう判断されるだろうか。 「あぁ……私も、完全にそのあたりの危険については失念しておりましたから」 「いや、俺が迂闊だった」  自分が、口を滑らしたりしなければ。  ――否。  自分が、彼女の挑発に乗って仕返しのように焚き付けたりしなければ、少なくとも今日兄たちに狙われることはなかったはずだ。 「まぁ……それはそう、なのかもしれませんけれど。でも」  阿久里(あぐり)は、先ほどまでの不恰好な走りをしていた人物とはとても思えないほどの強い瞳を直鷹へと向ける。そして紅を刷かずとも赤い唇を軽く湿らせ、大きく息を吸った。 「貴方、仰ったじゃないですか。『出口なんて作るものだ』って。幼いころの私は、偶然空いていた穴から出るだけでした。いつしか監視の目が緩くなったから、出入り口から平気で出入りするようになりましたけど……、それでも自分で出口を作ろうなんて考えたことなかったんです」 「まぁ、普通は出口を作らなくてもいいような場所で人は生きてるわけだしね」 「でも実際、あの日、火に囲まれた寺でも、先ほど屋敷でも私は出口がないことに苦しみました。出口はいつでも歩んでいる道に用意されているわけではないんです」  自分の歩む運命が、どこに繋がっているかなんて誰にもわからない。  出口があるのか、新たな入口から入ってくる出会いに、どんな意味があるのか。  誰にもわからない。 「あなたが出口を作り出すあの姿を思い出して、私はあの言葉で垣根を蹴り破ろうと思いついたんです。私は、それを教えてくれたあなただから、手を組んだんですよ」  集中豪雨のような剣幕で一気に喋りきった少女の勢いに、自嘲気味に歪められていた直鷹の唇が、ぽかんと開く。日頃は桜の花びらが舞うかのような喋り方をする少女は、ここまで早口言葉の如く捲し立てたことがないのだろう、細い肩を上下にさせながら喉の奥でぜぃぜぃと息をした。 「…………とりあえず落ち着こうか」 「そ、です、ね」 「はい息を吐いて吐いて吐いてー吐いてー苦しくても吐いてー。で、吐ききったら吸う。これで呼吸、整うから」  直鷹は、阿久里の肩へと手をかけ彼女の視線の高さまで軽くしゃがむ。いわれた通りに肺の中の空気を全て出し切ったらしい阿久里は、伏せられていた長い睫毛を持ち上げるのと同時に空気を吸い込んだ。 「…………近くないですか?」  視界が広がった瞬間、目の前に突如現れた少年の姿に驚いたのか、ぎょ、と目を見開いた阿久里の口から硬い声が紡がれた。明らかに瞳の奥の感情が、不審者を見るそれと同じで、少年は苦笑半分非難半分という絶妙な配合の感情を(おもて)へと滲ませる。 「地味に傷つくな、その表情(かお)」 「生まれつきですので、申し訳ありません」 「そうじゃなくて!」  はー、とため息混じりに、しゃがみこんでいた体勢を整えると膝を伸ばして立ち上がった。 「ま、俺としてはさ、あんたには遠慮してほしくないし、するつもりもないんだよね」 「……遠慮、しているつもりもないですし、されているという実感も得られないというのが本音なのですけれど……」 「それは、まぁ……知ってる。だからさ、今後も多分こういうことってあるかもしれないけど、お互いにお互いを助けにいくことに、理由をつけるのはもうやめようかなって」 「……つまり……?」  阿久里からしてみれば、先ほどまでの直鷹の心情なんて知っているわけでもないので、小首を傾げたくもなるだろう。彼女からしたら、同盟を結ぼうと言葉を交わし了承したその時点できっと全ての覚悟をしたのだろう。   ――若のやることについてこれる度胸のある姫君って、稀有ですよね。  つい先ほどの乳兄弟の少年の言は、まさにというよりほかはない。 (度胸だけなら、俺よりよっぽど据わってるよな)  直鷹は頭を垂れると、その唇に苦笑を食んだ。少年の頬の脇で、結われた髻がさらりと揺れる。 「あ。今日は何だか真っ当な(なり)していらっしゃるのですね。そうそう。最初誰かと思い、正直、気付きませんでした」  真っ当な――という一言が引っかかる。けれど、それを突っ込むとさらに面白くない言葉が出てきそうなので、直鷹は黙って(おもて)を持ち上げた。 「一度死んだ身としては、いつもの格好してるわけにゃいかなくてね」 「どうやってお亡くなりになったんですか?」 「丸太に茶筅の(かもじ)つけて、曼珠沙華の打掛をかぶせといたら、勝手に俺だと思ってくれたみたいで弓射掛けてくれたよ」 「むしろ演技で丸太に『若ーっ!』とか言いながら駆け寄る俺の方が、矢に当たらないかとヒヤヒヤしてたんですけど」  いつの間にか下馬した恒昌が非難めいた視線を主たる少年へと投げかけると、直鷹は頬の位置を上げ、笑う。 「乳兄弟だろー?」 「若の地獄行きにはきちんと付き合いますから、今生でくらい文句を言わせてください」  乳兄弟の愛情ある恨み言に直鷹は「ははっ」と目を細めると、阿久里が乗ってきた馬を引きゆっくりとこちらへと歩いてくる人物へと視線を流した。  熊のような巨体に、顔の半分以上が髭で覆われた男。  先日、廃寺近くで出会った男だ。  直鷹が男へと近づこうと阿久里の隣を通ると、不意に彼女の香が鼻腔を掠めた。小さな背で軽く結われた栗色の髪が濡れていることを改めて思い出す。恐らく上物であろう若竹色の小袖は、染め模様のように肩口辺りで濃い染みを作っていた。 「恒昌、榊と先に与兵衛のとこまで戻ってろ」  一瞬何故、という顔をした恒昌も、阿久里の髪や小袖が濡れていることに気付き、是と頷く。阿久里も最初は腑に落ちないような表情をしていたが、打掛の中はどうやら夜着だったらしく、打掛の合わせを手で握り締めながら恒昌に従い踵を返していった。 **********  阿久里を乗せた恒昌の馬が闇の中へと消えていき、その蹄の音が聞こえなくなったのを確認してから、直鷹は睫毛の先を馬を引く男へと向ける。  ジャリ、と草履の裏で砂が擦れ合う音がした。 「で、お前が助けてくれたの?」 「助けたって言うか……、まぁ手を貸した程度だな。あの姫さん、木の塀、蹴り破って自分で逃げようとしてたぜ」  熊の如き身体をくっくと震わせながら、答える。 「あー、何かさっきもいってたね」 「ま、あの姫さんの細い足じゃ蹴り破るのはちと難しい話だったとは思うけどな」 「あー。だろうね」  不恰好な体勢で古い垣根を蹴ろうとしている少女が、ありありと思い浮かぶ。きっとその想像通りの姿だったのだろう。頬に笑みを貼り付けていた男は、その姿を思い出したのか「はははは」と髭の中から白い歯を浮かび上がらせた。 「ま、ともかくお蔭で助かったよ。ありがとうな。えー、っと?」 「名前か? 弦九郎(げんくろう)だ」  姓を名乗らなかったことを考えると、恐らく武家の出ではないのだろう。百姓仕事が嫌で家を飛び出し野伏(のぶ)せり(野盗)あたりになったか、もしくは最初から親がなくそういった家業の者に拾われたのか。  どちらにせよ、このご時世珍しい話でもなんでもない。 「ふーん。ゲンクロウ、ね」  ふと、天才的な戦術で敵を次々に討ち滅ぼしながら、幼い政治感覚ゆえに実の兄から疎まれやがて滅んだ古の武将を思い出す。  もっとも、伝記における外見印象は真逆だが。 「榊を助けた以上、こっちと敵対するつもりはないってのはわかるけど。でもこの前も言ったけど、今回の件は最悪首が飛ぶよ」  直鷹は、腰に帯びた黒鞘を弦九郎と名乗った男の首元へとそれを(いざな)う。熊のような巨体を微動だにしないまま、少年の外連味あるその所作に、男は髭の間から歯を見せ笑った。 「元よりこの首は若さん、あんたに助けられたもんだろう? 今さらあんたにくれてやっても惜しくはねぇさ」 「あ、そう? じゃああんたは今日から熊田弦九郎義経(くまだげんくろうよしつね)とでも名乗ろうか」 「クマダ……?」 「俺の家来になるんだ。武家だよ、武家。姓は必要でしょうが」  黒鞘を引っ込めながら、直鷹は踵を返す。主人が歩いてきたことに気付いたのか、月雲雀は首を持ち上げ、ヒン、と嬉しそうに鼻を鳴らした。 「いや……いや、あ、有難いが……何でクマダヨシツネ?」 「それ聞いちゃうの?」  月雲雀の鐙へと足を掛け、直鷹は笑う。右足にぐっと力を入れると、そのまま身を翻し栗色の馬体へと跨った。 「熊みたいだから、熊田。ヨシツネの名前は、ゲンクロウから取った。だけど俺呼ぶときは『熊』って呼ぶから」 「それじゃヨシツネって付けた意味ねぇだろ!」  弦九郎改め熊田義経もとい「熊」が軽く怒気のこもった声で喚くのを背中に受けながら、少年は鐙を履いた足を月雲雀の胴へと軽く打ち付ける。  海風を孕んだ黒髪が、闇の中に踊った。
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