第三章 真実を穿つ雨音

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 花咲城(はなさきじょう)の屋敷のひとつから出火したらしいとの噂話が城下へと漏れ広がり、駒木村(こまきむら)にある与兵衛(よへえ)の屋敷へと正式に伝わったのは、陽が空の高い位置まで登ろうとした頃だった。  人の良さそうな丸い顔に驚きの表情を貼り付け噂話を聞いた与兵衛が、その足で自身の屋敷にある客間へと足を運び彼自身が主と仰ぐ少年へと報告するのを、阿久里(あぐり)は横目で見つめる。 (そういえば、先日はお礼もそこそこにお暇してしまったのよね……)  不覚にも体調不良によって道端で倒れ込んだところ拾われたどころか、更には花咲城下まで供をつけて送り届けてくれていたにも関わらず、未だに礼も出来ていない。 「あの……」  直鷹(なおたか)への報告が一段落したところで、阿久里は声小さく与兵衛へと声を掛ける。 「先日は……というか、此度もですが。色々とお世話になっておりながらお礼もせず、申し訳ありません」  阿久里が板間へと指をつきながらゆっくりと(おもて)を下げると、さらりと肩口から髪が一房零れ落ち、肩模様の花がその姿を隠される。彼の妻が用意してくれたこの小袖は、刺繍や摺箔(すりはく)こそされていないものの、立派な辻が花染めのものでまだ誰も袖を通していないように思われた。  訊けば、輿入れをした妹のために誂えたものだったらしいが、どうやら好みではないと実家に置き去りにされたとのことだ。どうやら夫から阿久里の素性は聞かされていたようで、「余り物で申し訳ない」と頭を下げる奥方の姿勢を元に戻すことが実はなにより大変だった。 「いえいえ。(さかき)の姫君をお助け出来て、こちらも光栄というものです」  丸い顔に糸目を貼り付けたままの与兵衛は、阿久里へと首を振り(おもて)を上げるように促してくる。濡れた小袖を着替えさせてくれたどころか、髪を梳き結い直してくれたのは他でもない彼の妻であり、現在進行形で世話になりっぱなしの自覚はある。  けれど、流石に彼らからしたら、鳴海国(なるみのくに)の守護大名家の姫君に頭を下げられるのは精神安定上、あまりよろしい状態ではないのだろう。  あまりに恐縮され過ぎるのは相手からするととても居心地が悪いものだと先ほど身を以て体験したばかりなので、ほどほどのところで阿久里は(おもて)を上げながら、「先ほどとは立場が真逆になりましたね」と唇で緩く弧を弾いた。 「そもそも与兵衛が助けたのは、金になると算盤弾いたからだよね」  顔に似合わず腹黒らしい与兵衛が何の意味もなく無関係な人間を助けるわけはなく、常識知らずの武家の若衆のお忍びだとしても、助けておけばそれはそれで武家に貸しを作れると瞬時に計算したからこそ拾ってきたのだと、直鷹は笑う。それに対し、彼は肯定も否定もせず丸い顔を少年へと向けた。 「そのようなわけで、お気になさらずに」  一言阿久里へと告げると、与兵衛は直鷹近くに座する自身の場所を阿久里へと譲るため、腰を持ち上げる。そしてそのまま彼は、下座へとその身体を運んでいった。 「んじゃ花咲城の火事は、特に大事にもならず榊も無事だし、相手さんとしては予想外な展開だろうけど、此方としては万々歳ということで」  阿久里が恒昌(つねまさ)に連れられ与兵衛の屋敷に着いてから半刻後に到着した直鷹は、余程あの「御曹司」の(なり)が嫌だったのだろう、すでにいつものような「ばさら大名」の(なり)に落ち着いていた。  衣装もさることながら、どうやらきっちりと結われた(たぶさ)が揺れるとあれほどまでに不快な思いをするのだと、初めて知ったらしい。「(たぶさ)って重いんだな」と疲れ切った顔で呟く彼は、武家の御曹司としてそれも如何なものかと思ったものの、阿久里が男装をした際に体調不良に陥った原因のひとつへの理解が深まったという意味では、よかったのかもしれない。 「そういえば……、私の他に怪我をしただとか、行方不明って方もいなかった……のですよね?」  阿久里は自ら下座へと引いたこの屋敷の主へと視線を向け、訊ねる。膝の上に置かれた手が知らず強く握り締められた。  自身が直鷹たちと合流したときにはすでに城下からは火の手は見えなくなっており、想像よりも早く鎮火したことはわかっていた。さらに阿久里の屋敷は城の中でも外れにあるため、家族は勿論のこと宿直番のいる詰め所も被害に遭ったとは思えないが、それでも自分のせいで火の手が城で上がったことは事実だ。 (まぁ実際のところ、私のせいってわけじゃなくて、つけた人だけが悪いのだけれど)  それでもあの火事で人が死んだとあっては、流石に目覚めが悪い。  そして、なによりも――。 「特に被害が大きかったというような話は漏れ聞いておりませんので、恐らくは」  与兵衛の言葉に少女は、知らず強張っていた頬を緩め、ほ、と息を零し睫毛を伏せる。華奢な骨が浮かび上がるほどに握りしめていた拳の力を抜くと、手のひらにじんわりとした痛みが走った。  自分のせいではない、とはわかっている。  誰が悪いかといえば、火をつけた人間が悪いのだ。  幼いころより、自分自身の心の持ちようではどうしようもない見場についての偏見で家族から疎まれていた阿久里だが、それゆえに逆に全く関わり合いにならない生活をしていたために余計な雑音に悩まされることがなかった。世話をし、育ててくれる愛情深い乳母はいたし、遊び相手としての乳母子(めのとご)も傍にいた。  彼女たちから愛されて育ったおかげで、何故自分は本当の家族の傍で暮らしていないのか、という疑問が浮かんだのが遅かった。そして、その疑問が頭を掠める前に、父親の武家の家長としての在り方に苦言を呈したくなるほど知識を得てしまい――。  結果、家族に疎まれた割には、自己評価が低く悲観的な性格というものとは縁遠い図々しい性格となっていた。もっとも、これは生まれ持った性質というものもあるので、一概にはいえないとは思うが。 (でも)  どうやら自分の想像以上に、火事の被害状況が不安の種になっていたらしい。 (好きか嫌いかで言えば、はっきりと嫌いなはずなのにね)  宿直番の者はともかくとして、父親など関わり合いにならないで済むのであれば一生関わらずに生きていたいと思う程度には、嫌いだ。  けれど、日頃如何に険悪な仲とはいえやはり親は親。――否。親でなくとも、顔見知りが死んだと知れば目覚めは悪い。人並み程度に、父には褥の上で大往生して欲しいと望むくらいの情はあったらしい。  家族はじめとする城の者たちが無事であったことに思いの外安堵する自身に気付き、阿久里は思わず苦笑する。 「安心した?」  家族との微妙な確執を知る直鷹がからかうような声音で訊ねるのへと視線を移すと、想像通り唇を歪ませ頬の位置を高くしながら、阿久里の反応を窺う少年の姿があった。 「……まぁ……ハイ」 「なにその返事」 「……いえ、自分でも、少し意外なので……」 「まぁそんなもんでしょ。一応、親なんだし?」  親らしいことをされた覚えなど、記憶にある限り皆無に近いのだが。  けれど、思い返せば彼もまた、さほど親しいわけでもなさそうな長兄の謀叛に対し少なからず動揺を見せていた。普段啀み合っていようと、根っこの部分では繋がっている見えない何かがあるのかもしれない、と阿久里は納得し、一言礼をいおうと再び与兵衛へと睫毛を向ける。 「……与兵衛?」  阿久里と同じように与兵衛へと視線を移した直鷹が、訝しげに眉を顰めながら名を呼んだ。人の良さそうな顔に焦りのような感情を浮かべた与兵衛は、視線を主たる少年へと向けることなく板間へと「はっ」と返事を落とす。 「どうした? 何かあったか?」 「……若」  かつて陽の女神が篭ったと言われる岩戸もかくや、という重々しさで与兵衛の唇が震えながらゆっくりと開く。 「未だ、確証がある話では御座いませぬが……。寒河江城(さがえじょう)にて、お父君が」 「倒れたって話?」 「そう、お倒れに…………って、え? ご、ご存知でしたか?」 「うん。何せ於勝(おかつ)の目の前で倒れたらしいからねー」  どこか他人事のようにへらりと言葉を紡ぐ直鷹に、阿久里は知らず眉根を寄せた。父親とは疎遠であるはずの自分すら、父親の身に何かが起きたと知ればやはり心はざわつく。父親と疎遠という話を聞かないどころか、いってみれば阿久里との同盟にしても彼のためにあえてその道を選んだ直鷹が、無理をしていないはずはなかった。 「それは誰が持ってきた話?」 「寒河江城に出入りする商人(あきんど)です。もし必要とあらば、後ほど連れてきますが……。その者がいうには、殿がお倒れになられたという噂が城下にまで広がっており、今は何故か直重(なおしげ)さまが寒河江城を差配されている、と。ご親類の方々やご家老衆からも再三事情を説明するよう使者がたっているとか……」  それもそうだろう。  嫡男として認められた者や、百歩譲って正室腹の直鷹がそれを行うのならともかく、庶子としてその出生さえも正式に認められていない直重がそれを行えば、一族の人間が黙ってはいないだろう。  重役として水尾を支えてる家老衆や、その他家臣全てが不審に思うに違いない行動だ。 「ばっかだねー兄上は。まだ謀叛起こすつもりがないのなら、そんな目立つことしちゃいかんでしょう」  胡座をかいた膝に肘を置き、やや前のめりに俯きながら外連味たっぷりといった表情で、頬を高くし笑う。けれどやや伏せられがちの睫毛の奧の黒曜石は、怒気とも殺気とも違う――強いていうのならば、悲哀の感情が宿っていた。  笑っているのに、泣いている。  阿久里は彼のその表情に息苦しさを感じ、直鷹へと伸ばされていた視線をそっと断つ。視界の端に映る彼の感情が、ただただ痛い。 「恒昌の話じゃ、俺が死んだことを報告してるときに兄上がやってきて父上と意見が食い違ったところでいきなり倒れ込んだらしいね。新しい側女との多淫でってことも考えられなくはないけど……女好きではあるけど、流石にそこまで愚かじゃないと思う。ま、普通に考えれば一服盛られたんだろうねぇ」  膝に置いていた肘を脇息へと凭れかけさせると、少年はそのまま瞳をすいっと与兵衛から流した。 「一服……となると、まさか直重さま御自ら……?」 「いーや、多分食べ物かなんかに混ざってたんだろうね。そう考えると、一番怪しいのは柿崎殿(かきざきどの)か」  世の倣いの通り、秀直(ひでなお)の食事には必ず毒味がされているとのことだ。それらを掻い潜って、となれば彼の側近くに仕える者――今であれば、最近側近くに侍るようになった側室の柿崎殿が一番可能性が高いと直鷹はいう。 「直重さまと柿崎殿が、通じている、と……?」 「いやさすがにそれは無理でしょ。浪乃をはじめ、他の侍女たちの目もあるだろうし。源氏物語じゃあるまいし、そうそう親の妻と密通なんて簡単に出来るもんじゃないよ」 「じゃあ何らかの利害の一致で、計画に加担するようになったってことですか?」 「市井の女が何の因果もない男と諮ってどうこうするってのはちょっとは考えづらいかなぁ。どっちかっていうと柿崎(かきざき)(じじい)が、って考えた方が現実味があるね」 「まさか……ご家老さまが……」 「ま、柿崎の爺に限ってそれはないと俺も信じたいけどねー」  少なくとも、直鷹の知る限り忠義心に厚い男らしい。確かに嫡男である次兄の傅役(もりやく)でもあり、現時点でも筆頭家老というその地位を投げ打ってまで庶子である直重との接触は、現時点では考えにくい。 「ではやはり、柿崎殿が何かの恨みを持って個人的に……?」  恒昌が訊ねるのへ、直鷹は先ほどまでの負の感情をかき消すかのようにとってつけた笑顔を(おもて)へと貼り付ける。 「まー一度父上の様子も見ておきたいっていう意味でも、その辺調べに寒河江城に忍び込めりゃ一番いいんだけどね」  そしてお手上げとばかりに、少年の手のひらは天を仰ぐ。顔が割れており、さらには死んだことになっている彼自身はもちろんのこと、今ここにいて直鷹へと情報を渡している与兵衛にしても、本職は商人であり今後のことも考えるとそうそう無理強いは出来ないだろう。 「……若が亡くなった後に、擦り寄る先として直重さまを選んだってことにして侵入しましょうか?」  しばらくの沈黙ののち、恒昌が不本意だと言わんばかりに、眉の間に皺を刻みながら申し出てきた。  この時代、主従関係は実に割り切ったものが多く、主を変えることなど日常茶飯事だ。特に恒昌のように下級武士の家柄は、擦り寄る相手によってその後の人生の明暗がはっきりと分かれる。主が死んだり失脚した場合、嗅覚の鋭い者ならば新たに擦り寄る相手を探すのが世の常だった。  だが恒昌としては、直鷹が死した場合はその場で自分も果てる覚悟があったのだろうし、己で言い出した主の鞍替えは不本意極まりない発言であり眉間の皺なくしては発することのできない言葉だったに違いない。  それはきっと、彼の生家である牧野(まきの)家と水尾家の繋がりの深さを示すものでもあり、恒昌と直鷹の個人的な繋がりの深さを表しているものでもある。 「於勝、お前、今からそんなツラしてて兄上に擦り寄れんの?」  日頃からの恒昌の性格と忠義を熟知している直鷹は、乳兄弟の不機嫌な(おもて)にぷっと吹き出し白い歯を零させる。けれどその表情は乳兄弟を馬鹿にしたものではなく、彼からの忠義を受け止めているからこその軽口だとわかる柔らかなそれで――。 「若っ! 俺はもう勝丸(かつまる)じゃなくて」 「恒昌どの」  信頼していることがそのまま伝わるような視線で、幼名を呼ぶ主へと食ってかかろうとする恒昌へ、阿久里がまるで今までの話が一切聞こえていなかった素振りをもって透明な声音で呼びかける。恒昌は前のめりに乗り出していた身をそのまま止め、視線を上座の直鷹から声の主へと滑らせた。  その空気に、阿久里は唇から今まさに零れ落ちようとしていた提案を一度飲み込み、ちら、とひとりひとりへと琥珀の瞳を流していく。何をいうわけでもないが、皆同じような表情をしている事から、どうやらまたやらかしてしまったらしい。 「あ、申し訳御座いません。またお話の邪魔しました、か?」 「あー、いえ。姫さま。どうかされましたか?」  先程までの膨れっ面を一気に絞ませ、恒昌は頬を柔らかくしながら返事をする。身分差を考えれば本来話すどころか同じ室内にいることすらない間柄ではあるが、直鷹をして「暖簾に全力相撲系」と評されている阿久里に対しては、特別身体の中に張りつめたものを仕込む必要はないと思っているようで、その表情に不自然なところはない。 「いえ……今、お二人の話を聞いていて思ったんですけれど。私を恒昌どのの縁者ってことにして、侍女として直重どのへと送り込むのは如何でしょうか?」 「………………は?」  恒昌の代わりに、上座で胡座をかいていた少年から間の抜けた声が零れた。黒曜石の瞳が、まん丸に見開かれている。 「忠義心に厚い恒昌どのが、形ばかりとはいえど主を変え仕官されるのは本意ではないでしょう? それにあの夜、恒昌どのが直重どのが寺を焼いた事実を知っていることを、あちらもご存知ですし、傍近くに寄るのは危険なのではないかと……」 「……いや、まぁ……あぁ、でもその辺は覚悟の上ですし」 「武家は常に死と隣り合わせの暮らしですが、どうせ死ぬのなら戦で討ち死にすることが本懐ではないですか? ですから、危険に飛び込んでいかずとも、擦り寄る素振りを見せつつも、実際お側には寄らない方法を考える必要があると思うのです」 「…………つまり?」 「はい。ですから、牧野家として、息のかかった人間を遣わした方がいいのかしら、と」 「……それで何であんたが侍女になるかな」 「えっ、だって使える手駒がいないから、必然的にそうなりません? 基本的に自分のことは自分で今までやってきていたのでそこそこ何とかなると思います」  阿久里はこれぞ妙案とばかりに白い指を胸の前でパチリと合わせた。小さな袖口から細い手首が垣間見え、後れ毛が白磁の頬にさらりとかかる。  直鷹はあんぐりと開いたままの唇を半ば強引に閉店させ、はぁ、と部屋全体に響き渡るわざとらしいため息をひとつ、落とした。 「……いい案かと思ったんですけれど……?」  室内の空気が自分の想像よりも好意的なものでないことに気付き、胸の前で合わせられた指を所在なさげに膝の上へと再び下す。そして直鷹に同調するかのように言葉を閉ざしている面々へとくるりと視線を回してみると、思った通り唖然とした三十路男がひとり、前傾姿勢のままやはり唖然としている少年がひとり。  極めつけが、上座には頭痛に苦しむかのように眉間に拳を押し当てている少年だ。 「古来、戦場(いくさば)に出る女性(にょしょう)の話はあるけど、国一番の姫さんが家来の侍女をするって話は聞いたことないね」 「でも家が落ちぶれたあとに、家臣筋だった家へと奉公に出るなんて話はよくあるような気がしますが」 「まだ落ちぶれてないだろ、榊の家は! っていうか、落ちぶれさせないようにするんでしょうが」 「まぁそうですけど。でもものは試し、前例はまず作るところから、と申しますし」 「二度とないからね、そんな例」 「イイんじゃねぇの? 別に」  人払いをしているとはいえ、話される内容が内容なだけに見張りとして部屋の外に立っていた弦九郎(げんくろう)が、突然声をかける。見れば障子を僅かに開け、肩越しに話しかける熊のような巨体がそこにあった。 「熊」  直鷹は咎めるような響きを含んだ声音で、障子の向こうにいる弦九郎を短く呼ぶ。先ほどの阿久里の発言により拳が押し当てられていた眉間が、少年の声音に反応したかのように深く皺を刻んだ。  意思の強そうな眉はピン、と持ち上がり、弦九郎を()めつけるその眼光はただただ強く、鋭い。 「そう睨むなって」  主となった直鷹からの視線を気にもせず、髭だらけの頬を軽く揺らす。身体だけでなく、態度の大きさも健在のようだ。 「もし上手くいかなきゃ謀叛起こされて、いの一番にあの世行くのは姫さんだろ? だったら自分で納得出来る行動させてやりゃいい」 「乱破者 (らっぱもの)(忍び)なら行ってこいとも思えるけど、榊に兄上の側への潜入なんて出来るわけないでしょうが。もし何かあった時でも、自害するわけにはいかない立場なんだからさあ。逃げようにも、ひとりで逃げ遂せるとも思えんし」 「あ、それ。それなんです」  阿久里は直鷹と弦九郎の会話に突如として入り込むと、深刻そうに眉を顰め、膝へと置いた手へと視線を落とした。白磁の頬へと長い睫毛がかかり、憂いを帯びた影が貼り付く。 「今さら何を、と思われるかもしれませんが……でも、お伝えしなければなりませんよね……」 「ん?」 「なんだぁ?」  直鷹と弦九郎の視線が、阿久里へと向けられた。  少女は意を決したように、苦しげに伏せられていた睫毛を持ち上げ、室内へとぐるりと琥珀の瞳を流していく。 「実は私、逃げ遂せるだけの体力が全くないのです!」 「知ってる」 「おう」 「存じ上げております」  悲壮感溢れる阿久里の台詞に、間髪いれず三者の口から肯定の言の葉が返された。辛うじて、与兵衛のみ身分と立場を考えて無言だったが、それでも全員の表情が物語る答えは「是」で、少女は驚きに一瞬目を丸くする。 「…………あら? いったこと、ありましたか? 私があまり、体力に自信がないってこと」 「ないよ。ないけど、そこに気付けない時点でもうどうかと思うけどね。まぁいいや。そんなわけで、却下です」  直鷹は手のひらをヒラヒラと振りながら、阿久里の案を一蹴した。少女はしばらく考え込むように板間へと視線を飛ばし、そしておずおずと再び睫毛を持ち上げる。 「じゃあ、武芸達者な私が潜入するって考えたら如何ですか?」 「現状として『武芸達者な榊』はいないし、そんな前提なんか意味あんの? 今から武芸仕込んでも、人並み程度に動けるようになるまでに何年かけるつもりなの」 「意外と才能が花開くかも」 「人生を武芸に捧げて精進してる人間が聞いたら泣くよ」 「すみません」 「そもそもさ、武芸の嗜みがあるような女でも普通の男に急に襲われて勝てるかって言ったら難しいと思うしね。ほら」  直鷹は脇息を自分の正面へと持ってくると、斜め前に座る阿久里の細腕を掴みそのまま自身の方へと引いた。膝に置かれた少女の体軸が崩れ、少年へと倒れ込む。  一瞬で傾いだ自身の身体に、次にくる衝撃に備え思わず目を瞑ったが、想像したよりも鈍い痛みは訪れなかった。阿久里がそっと睫毛を持ち上げると、どうやら打ち身を作らないよう直鷹が肩を支えてくれていたらしい。 「ありがとうございます……っていうのも変ですね。この状況作り出したの、あなたですし」 「おっと。意外と冷静だね」 「いえ、流石に驚いたので、心臓が……」  僅かに視線を上げればすぐそこに、少年の小袖の鮮やかな色が視界に飛び込んでくるという距離に、阿久里の表情が固まる。一瞬遅れて、ふわりと鼻腔を擽るのは自身の香のにおいではなく、彼自身のそれ。  転びそうになったことで跳ね上がっていた心臓が、一瞬で蹴り飛ばされた。いままでで一番高く弾んだ心臓が、喉元まで競り上がってくるかのような錯覚を感じてしまう。 (……おかしい)  火事は起きていないはずだというのに。 (なのに)  息が、しづらい。  恐怖にも似た緊張が、身体を支配している。  恐怖を感じる相手でないことは、わかっているのに、身体が委縮するような感覚に囚われた。 「…………近くないですか?」 「そりゃこっちに倒したから、そうでしょうよ」  焦りを覚えている自分を悟られたくなくて、つい数刻前と同じ言の葉を繰り返す阿久里に、直鷹は特に気にした様子はなく笑いを含んだ声を返してくる。同時に指の力を弱めてくれたので、阿久里は体勢を立て直しながら、僅かに少年から距離を取るように後方へと下がった。 (おかしいわ)  離れたことに安堵しているのに、胸の奥のざわめきがいまだ収まらない。  阿久里は乾いている口内でなんとか水分を生み出すと、飛び出してきそうな心臓ごと飲み込むようにごくりと喉で音を立てた。 「っとまぁ、こんな風にね。こうやって兄上に――男に押さえ込まれたら、逃げられないでしょ」 「そもそも、こうやって押さえ込まれるような事態にならないよう気をつけるつもりなんですけれど」 「もし目に留まって(めかけ)に――とかいわれたらどうするの」  直鷹の言の葉に、未だ騒ぐ心臓の音にまとまらなかった思考がぴたり、凪ぐ。  (めかけ)。  言葉は知っている。  いわゆる、側室だ。 (え? 私が? 直重どのに?)  阿久里は何の冗談だといわんばかりにぽかんと口を開け、直鷹を見遣る。けれど睫毛の先にいる少年の表情からは冗談めいたものが一切感じられない。  阿久里は拳を口元へと当て、少年のいう「妾に――」の可能性をぐるりと一周考えてみるものの、どうしても現実味がない。 「……えー、考えてみたのですが、万に一つも可能性が見当たらないです」 「万に一つの可能性すらないなら、そもそも下剋上の時代になんてなってないからね。知ってるでしょ」 「まぁ……そうなんでしょうけど。でも、ないです」 「だから、それはあくまでも榊の希望的観測ってやつでしょ?」 「まぁ希望を申し上げるにしても勿論そうなのですが、でも……ないと思います。ないですね。絶対」 「だから絶対なんて、この世にないんだって」 「それはわかりますけど、でも……」 「俺が下男として一緒に行くっていうのはどうだ?」  埒もない問答に飽きたのか、弦九郎が二人の会話に割り込むように言葉をねじ込んできた。直鷹と阿久里はほぼ同時に視線を彼へと向けると、カラ、という乾いた音をたてながら障子が開かれ、のっそりと弦九郎が室内へと足を踏み入れる。 「まぁ姫さんが奧侍女として入るなら、四六時中目を光らせておくっていうのは無理だろうが、それでもいないよりもいた方が、一応護衛にはなるだろ?」 「確かに恒昌どのの縁の者として、奧侍女と下男をまず奉公させたいという程度なら先方からも無駄に何かを疑われない距離感ではありますね」  与兵衛が細い目を軽く見開きながら、弦九郎に同意した。直鷹は丸い顔を軽く睨んだが、 与兵衛は人の良さそうな顔に含み笑いを浮かべると、そっと睫毛を伏せる。  直鷹が「狸め」と呟き、鼻先に皺を寄せるその表情に、阿久里は軽く小首を傾げた。そして、常とは幾分違う雰囲気の少年へと気付かれないように、睫毛の先をちらりと向ける。 (苛々、してる……のかしら、ね)  知り合ってさほど経っているわけでもないが、阿久里の中での直鷹とは、常に飄々としていて、掴みどころのない少年だ。  太平のばさら大名のような(なり)をして、外連味じみた笑みをよく浮かべている。  そのへらへらとした外見で他人を欺き、心の奥底は決して悟らせない。  それが阿久里の直鷹評だった。 (でも)  今は、どこか違う。  彼を取り巻く空気が、どこかピリピリとしていて荒っぽい。  相手を煙に巻くような、余裕が見られなかった。 「熊」  低く唸るような声で、直鷹は弦九郎を呼んだ。男は主になったばかりの少年へと視線を動かすと、壁にもたれかかるようにしていた巨躯を板間へと落とし、(こうべ)を垂れる。 「いったよね? 最悪の場合、首が飛ぶって」 「おう。死ぬ気で、姫さん護ればいいんだろ?」 「違う。お前が死ぬことになっても、榊だけは絶対に護れ。それが約束できないのなら、この計画は了承しない」 「熊どの。いざとなったらちゃんと死にますっていってください」 「……姫さん、何気にひどくね?」  半眼となった弦九郎が、苦笑を零した。 「冗談です」 「冗談じゃないよ。榊がいないと、全部が終わるんだ。お前と榊の命は、同じ重さはない。わかるか?」  同じく笑いを追う阿久里に被せるように、直鷹の言の葉が鋭く尖る。真冬の風よりも凍てつくそれに、室内の空気が硬さを帯びた。  冷酷な一言に、それでもこの場で否を唱える人間は皆無だった。  何故ならば、この世において人の命には値段がつけられ、そして平等などではないということをみんな知っている。  だから。 「御意に」  不遜な態度を隠そうともせず命じる直鷹に、弦九郎は態とらしいほど畏まりながら額を板間へと擦りつけた。
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