第三章 真実を穿つ雨音

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 西からの陽射しの角度がほぼ正面になる頃、漸く細かな打ち合わせを終えた面々はそれぞれの役目に戻るべく、冷たい板間へと拳をたてながら主たる少年へと一礼する。  室内は橙に染められており、床の上に長い影が走っていた。 「それでは、寒河江城(さがえじょう)に俺の従姉妹が奧侍女としてご奉公に上がる、という設定で父上から話を進めてもらいます」  顔を覚えられている可能性があった弦九郎(げんくろう)は、念のため与兵衛(よへえ)経由で下男として仕えさせることにしたが、阿久里(あぐり)恒昌(つねまさ)が擦り寄るための餌であり、牧野(まきの)家として動く以上、現当主である恒昌の父親に話を通さねばならなかった。  恒昌個人のの主は、乳兄弟(ちきょうだい)として仕え始めたその日から直鷹(なおたか)ではあるが、彼の父親――牧野家としての主はあくまでも水尾(みずお)家――つまるところ、現当主・秀直(ひでなお)である。  結果としては「水尾家」というものへの忠節の話になるのだろうが、それでも牧野家当主を蚊帳の外に追い出して進めていいほど簡単な話でもなかった。 「うん、でもくれぐれも他には内密に」 「牧野家に協力を仰ぐ以上、その奥方にもご挨拶せねばならないのではないですか?」 「牧野家だけで済めばいいけどね。絶っっ対に母上にまで話が上がる」  恒昌の父である牧野家当主が主と決めた人物が直鷹の父親なれば、当然それに家族全員が付き従うのは当然の事かもしれないが、家臣の妻や(むすめ)との連絡を密にし、それらを全て束ねているのが水尾秀直の妻である直鷹の母だ。  ただでさえ女というものは、同族同士で群れたがる傾向にあり秀直の命よりもその妻に従う可能性は高い。また、それ以外にも彼女自らが自身の息子の乳母に選んだという関係性もある。  彼女に知られれば確実に、直鷹の母親まで話は伝わっていくとの事だ。  恐らく今頃は、彼の母親にも息子が死亡したという話は伝わっているだろうが、(はかりごと)というのはなるべく事情を知る人間が少ない方が予想外の事態になりにくく、結果うまく転がっていくものだ。  例え母が子を失った悲しみに暮れるとしても、出来るだけ秘密裏に動きたいという直鷹の気持ちはわからなくもない。  恒直は無言で頷くと、再度一礼し腰を浮かせた。与兵衛、弦九郎がそれに従うように後に続き、西日の差し込む障子をカラ、と開ける。  障子戸の向こうから差してくる夕陽に、阿久里は眩しそうに目を細めると、白い華奢な指を板間へとつき彼らへと頭を下げた。陽の光を受けた金糸のような少女の髪が、肩口でさらりとこぼれ落ちる。 「さて、と」  しばらく座したままで固まっていた身体を解すかのように、肩を押さえながら腕を回し出した少年へと、阿久里は伏せていた首を持ち上げた。視界の先には、いつも通り型にはまることを嫌うかのような素振りの少年。  けれど、その表情には出会ってから今日まで見たことのない感情が滲んでいる気がする。長時間、神経を切り詰めて話し込んだせいもあるのだろう。他者に弱みを見せることを厭い、上っ面を作り上げることに長けた彼にしては珍しいほどに、ひどく疲れた表情(かお)をしていた。 (まぁ……そんなわけは、ないんでしょうね)  彼は、そんなことで疲れたような表情(かお)をするような人間ではない。  どこか飄々として本心を煙に撒くのが得意な彼が、たかが数刻膝をつき合わせて話を詰めた程度で、そんな疲れた表情を家臣である恒昌たちの前でするわけがない。ましてや対等な関係性にあるという、同盟者の自身の前では尚のことである。  阿久里は本人からしたら不本意であろうその表情をこれ以上見てもいいものかと、そっと視線を横へと流す。 「どした? 大丈夫?」  阿久里が視線を外したことに気付いたらしく、直鷹は肩を押さえる手をそのままに首を傾げながら少女を見遣った。仕草さえ見れば、いつも通りの外連味ある彼の姿。けれど、軽く瞬きをした彼の瞼の上には、やはり疲れが滲んでいる。  彼自身、自分の心の不安定さや疲れに気づいていながら、それでも普段通りにしか振る舞うことが出来ないのだろう。生来の性格もあるのだろうが、本心を隠すようにして生きてきたせいで、常に「いつもの自分」を演じてしまう。  その演技の隙間から、負の感情が滲み出ていたのだとしても。  阿久里は、横へと流していた視線を再び彼の許へと戻し、真っすぐに彼を見遣る。すると、僅かに目を見開く少年がそこにいた。 「榊? なに? どうし、」 「大丈夫とは、あなたが、という意味ですか?」 「――――」  直鷹の言が最後を刻む前に、少女の声がそれへと覆いかぶさった。  正直、面食らったのだろう。少年が息を飲み言葉に詰まる(さま)が、視界の外からでもはっきりと確認出来る。阿久里がじっと彼へと双眸を縫い止めたままでいると、今度は彼が彼女と目線が合うことを拒むかのように、視線を一瞬横に流した。  そして直鷹は、そのまま肩を押さえていたその手で目を覆うように隠し、幼子のように俯きがちになり肩を丸める。  茶筅を結っている色鮮やかな結紐がゆらりと揺れた。 「参ったなあ……」  努めて明るくしているのだということがありありとわかる震えた声音に、阿久里は眉根を寄せる。膝の上に置かれた華奢な指が、借りた小袖を知らず握りしめた。  辻が花の絞りに、一層皺が刻まれる。 「そんなにひどい表情(かお)、してる?」  阿久里は、答えを探すように障子越しに入ってくる橙の光指す板間へと視線を泳がせる。  初めて彼と出会った日も、こうして床に夕日が落ちていた。  見知らぬ部屋の、見知らぬ少年。  手には黒拵えの刀を持ち、逆光の中に見たその表情は決して友好的なものとは断言できないほど温度がなかった。  出会った直後に感じたものは、まず漠然とした、けれども確実に「死」だった。  けれど――。   ――別にあんたを斬りにきたわけじゃないよ。  そう告げる声は、思いのほか意地が悪そうで――。  けれど、同時に頭の片隅に過った「死」の気配を何故か一気に消し去った。 (それが)  彼との、そしてすべての始まり。  阿久里は、そっと瞼を伏せると、睫毛の影を白磁の肌へと落とす。 (どう、答えれば)  正解なのだろう。  ――否。  正解、というものがあるのだろうか。  直鷹が外連味じみた言動を繰り返すのは、恐らく他人に心の奥底を見せたくないからだろうと阿久里は思っている。正室腹でありながら、嫡子ではないというその生まれのせいか、彼は自分を取り繕う。  水尾家の内情を阿久里は詳しくは知らないが、恐らく母を同じくする嫡男が兄にいるということは、少し間違えばきっと彼自身の立場をひどく危ういものなのだろう。この乱世、彼が望む望まないに関わらず、時に家臣に担ぎ上げられ、兄と対峙する立場に立たされる危険性があるということだ。  そういった話は珍しいものでもなく、近年他国ではよく聞く話である。 (だから)  彼は、常に本心を隠すようにお道化(どけ)た表情を他者へと見せる。  そして、それはいま心が弱ってしまうような事を目の前にしても、それを素直に表せない状況に繋がっている。 (本来、自分を守るための演技が、自分を苦しめることになるなんて皮肉なものね)  己の弱さを隠すことで、彼の矜持が守られているのならば。  弱っている自分を隠したいと、上っ面だけでも普段通りに振る舞おうとしているのなら。 (なら、せめてその矜持は守ってあげるべき……なのかしらね)  けれど。   ――そろそろお互い腹をかっ捌いて、その中に溜めたもん全部洗いざらい話し合おうか。  いつかの彼の言の葉が、不意に蘇る。   ――俺としてはさ、あんたには遠慮してほしくないし、するつもりもないんだよね。   ――今後も多分こういうことってあるかもしれないけど、お互いにお互いを助けにいくことに、理由をつけるのはもうやめようかなって。  確かに、彼はそういった。 (だったら)  自分も、上辺だけを取り繕うような返事はやめよう。  ここまでその答えを導き出すのに、やや時間を要したような気もするが、とりあえず返事はしなければいけないだろう。  阿久里は意を決したように再び睫毛を持ち上た。 「まぁ、それなりに」 「…………沈黙が長かった割には、遠慮のない答えだね」 「お望みでしたら、今すぐにでも撤回致します」 「ははっ」  直鷹は、無骨な手で目元を抑えたまま乾いた笑いを唇に乗せた。指の隙間から垣間見るかのような少年の視線が、阿久里のそれと交わり合う。  掠れ震える声音だけ聞けば確かにいつもの彼とは違うのに、表情には疲れにも似た感情が垣間見えるというのに、瞳が物語るのは強い信念。  きっとそれは、自分の生きる軸がはっきりとした者のみが持つ強い光なのだろう。 「初めてあなたをお見かけしたときには、見かけばかりのばさら者かと思いましたけれど」 「え、なに。急に面と向かって悪口(あっこう)聞かされてる?」 「いえ。事実を述べているのですけれど……」 「もっと悪いよ」 「そうではなくて。……なんといいますか……、お強いなと感じたのです」 「強い?」  直鷹の瞼が一度、上下する。 「えぇ。芯がある、というのでしょうか。あなたは、なにがあっても、なにが起きようと、あなた自身がぶれることがないな、と感じたのです」 「……うーん。まぁ、そうあろうとは思ってるかもね。出来ているかは、わかんないけど」 「でも」  阿久里は言葉を選ぶように、音のない吐息を唇へと絡めた。心の中を覗くかのように、視線を一度彼から離し、けれど再び睫毛の先を持ち上げる。 「えぇ……と、お互い腹を掻っ捌いて……洗いざらい話そう、でしたか。あなたが、私にいったことは」 「うん?」 「あの言葉が真実本音なのだとしたら……、でしたら、あなたも話してください。兄君に裏切られたことの辛さだとか、お父君のこと。恒昌どのや与兵衛どの、熊どのにはいえないようなことも、対等な立場の私にならば……『同盟者』の私にならば、いえるでしょう?」  互いを助けることに理由なんていらないのだと、彼はいった。  ならば、いま自分に弱音を吐くことに理由なんていらない。  つらいならば、そういえばいい。  ここにいるのは、虚勢を張るべき人間などではないのだから。  阿久里の琥珀の瞳が、真っすぐに彼へと向けられる。睫毛の先には、驚いたようにポカンと口を薄く開けた少年の(おもて)。一度、二度、彼の瞼が上下して、そしてク、と唇の端が持ち上がった。  ――刹那。  ガタン、という音ともに、少女の腕が引かれた。脇息が大きな音をたて倒れた、と認識するのと、自身の身体が少年へと倒れ込んだことを理解するのはほぼ同時だった。 「は、え……っ!?」  直鷹の腕の中に閉じ込められるかのように抱きすくめられた阿久里は、僅かに身じろぐ。部屋に入る西日のせいで金糸の如き輝きを持った髪が、ふわりと香った。 「はー、やっぱ癒される」  先ほどまでの震えた声音が嘘のように、普段通りの少年の声が阿久里の頭の上から降ってくる。鼓膜が音を拾うより先に吐息を感じる距離に、阿久里の身体が一層強ばった。  鼻腔を掠める彼のにおいに、収まっていたはずの心臓が再び勢いよく弾み出す。 「は? なに……? っていうか、いや、癒され……!?」 「あー。こうしていると、ほんと……榊は女なんだなぁって思うね」  先ほどまでの会話からは全く繋がりを持たないように思える言葉に、少女の眉は皺を刻んだ。  阿久里は目の前に広がる派手な色味の小袖を、ただただ凝視する。吐息とともに落ちてくる言の葉は、とにかく心臓に悪い。 「……えっと……、まさか実は男だと疑っていたのですか?」 「んなわけないでしょ。いや、最初に見かけたときはただのお姫さんだと思ったんだよ。身の程も弁えず、お忍びで城下に出かけて面倒事を起こす類のお姫さんだと思ってた」 「なん、のお話ですか……?」  彼から降ってくる声に、緊張のあまり掠れ声になりながら、阿久里は訊ねた。直鷹は封じ込めていた頭上に自身の顎を乗せると、「でもさー」と言葉を続ける。  彼の声が耳朶だけでなく、身体の奥へと染みわたるような錯覚さえ感じてしまいそうだ。 「あの時、明らかに『しまった』『しくじった』って顔してたのに、しっかりと俺の正体を見極めようと冷静な目も持っててさ。ちょっと面白いなって思った」 「え。あぁ……あの、出会ったときの、お話ですか……?」 「そう。でも、その時もまだ榊への印象は、女だったんだよ。お姫さんだったんだ」 「……いまは、違うのですか?」 「いまは……そうだね。女じゃない」 「? さっき、女だっていいませんでしたか?」 「うん。でも、俺の中ではもう榊は『女子供』じゃなくなったなぁ」  一体、彼がなにをいいたいのか理解できず、阿久里の眉間の皺は刻々と深くなっていく。彼はこうして時折謎かけのような言葉を投げかけてくるが、確かそういうものを取っ払っていまは洗いざらい腹を割ろうという話ではなかっただろうか。 「ま、こうしてると癒されるのも本当だけど」  肩へと触れる直鷹の手の力が一層強まった気がして、阿久里の身体がますます軋んだ。 (火事でもないのに)  息が、詰まる。  心臓が、ひどく苦しい。  息の仕方が、わからなくなる。  きっと、抱きすくめられている力はさほど強くはない。  けれど、自由なはずの指一本、動かすことがいまは出来ない。 (――――――あ)  阿久里はふと脳裏に先だって自身が発した言葉を思い出し、身じろぎ出来なかった一瞬前の心理などなかったように身を捩る。  すると、特に抵抗もなく彼の腕から少女の痩躯は解放された。 「ん?? なに、どしたの?」 「あの。とりあえず、こういう状況に陥ったときにどう対応すればいいですか?」  思えば、こういう状況から脱出するために武芸を習う習わないという話があったはずだ。あの時は一蹴されたが、けれども結果として彼女が潜入することになったので武芸とはいわずとも多少何かの対処方法は身に付けていった方がいいだろう。 「結局そこに戻るか」  直鷹は半眼で明後日の方向を見ながら、わざとらしく「はーっ」と溜息を吐く。そして、少女の細い肩から手を離し、板間に転がる脇息を元の位置へと戻した。 「さっきもいったけどさぁ、榊の力じゃ組み打ちとか絶対無理。身のこなしが悪すぎるし、何より相手を組み伏せるにしても、目方(めかた)(体重)が軽すぎる」 「じゃあ大して力も目方もいらないけど、一撃必殺的な外道とかありませんか?」 「…………………………まぁ、あるにはあるけどね」 「え、あるんですか?」  長い沈黙のあと、何故か視線を反らしながら口の中でもごもごと喋る少年に、阿久里はたった今距離を取ろうとしていたことを忘れ、ずりずりと膝でにじり寄る。背で結われた栗色の髪が、まるで掃除をするかのように板間を佩いた。 「あるのなら、それでいいじゃないですか」 「…………そういわれてもね」 「あ、お忙しいのですか? それでしたら、熊どのにでも教えて頂こうと思うのですけれど」  彼らにも彼らの仕事があり潜入までの間になかなか時間は取れないだろうが頼んでみてもいいかもしれない、と阿久里は彼らが退出していった障子戸を振り返る。先ほどまで目に痛いほどの西日が入ってきていたが、日が陰りつつあるらしく障子の向こうの色が僅かに暗くなっていた。 「ちょっと、頼んでき――」  阿久里が腰を浮かせて立とうとした瞬間、クン、と髪を引っ張られる。驚きながら振り返ると、そこには板間へ落ちた少女の髪を手繰り寄せるように握りしめる少年の姿があった。 「そういえばこの前、結紐取って返してなかったよね」 「えぇ……まぁ。でも別にそれはもうどうでも……」 「まぁ、貰っておけって」  直鷹は、自身の茶筅を結っていた紐のひとつをシュル、と解くと阿久里の目の前に突き出す。若草色の結紐が踊るように揺れ、少女は思わず手のひらを差し出した。 「有難う存じます……。あのでもそれよりも、一撃必殺的な外道の技の方が」 「外道っていうな外道って。ま、………………後悔すると思うけど?」  薄く開かれた唇から搾り出すように出された少年の言の葉に、阿久里は大きく見開く。 少女の小さな手のひらに結紐が落ちたと同時に、少女の顔に影が生まれた。
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