第三章 真実を穿つ雨音

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 どんよりと落ちてきそうな灰色の空から、ぽつりとひとつの雫が天を仰ぐように芽吹いた葉へと落とされる。  阿久里(あぐり)がその小さな音に気づきふと空を見上げると、その小さな雫はあっという間にその数を増していき、幾筋も連なりながら空から降り注ぎ始めた。少女は腕に抱えた盆へと一度視線を落としながら、僅かに鼻腔を掠める雨の匂いに(おもて)を僅かに緩ませる。  雨の日は嗅覚が敏感になるといわれており、香を聞くには適した日とされる。しっとりと漂う雨の匂いとたてられた香がひとつとなりふわりと鼻腔に届くのを楽しむのは、ほぼ軟禁状態にあった阿久里の数少ない趣味のひとつだ。  いま腕の中にある乱箱(みだればこ)と呼ばれる盆の中には、湯呑ほどの大きさの聞香炉(ききこうろ)と呼ばれる香炉など、道具一式が収められていた。 (まさか侍女の仕事で役立つとは思わなかったけれど)  少女は止めていた足を再び廊下へと転がしながら、視線を前へと向ける。そして前方にある部屋の前まで歩を進めると、腰を下ろしながら乱箱を脇へと置き、真新しい廊下へと細い指をついた。 「御方さま、お持ち致しました」  阿久里が頭を垂れたまま室内へと声をかけると、中から「遅いじゃない」とやや怒気の含まれた若い女特有の高い声がかけられる。 「申し訳ありません。このお城ではあまり使用されていなかったようで、どうやら仕舞われていたらしく……」 「言い訳は聞いていないわ。さぁ、はやく」  入室を許可する声がかかると、阿久里は脇へと置いた乱箱を再び手に取り腰を浮かせ室内へと踏み入れた。六畳ほどの部屋の奧で脇息にゆったりと身体を預ける年若い女へと一度睫毛を向け、彼女から三、四歩下がった位置まで進むと、阿久里は腰を下ろし彼女との間に乱箱を置いた。 「御方さま。こちらが、香道のお道具となります」 「そんなこといちいち説明されなくてもわかるわよ」  言葉に刺を思い切り含ませながら、柿崎殿は睫毛を阿久里へと向け眉の間に皺を刻む。長い睫毛の奧の瞳が語ってくるのは、無関心の奥底にある少女への明らかな軽蔑と――僅かな嫉妬に似た感情。  城にいた頃は、前者に至ってのみではあるが、父親や本丸御殿の侍女たちから似たような視線を受けていたことを不意に思い出した。思えばこの火事騒動以来、そういったものとは縁遠い生活を送っていたことに、久々の悪意を向けられることでようやく気づいた。 (まぁだからってそれを懐かしむ気持ちなんてあるわけないのだけれど)  阿久里が当初の予定通り牧野恒昌(まきのつねまさ)の父方の従姉妹として、秀直(ひでなお)の居城であった寒河江城(さがえじょう)へ侍女として上がったのはほんの数日前――。  それまでの間、駒木与兵衛(こまきよへえ)の許で世話になっていたのだが、彼の妻が阿久里の身分を(おもんぱか)ってか、彼女が袖を通すものには香を焚き染めてくれていた。  日頃より香を焚き染める生活が当たり前であった阿久里は、特にそれに対し違和感を持たずにいたので、いざ城に上がった時には流石に香を焚き染めてはいなかったものの、身に付けていた小袖や髪に残る香の移り香に気付けなかった。 (香を焚き染める生活に慣れすぎるのも、善し悪しね)  牧野家のように貧乏武家の、さらに傍系の出自でありながら、高貴な香を焚き染めている女が奉公に上がったらしいとの話を聞きつけた柿崎殿(かきざきどの)に呼び出されたのは、城に上がったその日の夕刻のことだった。  阿久里の外見を一目見て眉間に皺を寄せた柿崎殿に、どうして貧乏武家の出自である侍女風情が雅やかな香を纏うのか、と訊ねられた。   ――このような見場(みば)(容姿)の悪さと、貧乏武家の出自だからこそ、何かひとつ秀でたものを会得させようという親心があったようで、幼い頃より香道を嗜んでおりましたので……。  咄嗟とはいえ、それなりにうまい言い訳を思いついたのではないかと思う。  自分よりも容姿が遥かに劣り、身分にしても現在の自分(そくしつ)からすれば遥かに下の女に雅やかな嗜みがあることを不快に思うと同時に、この一部階級の人間だけに許された嗜みに興味を持ったらしい彼女は、そのまま阿久里を自分付の侍女として仕えさせることにした。 (まぁ確かに、情報を得るためには一番近づきたかった人だけれど)  直鷹(なおたか)は自身の兄と父親の側室である柿崎殿との繋がりに否定的ではあったが、右も左もわからない状態で闇雲に動くのは危険が伴う。何より城に上がったばかりの侍女風情が調べたところで、本来の城主の安否など知れようはずもない。  柿崎殿ならば、寒河江城の女主人であり、何より秀直の側室(つま)である。彼の容態を知る一番の人物ではないだろうか。  阿久里は上座にいる主たる女性に気付かれないよう軽く息を吐き出すと、板間の上に地敷(ぢしき)と呼ばれる金色(こんじき)の布を敷き、その上に道具をひとつひとつ取り出していく。  この城は現在の水尾家(みずおけ)当主の居城ではあるが、長く使われたものではない。ここ最近築城されたばかりの真新しい住まいであり、いま眼下にある道具も、恐らくその時に新調されたものなのだろう。城主の趣味に合わせてか、聞香炉は歪みを気にしない武骨な造りに、釉薬がかけられた箇所は特徴的な暗緑の模様が染みこんでいた。  一般的に貴人が好みそうな繊細で雅やかなものではないが、なんともいえない味がある焼き物だ。直鷹のああいった趣味は、もしかしたら父親譲りなのかもしれない。 「こちらの湯呑のような形をしたものが、『聞香炉』で御座います。この中に熱した炭団(たどん)を入れ灰で山を作り、その上に銀葉(ぎんよう)、香木を乗せ――」 「小難しいことはどうでもいいわ。はやく、その香木とやらを焼べてみせなさい」  柿崎殿は眉間の皺の数を増やしながら、白粉を塗り白くなった手に持った扇を阿久里へと向ける。少女は両手に持った聞香炉を布の上に置くと、事前に運んでおいた火取り香炉から火箸で香炭団(こうたどん)を取り出し、そのまま聞香炉の中に転がした。  ザクザクという感触と共に、熱せられた香炭団が灰の中に沈み埋もれていく。 「ふぅん……。何か、地味な作業ね」  脇息に肘をつきながら、さほど興味があるわけでもなさそうに柿崎殿は呟いた。 「これはまだ準備段階で御座いますから」 「見りゃわかるわよ。それを地味だっていってんの」  阿久里がちらりと睫毛を上座へと向けると、すでに飽きているのか手にした扇を少し開いては閉じ、開いては閉じと繰り返す黒髪の女の姿があった。己の中にある不快さなどを隠そうともしないこの女性は、それでも阿久里の目から見ても十分すぎるほど美しい。  自らの美貌に自信のある者は、どんな表情も様になるから徳である。 「良き香りというのは御心を落ち着け、安らかにさせる効用があるといいます。ですから、」 「御心ねぇ……。そんな形のないどうでもいいようなものよりも、殿の御身体を治してくれる薬の方がよっぽど役に立つわ」 「――っ!」  貴女の勘気も少しは収まると良いのですけれど、と続くはずだった、阿久里を知る者数名が目を剥いて卒倒しそうな言の葉は、幸運にも女主人によって音となることなく口中で消え果てた。  それどころか、その後続けられた彼女の言に、阿久里の手が一度ぴたり、止まる。下座に控える侍女がなにをいおうとしていたかなど知りもしない柿崎殿は、つまらなそうに弄んでいた扇を開き、ひらひらと扇ぎながら軽く溜息を吐いた。 「あ、でも待って。ご心労でお倒れになられたなら、お香とやらが効果あるってことじゃないかしら」  阿久里は思わず上げそうになる(おもて)を、何とか押し止めた。胸の内側で激しく鳴り出した心臓の音が、何故か自身の鼓膜に響く。聞香炉の中に差し込んだ火箸を持つ手が震えるのを、必死で堪えた。  何かが込み上げてくるような錯覚に襲われながら、少女は息をゆっくりと吐き出す。吐いて吐いて吐いて全て吐ききって、そして肩が持ち上がるほど勢い良く空気を吸った。 (これ、便利な呼吸法ね……)  黒髪の少年から教わったこの呼吸法は、いついかなる時も簡単に出来るので使い勝手がいい。何かの武術での呼吸法だろうか。  少女はもう一度、深く息を吸い込むとゆっくりと(おもて)を上げる。 「香を聞いたことによりすぐご心労が回復され、目を覚まされるといった即効性については期待出来ないかもしれませんが……殿さまはどこか、ご心労でお身体の調子が優れないのですか?」 「あぁ、お前まだお城に上がってなかったのね。先日、心労でお身体の調子を崩されて、今寝込まれていらっしゃるのよ」 「さようでございますか。なればこそ、香をお試しされるとよろしいかもしれません」 「あら、そうなの?」  大きな瞳を殊更大きく見開きながら、柿崎殿は扇を扇ぐ手を止める。阿久里は布の上に並べられた銀葉挟(ぎんようばさみ)を手に取ると、そのまま一度膝の上へと置いた。思いの外、話が核心へと進もうとする中、古いが洗われたばかりの蔽膝(へいしつ)(前掛け)の上で、挟を握る手が緊張に握り締められる。 「はい。勿論、薬師の方と相談してからとなるとは思いますが、御方さま御自ら殿さまに焚いて差し上げては如何でしょうか?」 「ふぅん……」  地味だと眉を顰め、香道に対しすでに興味の大半を失っていた女は、阿久里の一言に身体を預けていた脇息から起き上がる。 「その香道っての、会得するのにどれくらいかかるの?」 「作法を覚えるだけでしたら、さほど難しいとは……」 「でも私、ああいった地味にコツコツやるの好きじゃないのよね。……あ、そうだ。面倒なことは全てお前がやって、その後に私がその、……香炉?」 「聞香炉ですね」 「そう。その聞香炉とやらを、殿のご寝所に持っていくってのはどう?」 「え、でもそれだと御方さまがいらっしゃる意味がなくなりませんか?」 「はぁ? どういうことよ?」 「いえ、ただの使い走りのように私が焚いたものをお届するだけのお役目をされたいということでしたら、お止め立ては致しませんけれど……」 「誰が使い走りよっ! 真実がどうであれ、対外的には女主人(わたし)が焚いたことにするのが、お前達侍女の勤めでしょ!」  思わずツッコミを入れた阿久里が自身の失言に気づき唇を指で押さえるのと同時に、上座から扇が投げつけられた。阿久里ならば当然届かないか、もしくは明後日の方向へと向かって放たれただろう扇を、見事に二人の間に置かれた香道具へと命中させることの出来る身体能力だけ見れば、確かに武家の棟梁が選ぶに相応しい女人(にょにん)といえるのかもしれない。  よほど勢いついて投げられたのか、カッ、という音と共に重量感のあった聞香炉が呆気なく倒れた。地敷の上に熱せられた灰が散らばり、やや赤みを帯びている香炭団が転がり出る。 「……っ!」  阿久里は咄嗟に火箸でさっとそれを香炉へと戻すと、金色の布の上に散らばる灰を羽箒(はぼうき)で軽く掻き集める。そもそも事の発端が火事騒動だっただけに、ここで小火を起こすなど冗談にしても笑えない。 (私が原因での火事があったなんてお父さまが知ったら、それこそまた狐火だのと大騒ぎしそうね)  炭団が転がっていた箇所を指先で一度、トンと触れてから、再度手のひらを乗せても特に熱を感じない。ひっくり返した手のひらは灰で白くなっていたが、とりあえず地敷にも焦げた部分がなかったことが確認出来た。  阿久里はほっと一息吐くと、そして甲高い怒声を浴びせてきた女主人である年嵩の美女へと睫毛を向ける。 「御方さま。焼身での自死がご希望でもないのならば、このようなことは今後お控えになられた方がよろしいかと思います」 「な……っ! お前、私に意見するつもり!?」 「え? では、本当にご自害されるおつもりだったのですか?」 「するわけないでしょ! なんでしなきゃならないのよ!!」 「ですから、おやめくださいと申し上げました。このように小さな炭団でも、布に燃え広がればあっという間に大きな火事になるのですから」 「なによ! 冬ならばともかく、この時期にその程度の火種で火事になどなるわけないでしょう!」 「大火事にならなくても、伏せっておられる殿さまのご体調にも差し障りがあるかと……」 「そう! その殿のことよ! そもそも、私は殿がお倒れになってから、一度もお目通りを許されていないのよ! 香で殿のご病気を治す!? お会いしてもいない殿に、そんなこと出来るわけないでしょう!?」 「えっ!?」  甲高い声で怒声を張り上げ始めた柿崎殿の言に、阿久里は目を見開く。目通りが許されていない? それが真実ならば、彼女とのこの時間は全くの無駄ではないか。 「御方さまは、ご側室でありながら、殿さまにお目通り許されていないのですか?」 「ああっ、もうっ! うるさいわね!! そうだっていってるじゃない! それなのによくもまぁ抜け抜けと香を焚けだのといえたものねっ!」 「え……と、御方さまが殿さまにお目通りが許されていないと聞かされたのは、たった今なので……」 「ああもうっ!! 本当、お前はああいえばこういう!! 憎らしいったらないわね!!」  彼女が仮に秀直への目通りが許されているにしても、今さらもうこの状態ではどうにもならないだろう。一度失言を零した唇は挽回を諦めたかのように、ぽろりぽろりと本音ばかりを滑らせた。  その数と比例するように、上座で金切り声を上げる女の眦の角度が吊り上がっていく。雨が降ったことによる湿度のせいか、妙に部屋が息苦しい。 「御前失礼致します。柿崎の方さま、如何なされましたか?」  嗄れた声が背後から急にかかり阿久里が肩越しに振り返ると、そこにはひとりの小柄な老女が廊下へ皺だらけの指をつき頭を垂れていた。 「浪乃(なみの)……」  柿崎殿は先程までの金切り声が祟ったのか掠れた声音で老女の名を呼ぶ。阿久里はその名が、この寒河江城の奧を一切合切取り仕切っている侍女頭(じじょがしら)のものであることを思い出し、身体の向きを変え、(おもて)をそっと下げた。  浪乃はそのまますっと立ち上がると、打掛の裾を捌きながら室内へと足を踏み入れてくる。そして皺の奧に隠れた瞳でちらりと阿久里を見た後、彼女の目の前で散らばる香道の道具へと視線を移し―――、そのまま何の感情も浮び上がっていない能面のような顔を主たる女へと向けた。  老女と視線があった瞬間、柿崎殿の表情に苛立ちの感情が再度貼り付く。浪乃はそんな主の変化を気にもせず、シュル、という衣擦れの音と共に手馴れた調子で打掛の裾を捌くとすっと腰を下ろした。 「御方さま、こちらの者は先日侍女としてお城へと上がったばかりの者と見受けますが、何ぞ不手際でも御座いましたか?」 「ふ、不手際も何も……このような無礼な者、他に知らないわよ!」 「牧野家の(むすめ)とのことでしたので、礼儀作法は教育されているものとして考えておりましたが……、至らぬことで申し訳御座いませぬ」 「貧乏武家の出自で見場もこのように悪い女だから少しばかり温情を掛けてあげたら、恩を仇で返すような無礼者だったわ。あぁ、憎らしい。そこのお前、もういらないわ」 「では私が責任を持ってお引き取り致します」  流石、日頃からこの城の奥を任されているだけあって、柿崎殿に対する扱いも手慣れたものらしい。  視線を感じ、阿久里が下に向けていた睫毛を僅かに持ち上げると、皺だらけの老女と視線がぶつかる。彼女の視線が言うがまま、阿久里は目の前に散らばった香道の道具ごと地敷を折りたたみ、乱箱へと収納した。 「それでは御前、失礼致しまする」 「浪乃」  先ほどまでの甲高い声が嘘のように、けれどどこか威圧的に老女の名を柿崎殿は再度呼ぶ。 「何で御座いましょうか」 「……北の方さまから、文が届いたわ」  彼女のいう北の方とは、秀直の正室であり直鷹の母親である女性だろう。 「左様で御座いますか」 「殿は、どちらにいらっしゃるの? お倒れになられてから、私はお目通りも許されていないわ。どうせ浪乃、お前がお世話しているのでしょう? 北の方さまはこのお城の差配を直重さまがされていることをご不快に思われていらっしゃるご様子よ」 「御嫡男の直家(なおいえ)さまが、今は国を留守にされていらっしゃいます故に御座いましょう」 「じゃあそれをお前から北の方さまへご報告して頂戴。私、これ以上、北の方さまからご叱責を受けることになるのは嫌よ」  柿崎殿はそれ以上もう話すことはないと言わんばかりに、眉間にしわを寄せたまま不機嫌そうに視線をぷいっと横へと向け、艶やかな打掛から覗く白い指をひらひらと振った。
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