第三章 真実を穿つ雨音

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「は? 浪乃(なみの)?」  雨を吸った箕を無造作に脱ぎ捨てながら、熊手のような大きな手のひらで顎のあたりを拭う大男に、直鷹(なおたか)は眉を顰め訊ね返す。  先ほどより表の方が何やら騒がしいと思っていたが、この図体の男が頭のてっぺんから足の先までびしょ濡れで入ってくれば、なるほどちょっとした騒ぎにもなるだろう。 「おうよ。姫さんの話によるとな」  当初の予定通り、花咲城へ下男として出仕している弦九郎(げんくろう)は主たる少年の問いに頷きながら、廊下へと上がり込んだ。ポタポタと雫が廊下を濡らし、それを草鞋のような足で軽く拭う。けれどそもそもの足の裏が汚れていたようで、綺麗に掃除されていた廊下に泥の水たまりが出来上がった。  直鷹自身もさほど綺麗好きというわけではないが、流石にそれはないだろう。彼は軽く溜息を吐きながら半眼で弦九郎を見つめ、懐紙を取り出し投げつける。男はつるりと剃られた頬に苦笑を滲ませながら、それを受け取るとガシガシと足の裏を拭き始めた。  兄・直重(なおしげ)が使い捨て要員に他ならなかったこの男の顔貌(かおかたち)を覚えているとも思えなかったが、そのままの風貌でいるよりはいくらか変装した方がいいだろうという判断から髭を剃らせたが、粗暴さは髭を剃った程度ではどうにもならなかったらしい。 「で、(さかき)が何?」 「いやな、姫さんの話によると今、主どのの父上の看病してるのは、側女(そばめ)じゃなくその浪乃って老女らしいんだわ」 「まぁ、側室に上がったばかりの若い女にやらせるくらいなら、勝手知ったる浪乃がした方が父上にとってもいい話なんだろうけど……。柿崎殿(かきざきどの)が拒んだって可能性は?」 「姫さんが直接、近づくことを許されずに当り散らす姿を目撃してるから、ほぼないんじゃないか?」 「ふぅん。で、なんで浪乃よ?」  直鷹の知る限り、浪乃は真面目で――真面目が過ぎるほどの侍女だったはずだ。誰の子供だからといって、決して贔屓などしなかった。悪いことは悪い、正しいことは正しい。そんな、正義が小袖を打ち掛けて歩いているかのような老女が、長年仕えた主を裏切るなどというようなことがあるだろうか。  直鷹の唇が、「何かの間違いだ」と音を零そうとした瞬間、不意に彼女と最後に出会った日のことを思い出す。   ――そういえば……いまお屋敷に、直重さまもいらっしゃっておりますよ。   ――直重さまも、お部屋にお通しした方が、よろしゅうございますか?  いまにして思えば、あのとき感じた微かな違和感。  事件のあらましを偶然知ってしまったという高揚感もあり、話を急いてしまったせいで兄の同席をそのままいうがままに許したが、思えば何故、彼女は急にそんなことをいい出したのか。  直鷹と長兄の仲が微妙だということは、彼女も知っていたはずだ。そして自身が寒河江城(さがえじょう)を訪ねたのも、主たる父親本人に報告があるからであり、余人を交えたくないからだということくらい、長年城仕えをしてきた彼女には容易に想像出来ただろう。  それなのに、何故か不仲である兄の同席を薦めてきた。 「姫さんが言ってたんだがな、その浪乃って婆さんはよ、主どの、あんたの兄貴の――」 「祖母君ですからね」  突然、襖の奥からどこか威圧的な声がかかる。  ほぼ無意識に、反射的に直鷹の背筋はピンと伸びた。常日頃より、どこか飄々として掴みどころがなく、動作の全てが外連味を感じる少年があからさまに緊張するその様子に、目をまん丸くする弦九郎の表情が視界の端に映し出される。  カラ、という乾いた音と共に竹の描かれた襖が横へ流れ、藍色に菖蒲が刺繍された小袖を打ち掛けた女が姿を現した。  見るからに身分ある女の登場に、弦九郎が慌てた様子で(おもて)を下げる。この女性(にょしょう)が「誰」であるかなど、どうでもいい。ただ、伏せなければならない程の威圧感。それは決して暴力的なものではなく、けれども有無をいわさぬ程の絶対的な存在感だった。  彼女はちらり、弦九郎へと視線を一瞬落とし、けれどなにも言葉を発することのないままに(おもて)を板間へと擦り付け茶筅の先を自身へと向けている直鷹へと再び視線を投げた。  息が出来ないほどの、空気の重さが周囲を支配する。 「母上、どうもお久しゅうござ」 「あら、死んだと聞いていたけれどお前口がきけるの」  どうにか突破口を、と思い口を開けば、返す容赦のない言葉に思わず喉の奥で何かが詰まる。直鷹は、彼女の後ろで彼よりも小さく縮こまっている乳兄弟の少年を恨めしそうに上目遣いで()めつけた。 (だからバレるなってあれほど……)  そのまま軽く視線を横へと流し、はぁ、と軽く溜息を吐く。先ほど表の辺りが何やら騒がしいと思ってはいたがそれは弦九郎のせいではなく、水尾秀直(みずおひでなお)・正室の(おとな)いがあったからだ。  水尾家に縁深い家柄の(むすめ)として生まれたこの母は、名を「ぬい」といい、実家の姓を取り「児玉御前(こだまごぜん)」と称されている。  艶やかな黒い髪を背の中ほどで結い肩にゆったりとたわませたその姿は、たおやかという言葉がどこまでも似合う美貌の母だが、息子である直鷹は知っている。 (母上は父上よりもずっとしたたかで、数倍は性質(タチ)が悪い……)  シュル、と衣擦れの音をたてながら、上座へと歩を進める児玉御前を視界の端で追う。そして僅かに腰を浮かし板間を滑るようにしながら上座を母親へと明け渡した。  彼女が手馴れた仕草で打掛の裾を払い音もなく優雅に座すると、ふわりと品のよい香が少年の鼻腔を擽る。栗色の色彩を纏う少女とよく似た調合と思われるその香は、彼女のそれが晴れた日の森林を思わせるような涼やかなものならば、母のそれはどこまでいってもまろやかで――そして、どこまでも果てなく深い。 「それで、何故母上がこちらに……?」 「死んだ息子に最期にひと目なりとも会いたい、という切ない親心以外の理由が何かほかにあって?」 「…………ありません」  外見からはとても想像出来ない真冬の風の如き声音が母から射られ、直鷹は視線を横へと流しながら思わず「女狐」と小声で毒づいた。 「まぁ、薄情な息子への戯言はさて置き、今は直重どのがことです」  突然声の質を正した母へ、眉を顰めながら直鷹は視線を彼女へと戻す。 「(わらわ)が父君に嫁ぐより前に、父君が他所の女子(おなご)に産ませた子があり、それが直重どのということは、お前も存じていますね?」 「父上が戯れに通った相手なので、家中では捨て置くべしとの話も多かったと聞いておりますが」 「さすがに身に覚えがあった父君は、そのまま捨て置くのも忍びないと思われたのでしょうね。直重どのは庶子として迎えられることとなり、さらに睦んだ女子(おなご)が亡き後にその母御を侍女として召抱えられました」 「それが」  浪乃か。  直鷹は睫毛をやや落としながら、視線を母親から横へと流した。雨が降ったせいか、今日は季節が巻き戻ったかのように冷え込んでいる。指先が冷たいのは、冷たい外気のせいだろうか。 「(わらわ)から見て、寒河江城の奥を任せても良いと思えるほど信頼にたる者だっただけに残念だわ。お前、浪乃に懐いていたでしょう? お前は浪乃へは絶対に疑いが辿り着かないと思ったからこそこちらに参ったのだけれど。寒河江に放った乱破(らっぱ)(忍者)はよっぽど優れているのかしら?」  不意に脳裏に浮かんだ少女の姿に、直鷹の頬に貼り付けた笑顔が一瞬固まる。母親にあの少女との関わりがバレるのはなんとなく嫌だ。唇の端がピシピシと音をたててひび割れをおこしたかのような錯覚に襲われたが、気づかぬふりをして何事もなかったかのように母親への軽口で切り返した。 「母上こそ一体どこの乱破者を雇われているのですか? 随分とお耳が大きく、家中のことは何でもお見通しのようですが」 「あら、女狐ですもの。大きな耳を持っていてよ」 「…………あれ。さっきの、聞こえてました?」 「いいえ、カマをかけただけ」  ほれ見ろ。やっぱり性質(タチ)が悪い。  直鷹は、先ほど脳裏に浮かんだ少女もこうして自分にカマをかけてきたことがあったな、と思い出し、「どいつもこいつも女狐か」と、今度こそきちんと心の中で呟きながら母へと勢いよく頭を垂れる。  胸中にいまだいる少女が「だから狐だといったではないですか」と笑った気がした。
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