第四章 華の行方

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第四章 華の行方

 降ったりやんだりを繰り返す雨に些かうんざりしていた時に、その文は届けられた。  人払いをしていたにも関わらず、現在直重(なおしげ)が居室としている部屋近くまで音もなく訪れたその男は、懐から小さく折りたたまれた紙を出すと廊下で空を見ていた直重の足元へと滑らせ、そして再び音もなく去っていく。  名も知らなければ、会ったことがあるのかないのかすら記憶にとどまらない男の姿に、「草の者(忍者)か」と独りごちた。濡れた地面だというのに、すでに彼がここにいた痕跡が地面にさえも残されていない。恐らく瞬時に、足跡がつきやすい場所つきにくい場所を判断し足裏を滑らせているのだろうが、そのような技能を身につけるためにどれほどの訓練をしてきたのだろう。  生まれが下賤だったというだけで、あれほどの能力を持ちながらもあの男は生涯日陰の世界しか知らず生きていくのだろう。  ――否。 (そういう時代は、もう終わろうとしているからこそこの計画があるのか)  直重は男が消えた庭先から視線を足元へと落とすと、そこへ転がる小さく折りたたまれた紙へ手を伸ばし拾い上げる。 (花咲城(はなさきじょう)攻略の儀――)  視線を広げた文へと落とすと、そこにはやや癖の強い文字で(したた)められた物騒な内容があった。 (もう、五月(いつつき)も前か)  最初にことを起こしたのは。  ――否。  水尾景直(みずおかげなお)に初めて文を出してからすでに一年近く経つ。そしてこの謀叛を脳裏に思い描いてからは、すでに十数年の月日が流れている。邪魔だてする者は全て片付けたはずだが、そろそろいま国を留守にしているすぐ下の弟――父・水尾秀直(みずおひでなお)の嫡男も帰ってくる頃合だ。  なんとしても、彼が戻ってくる前にケリをつけておかなければならないだろう。 (やるなら、今か)  直重は六畳ほどの部屋へと入ると、文机へと向かう。そして筆を取ると、何の迷いもなく筆を白い紙へと滑らせた。筆が白い紙の上を流れる様をどこか他人事にように見つめながら最後に花押を書き込むと、一瞬筆を離すのが遅れ、まるで濡れたかのように花押が滲む。  書き直すほどのものではないので乾くのを待ってそのまま小さく折りたたみ、外へと視線を流すといつ現れたのか先程の男が廊下に控えていた。  一体どこから自分の様子を見ていたのかとうすら寒いものを感じながら、直重は男へと小さくたたんだ文を滑らせる。男は一礼するとそれを懐へと入れ、再び音もなく去って行った。  どんよりとした曇りがどこまでも続く曇天に、決戦の火蓋を切って高揚するはずの心が重く澱んでいく。  見続けるほどに気持ちが沈み込むというのに、どうしても視線を逸らすことが出来ない。直重の瞳は縫い付けられたかのように、外へと視線を送り続けた。 「…………雨?」  ポツリ、と再び空が泣き始める。  ひとつ、ふたつと地面に染みこむ雨は、やがて雫の薄絹を纏うように庭先の景色を暈した。まるで晴れることのない自身の心境を現すかのような空模様に、先ほどの花押が滲んだ理由を重ね――、そして、弧を宿す唇に嘲りの感情を刷く。  書きなれた花押をしくじったのは、自覚のない迷いだとでもいうのか。  涙を流せない自分の代わりに、空が泣いたとでもいうのか。 「馬鹿馬鹿しい」  直重は鼻先で己を笑いながら、睫毛の影を頬へと落とした。縫い付けられた空への視線を無理矢理断ち切ると、衣擦れの音と共に立ち上がる。  そして再び持ち上げられた睫毛の奥の瞳には、すでに迷いはなかった。
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