第一章 紅い華

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 雲ひとつない澄み切った青空が、広がっていた。  桜の季節は疾うに過ぎ去り、木々は若芽が少しずつ顔を出し始め、柔らかな風が時折草木を揺らす。  日によっては汗ばむほどの陽気にもなる――そんな季節。  田畑では農夫らが田植えの準備に追われているらしい。いつにも増して忙しなく動く様を、直鷹は日陰を作る桜木の根元に寝転びながら、さりげなく視界の先に捉えていた。 「ふぅん。田植え、ね……」  そして、唇の端をやや吊り上げながら、独りごちる。  年の頃、十七、八。  黒曜石を思わせる、意思の強そうな瞳。やや硬質の黒髪は、何本もの色鮮やかな女物の結紐で茶筅に結い上げられている。  すでに花が散った桜木の枝に、女物と思われる小袖がかけられていた。派手な織りの橙色の小袖に、紺の袴から伸びる手足は、この季節の若木を思わせるほどしなやかで、力強さに満ちている。  かつて「ばさら大名」と呼ばれた者たちさながらのその姿は、どこまでものどかに続く新緑の田畑では色彩面からいっても果てしなく目立って――有り体に言ってしまえばものすごく「浮いている」が、本人にそれを気にする素振りは微塵もない。 (さて、と。どうするかな……)  腹筋の力だけで上体を起こすと、前髪が額で揺れる。直鷹が無造作に骨ばった指で髪をかき上げると、視界の端に土煙を捉えた。 「若ーっ!」  馬の蹄の音とほぼ同時に聞こえる、若い男特有の張りのある声。  田畑の農夫は、その声に頭を持ち上げる。しかしそれが常と変わらぬ日常とわかると、額の汗を拭い、再び作業へと戻っていった。 「於勝(おかつ)! こっちだ」 「若、勝手に先に行かないで下さいとあれほど……と言うか、俺もう『勝丸(かつまる)』じゃなくて、元服して」 「そうだな、恒昌(つねまさ)」  目の前までやってきた少年に視線を合わせることなく、直鷹は馬の鼻先を撫ぜた。フン、と甘えたように鼻先をすり寄せてくる馬に、「ははっ」と声を出して笑う。少年の瞳の力強さとは裏腹に、どこまでもやわらかい笑みが宙へと溶けた。  この主はその内、馬と結婚するんじゃないか、とでも言いたげな乳兄弟(ちきょうだい)たる恒昌の視線を視界の外から僅かに感じるが、とりあえず気づかなかった事にしておく。  確かに自分は、元服したのは二年も前だというのに、未だに嫁を娶っていない身の上である。例えば恒昌のように国人衆の中でもさほど豊かでない武家の出ならば、元服と嫁取りが同時ではないこともよくある話だが、自分はこの鳴海国の守護代を務める家柄に連なる血筋だ。  血筋を残すという意味でも、政略的な意味合いでも、元服して二年も経つのに嫁を迎えないままでいるというのは、不自然だった。もっとも、彼の兄が隣国の姫君と婚約したまま未だ輿入れが済んでいないため、三男である自分が後回しにされているという事情もあるにはあるのだが。 「恒昌、お前いまでも俺の本命が馬って話、信じてたりすんの?」 「信じてるっていうか……事実そうじゃないですか」  まぁ下手な女と語らう時間よりも、愛馬と共に青空の下を駆けた方が楽しいというのは本音なのだが。 「いやでも流石にそれで縁談断ったりはしてないからな? 馬とは結婚できないし?」 「じゃあ、つまるところ出来るならしたいってことですか」 「馬は流石に俺の子産んでくれないからなぁ」  聞く人が聞けば卒倒しそうな話題の応酬に、直鷹の忍び笑いはどんどん声が大きくなっていき、反面恒昌の視線の温度は低くなる。恒昌はなにかいいたげな視線のまま、けれどそれ以上は口を開くことなくひらりと馬から飛び降りると、ザリッという音を草履の下に敷いた。 「若、月雲雀(つきひばり)は?」 「与兵衛(よへえ)のところに置いてある。多分、(ひさ)が水でもくれんでしょ」  与兵衛というのはこの近隣にある駒木村にある商家だ。久というのはその妻で、昔から直鷹と親しくしており、彼が馬で外出した際の休憩所代わりのような場所である。 「それより」  視線をふ、と田畑へと向けながら、直鷹は言葉を紡ぐ。  声音は、常よりも低く宙に滲んだ。 「田植えしてんね」 「は? 田植え……?」  恒昌が語尾を上げるのとほぼ同時に、直鷹は農夫を視界からするりと外し、辺りへとその黒曜石の瞳を流す。まるで先ほどの言の葉そのものがなかったかのような断ち切り方に、この話題において視線で語るなと乳兄弟の少年へと言外に伝える。  北方を山に、東西に海を望む豊かな平野が広がる鳴海国。気温は温順であり、夏と冬の寒暖差も作物が育つに適した環境。米どころとしても知られた地域ではあるが、例年ならば田植えの時期には今少し早い。 「あの辺は、本家の所領じゃないっけ」  軽く首筋に手を当てながら、誰に言うわけでもないかのように、直鷹はポツリと言の葉を地面に落とした。 「では……」 「最悪、父上に知らせなきゃならんけど……そうなると、城を抜け出してここまで遠駆けしたことがまたバレるなぁ」  重くなりそうな話題に恒昌の眉間が皺を刻むのを捉え、直鷹は先ほどまでの低い声がなかったかのように年相応の表情でククッと肩を震わせ笑う。乳兄弟たる少年は長年の付き合いからかその意味を即座に察したのか、緊張していた目元をだらりと脱力させながらひとつわざとらしいため息を吐いた。 「ってことは、殿からそれを注意されたご家老に、俺は叱られるわけですか……」 「乳兄弟だろ、庇えよ?」  直鷹は少しも悪びれずに唇の端を吊り上げ笑うと、桜の枝から上品な織りの真白い小袖を取ると、ふわりと羽織る。小袖は肩と裾に、剃刀のような形の花弁を持つ花が刺繍されていた。  一見禍々しさすら感じるその柄は、何故か少年の風貌を一層艶やかにする。  ここ数年、季節に合わずともその小袖を愛用している理由を自分自身持て余しており、幾度となく目の前の少年に訊ねられたが、未だに答えを彼へと渡してはいない。今日もまたそんな事を考えていそうな視線を向けながらも、いい加減訊ねるのに飽きたのか、そのまま恒昌は自身の愛馬を直鷹へと手渡してきた。 「じゃあ、とりあえず駒木の与兵衛のとこ行ってからだな」  恒昌の馬に飛び乗り、馬首を件の方向へと向けると、すぅ、と頬を爽やかな風が駆けていく。  小袖の裾の赤と、直鷹の髪を結っている色とりどりの結紐が、いまだ田園風景には早い季節の風にふわりと揺れた。
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