第一章 紅い華

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 カラ、という音が突然鼓膜に響き、沈殿していた意識がふと浮上した。  部屋へと無遠慮に差し込む橙色の光に、瞼裏(まなうら)が紅に染まる。阿久里(あぐり)は思わず眉根を寄せると、ズキリと鈍い痛みがこめかみから首の付け根へと走った。 (痛……っていうか、ここ?)  未だぼんやりとした意識の中、記憶の欠片を手繰り寄せる。  確か夜が明けきらぬうちに乳母子(めのとご)である侍女に頼み、(たぶさ)を結い上げ、用意された小袖に袴という出で立ちに着替え済ませた。そして、誰にも見つからないよういつも通り自身の屋敷近くにある搦手門(からめてもん)(裏門)近くにある抜け穴よりこっそりと城を抜け出した。  本来、その由来を考えれば裏門といえども警護を配置されているはずだが、どこまでも世の中への危機感が薄く、京から離れたこの地においても公家屋敷を想定している父親には、そこへ警備を割くという考えはないらしい。 (まぁもしかしたら、人目に隠したい私の屋敷近くということもあって、人を置けないのかもしれないけれど)  ともあれ、そのおかげで阿久里としては時折城下へと下りることが出来ているので、ある意味父には感謝しなければならないのかもしれない。  何度か経験があるとはいえ、搦手門から出たあとの山歩きはそれなりに過酷である。更には此度はただの物見遊山というわけでもなく、それなりに目的を持ってのお忍びだ。  知らず足取りは自身の限界を越えていたのかもしれない。  ひぃふぅと荒い息を弾ませながら、城下へと行ったが――。 (そうだ……)  ようやく辿り着いた城下は、既に市が出ており人の通りが激しく、その隙間を縫うように歩くことで酔いにも似た気持ち悪さが胸を衝いた。さらに、普段長い髪を高く結い上げられることがないせいか、長い髻はとても重く、頭が振り回されるような感覚に陥り――。 (田島港(たじまみなと)に着いて、そのあと……) 「気付いたならまずは起きようか」  徐々に回転し始めた思考が、伏せられた瞼を開けようと判断する直前、どこか嘲笑が含まれた若い男の声音に、高い位置で結われた髻を大きく揺らしながら阿久里の体が跳ね上がる。  髪の重みで響くような頭痛は相変わらず続いていたが、今はそれを気にしている場合ではない。 「……っ」  しかし突然開かれた世界の眩しさに、少女は思わず瞳を細めた。他人とは比べられないので比較対象があるわけではないが、阿久里の琥珀色の眼は、陽の光にかなり弱い。しばらく目頭を指で押さえ、指越しに目を光に馴染ませた。  そして部屋の明るさに目が慣れた頃、ゆっくりと視線を声のかかった方へ滑らせると、夕焼けを背負ったひとりの少年が立っている姿を飛び込んでくる。 「おっ。漸くお目覚め?」  阿久里の瞳の色に気付いたのか、一瞬目を見張る仕草をしたものの、それ以上特に気にすることもなく片頬で笑みを作りながら、障子戸を開けたときと同様の無遠慮な足取りで板間へと歩を進める。  相手の素性も自分の状況も何ひとつわからない状況下で、阿久里の眉は自然険しくなり、手のひらが丸まった。 (……思い出して。思い出して。火事があったと聞いて――)  父親が屋敷から去ったのち、男装束を用意してもらいそのまま城を出た。  父親の言っていた火事の原因が、まさか本当に狐火だの曼珠沙華だのにあるとも思わなかったが、あの臆病だけが人より優れた唯一のものと言っても過言ではない老人が、今回の火事騒ぎを上手く収めることが出来るとも思えなかった。  父親が一国を治める器量のない暗君であるのならば、それはいずれ能力ある他の誰かに取って代わられるのも仕方がないと思う。  都の荒廃が地方へと飛び火して早二十年。  隣国などでは、商家出身の男が守護大名を追放し、自らが主として君臨したと聞く。この国とて、父・榊鷹郷よりも家臣である国人衆の方が力を付けてきていると聞く。 (でも)  まだ早い。 (お父さまが主の器ではないとはわかっているけれど)  でも、まだ「それ」には早い。  そう思うからこそ、阿久里は榊の名をこれ以上落とさないよう、最低限、守護大名としての地位を護れるよう、何が起こっているのかを調べるために、城を抜け出した。 (……でも、自分の体力のなさは考慮してなかったわ……)  普段からお忍びで何度か城を脱出してはいるものの、城下の外れにある港までは流石に足を運んだことはない。そもそもその時は男装もしていないので、髻を結い上げたが故の頭痛など完全に考慮外だ。 (城下ではなく港までいくのなら男装した方が色々な意味で動きやすいと思ったけれど……完全に失敗だったわ)  胸中で深く溜息を吐きながら、阿久里は褥の隣に腰を下ろそうとする少年を見遣る。年の頃は自分と大差ないように見えた。  派手な色味を好み、日に焼けた肌に乱暴に纏められた茶筅、そして前髪が影を落とす様はやや粗野だが、彼が身につける全てのものの質は悪くない。最高級、とはいわないまでも、中以上の品である。  もっとも、かなり汚れて草臥(くたび)れた印象が拭えないが、それでも彼がそれなりの身分の武家の子息と伺い知れた。 「あんた、港――田島港近くで生き倒れてたって話だけど、覚えてる?」  チャリ、と鍔鳴りの音をたてながら、少年は朱色の結紐で装飾された黒塗りの鞘に収まった刀を右手近くへと置く。その音に今更ながら自分が佩いていた刀がいま手元にないことを阿久里は思い出した。 (匕首(ひしゅ)は……懐にあるはず)  小袖の合わせを探ると、布越しに固いものが指先に触れる。恐らく刀は枕元に置かれているのだろう。枕元に背を向け座している状態では確認すら出来ないが、一度この派手な(なり)の少年から目を離してでも手の届く範囲に刀を戻した方がいいのか。  阿久里の目が何かを追って泳ぐ様に気付いた少年は、片頬に刻まれた笑みにやや苦笑めいたものを色付ける。 「別にあんたを斬りにきたわけじゃないよ。ただ、でもまぁ……武家の出ならもう少し危機感持った方がいいと思うけどね」  そう言うと左手を彼女の枕元へと伸ばした。やや硬質な前髪が額で揺れ、次の瞬間鍔鳴りの音が夕日が差し込む部屋へと小さく響く。 「ほら」  阿久里は、目の前に出された白木拵えの鞘をぼんやりと見つめた。そしてそのまま両の手のひらで刀を受けると、ずしりとした負荷が手首に加わる。  常日頃から腰に帯び、それを使って鍛錬することが当たり前になっている男ならば、それほど重さを感じないのかもしれない。それどころか、見知らぬ場所で目覚めた直後に手元に引き寄せるものなのだろう。  いかに「毛色が違う」とは言え、自分が女の身の上であるのだと今更ながら感じた。 (お父さまのことを、笑えないわね)  目の前の少年に気付かれない程度の苦笑を鼻先に集めながら、阿久里は肩口から胸元へと落ちた栗色の髪を乱暴にさっと払う。絹糸のようなそれが、夕焼けの陽の光を浴びて金糸のように光を弾いた。  彼は一瞬眩しそうに目を細め、そして唇へと刻んだ笑みを深くする。どこか意地悪そうなその表情は、陽の光を背に負っているせいか幸か不幸か阿久里には視認出来なかった。 「で、だ」  橙に染まった部屋に、低い声が響く。反射的に面を上げた少女の(おとがい)を、やや乱暴な手付きで、無骨な指が捉えた。 「……っ!?」 「供も付けずに女が男装してまで外出する理由ってのを、少し教えてくれない?」  息が触れ合うほど近くで囁かれ、阿久里はそのまま文字通り固まる。長い睫毛が、錆び付いたかのように少年の黒曜石に固定された。  黒い布で覆われた瞳すら暴かれそうなほどの強い視線に、阿久里の瞳は現状を忘れその光に視線を縫い付けられる。阿久里の驚きの表情に満足したかのように、少年の唇が再び薄い弧を刷いた。  張り詰めた空気が、止まった彼女の時間を紡ぎ出す。阿久里は縫い付けられたままの視線を、無理やり裁ち切った。 (バレた?)  少女の視線が、細い指が握る白木拵えの鞘へと自然に落とされた。白い褥の上に置かれた鞘は、同じ色をしていながら質感でそれとは違うものとすぐに認識出来る。恐らく、少年が自分を女だと見抜いたのも、同じようなものだろう。  阿久里が再度、少年へと睫毛を向けと、長い睫毛の奧の覚悟を感じたのか、彼は唇に刷いていた笑みを鼻先へと動かし、捉えていた彼女の頤を軽く弾いた。 「そう睨むなって。俺と年齢差はなさそうだけど……例えば色小姓なんかでもこの年齢になればみんな体も変わってくるし。あんたを男と思うのには無理があるなー、正味な話」 「…………そう。結構うまく化けたつもりだったのだけれど」  溜息まじりの声音が、橙色の部屋に淡く溶ける。  刹那。  絹擦れの音と共に、白木拵えの鞘を握っていた細い指が捕らわれた。 **********  不意に、少年の脳裏に二年前の記憶が蘇る。  水晶のような、透明な声音。  透明で清らかな声音なのに、どこか渋みにも似たものを言の葉に感じてしまう。  それが、あの城で「出会った」声の主への印象。 (父上の話では、恐らく六女――の、疎まれている姫)  あとあと聞いた話だが、()の城の主・鳴海国の守護大名である榊鷹郷には男子はなく、生まれた子供は全て(むすめ)だったそうだ。  幾度も妻を娶り――恐らく、貴人の倣いによって側室・妾も多く抱えていただろうに、それでもよほど星の巡りが悪いのか、生まれた子は全て跡取りにはなれない女児ばかり。それでも名門の名によって、五人の(むすめ)たちはみな、どこぞに嫁いだそうだ。  けれど、ただひとり、生まれた時よりその見場が悪く、父に疎まれ、人目から避けられるように生きている姫が城にいるという。 (それが)  あの、声の主。  透明な声音で紡がれる、微妙の毒を含んだ言の葉。  あの時の肌が粟立つような感覚。  あの日の声音は、未だ強烈に自分の心に焼き付き離れない。 ********** 「な、に……?」  突然痛みにも似た感覚が手の甲を襲い、阿久里は視線を思わず褥へと落とす。褥の上で鞘を握る自身の指に食らいつくかのように無骨な指が重ねられる様に、少女は思わず目を見開いた。  先程まで談笑とはいかずとも普通に会話が成立していただけに、突然の少年の行動は、阿久里の琥珀色の瞳を恐怖の色に滲ませる。 「あ、いや……悪い」  少女の表情に気付いたのか、少年は重ねた指を離した。そして浮いていた腰をバツが悪そうに板間へと押し戻し、乱暴に胡座をかく。  ふわりと肩に羽織った小袖の裾が舞い、赤い花が揺れた。同時に彼の右手近くにあった刀が、カチリと鍔鳴りの音を立て、阿久里の睫毛が一瞬そちらへと落とされる。 「あんた、榊の姫だろ?」 「…………何でわかったのですか、と聞いても?」 「あれ、否定しないの」  出自を問う彼の声に、落とした睫毛を再び向けながら小首を傾げると、少年はハっと鼻先に笑みを集め弾けさせた。どうも軽々しい外連味じみた表情や動作は、彼の癖のようなものらしい。 「二年前――、元服のあれこれで花咲城に行ったことがある。そん時、あんたの声を聞いた。さっきは悪かったよ。知ってた声だったから、思わず」  知ってた声だからなんなのか、と疑問に思いつつも阿久里は一応納得した。 「二年前……。よく、覚えていますね。今朝の喚き散らす父親の声すら思い出したくない人間もいるというのに」 「………覚える覚えないってのと、思い出したくないってのはなんか違うと思うけど」  橙の光を逆光に受けているためやや表情はわかりにくいが、雰囲気と口調的にどうやら軽く苦笑したらしい武家の少年を、阿久里はぼんやりと見つめた。  今まで同年代の人間との接触が乳母子以外なく、さらにお忍びで城を抜け出しそれを保護された身としては、こういう場合どういう反応をするのが正しいのかわからない。  わからないが、先程から目の前の少年に言われっぱなしな状況は、なんとなく癪であるというのが、正直な感想だ。 「それで、私が榊の(むすめ)と知るあなた様はどこのどなたでしょうか?」  琥珀色の瞳をまっすぐに少年の黒曜石へと向ける。淡い色は濃い色よりも主張の輪郭をぼやけさせるものだが、それでも彼女が投げる視線は、気の強さばかりが滲み出ていた。  少年は一瞬鼻白んだ表情を浮かべ、阿久里の強気な発言に思わずといった体で苦笑する。 「さてね。もし敵対する家柄だったら、どうすんの?」 「それこそ、わかりかねます。私には、人質の価値もあまりないと思いますし……」 「榊さまには男児はいないと聞くし、だとしたらあんたは婿をとるために必要な手駒のひとつだろ?」 「あら。随分、榊の家にお詳しいのですね。――――水尾さま」 「!」  阿久里は、珊瑚色の唇を薄く伸ばす。少年の一瞬で変わった顔色に、胸の奥に溜まっていた不満のモヤが一瞬で晴れ渡った。 「いつ、気付いた?」  先程とは打って変わって低く問う声。  唇にはまだ弧が描かれているものの、右の指が黒塗りの鞘を探り当て黒曜石がすっと細められた。先程までの戯言めいた空気はかき消され、一瞬で尖ったそれへと変わる。 「最初は、お上手に隠されてはいましたが……先程、鞘にある家紋が見えました。鳴海国で三つ引と言えば、(うち)の守護代を務めている水尾家のもの。カマをかけてみましたが、当たりましたか」 「気づいていながら知らんぷり、か。イイ性格してんなー」 「どういたしまして。それはそうと……」  少年の解かれない緊張を気にもせず、笑みを浮かべたまま阿久里はそう言うと、彼の肩にかけられた小袖の裾を手に取った。少年の唇が何かを紡ぐ前に、刺繍された赤い花を確認する。  剃刀のような禍々しい形状の花弁を持つ花。  (ほむら)をその身に宿す、花。   ――曼珠沙華を見た者がいるそうだ。  今朝の、父親の声が脳裏で蘇る。 「城下の火事について、何かご存知ですか?」 「…………そう、だねぇ」  僅かな沈黙のあと、少年の片頬が持ち上がり唇の端が鋭角を描いた。 「逢瀬の約束が、謎かけってのはどう?」 「……なぞ、かけ? 逢瀬、って……?」  少女の眉が疑問に皺を刻み、彼を見つめる琥珀の瞳が疑問符を宿す。 「逢瀬は、火付けの晩に――また」  姫君――。  長い睫毛を向けた先に、逆光の中何故かはっきりと笑う少年の唇の動きが見えた。
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