第二章 月影の、その夜に

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 ひんやりとした十畳ほどの板間に敷かれた褥に前傾姿勢で胡座をかきながら、直鷹(なおたか)は目の前に出された湯呑に手を伸ばす。そして薄めに入れられた茶をズズ、という音ののちに嚥下した。  お世辞にも行儀がいいとは言えない姿に、彼の上座に座る四十をいくつか過ぎた風貌の男は眉を顰める。直鷹によく似たやや硬質の黒髪に、少し白いものが目立ち始めており、目尻は年のせいかやや落ちているものの、眼光は肉食の獣を思わせるかのように鋭かった。  水尾秀直(みずおひでなお)。  直鷹の父親であり、主。  そしてこの鳴海国(なるみのくに)の守護代を務める水尾本家の奉行(ぶぎょう)(文官)の一人である。  直鷹が寒河江城に到着してからさらに半刻後――。浪乃に通された部屋には、三人の男が他人行儀な距離を保ちつつ、座していた。 「直鷹」  名を呼ばれ、直鷹は湯呑から前方へと瞳を移した。声音のままに鋭い視線を投げかけられるのに、彼は唇の端を持ち上げ湯呑を板間へと置く。  コツ、と音が響いた。 「別に母上に言われて、新しい側女の調査に来たわけじゃないですよ?」 「そんなことはわかっている。そこまでお前もアレも暇ではあるまい。故に、何用だ? と問うている」 「本家が、近々どこぞに攻め入るつもりらしい」  先程までの軽口とどこも変わらぬ口調で、唇に笑みを刷いたまま直鷹は言の葉を紡ぐ。まるで明日の天気を話すような気軽さに、秀直は一瞬惚けたような顔になった。 「な、ん……!?」 「どこでそれを……!?」  ほぼ同時に発せられる、二つの声音。  直鷹は主たる父親から、視線を横にずらす。睫毛の先には、三十路にはいくつか足りないほどの年の男。常ならば人を小馬鹿にした(おもて)を向けてきた兄の青ざめた顔に、直鷹は僅かに小首を傾げた。  長兄・直重(なおしげ)は、父親が十代のころに戯れに通っていた女に孕ませた子供で、直鷹よりも十も年嵩だった。その女は奧屋敷に迎えられることもなく懐妊したため、正式に水尾秀直の長男という扱いはされず「庶子」として扱われていた。  母親が違い、さらに年も離れすぎていると、どうしても親しくなるキッカケというのは難しい。自分が物心ついた頃には既に元服をしており、共に食事をした記憶もなく、母親を同じくする次兄との距離を考えるとやはり遠い存在だった。 「兄上」 「どういうことだ、説明しろ。鬼千代(おにちよ)」 「直鷹ですよ、兄上」  幼名を呼ぶ兄へ軽く訂正を入れながら、直鷹は再び三日月を唇に貼り付ける。そして再び視線を父親へと戻した。視界の端で直重の瞳が、まるで武者鎧でも纏ったかのように重々しく上座へと滑る。  直鷹は既に冷えつつある湯呑に手を伸ばし、口内を湿らした。その動作は春の桜が散るかの如く緩慢としており、その外連味じみた様子に秀直は眉の間に皺を刻みながら「直鷹」と鋭く呼んだ。 「十日かそこら前でしょうか。俺の領地の乙名(おとな)(村長)から、どうもご本家所領地の様子がおかしいという報告がありまして。先日、恒昌(つねまさ)を連れて見に行ったんですが、報告の通りでした。すでに、田植えの準備をしています」  実際のところそんな報告は受けてはおらず、恒昌との遠駆けで偶然見つけた情報なのだが、馬鹿正直にそれを主たる父親へ告げる必要はない。余計な説教を受けている暇もなければ、それだけの精神的苦痛もごめんである。 「つまり、田植え時期に合せどこぞを攻めるということか?」  どうやらうまく誤魔化せたのか、秀直は一度まばたきをすると身を乗り出してきた。  足軽というのは、基本的に領地の農夫を中心とした集団である。あちらも合戦で手柄を立てればその分褒美を貰えるので、基本的には合戦参加には意欲的ではあるが、あくまでも本業は農業のため、集合が悪い田植え時期や収穫時期などはなかなか合戦を起こせないというのが武将たちの悩みの種だ。 「みたいですね。で、その帰りに駒木の与兵衛のところに寄ってきたんですが――与兵衛も、ご本家からの武具の受注量がこの半年程で大分増えてきていると言っていました」 「ん? ちょっと待て。先程自分で確認してきたと言ったな? お前まさかとは思うが、また遠駆けに単騎で出ているのではあるまいな?」  どうやら誤魔化せなかったらしい。 「先日は恒昌、連れてましたよ」 「供が悪童(わっぱ)一人など、単騎と変わらんではないか!」 「まー、それは今置いておくとして。ご本家の戦相手がどこか、ということです」  直鷹は現状としては見当違いの方向へと激し始めた父親を軽い口調でいなしながら、直鷹は、額にかかる前髪を軽く掻き上げる。 「水尾本家は、うちの主家ってことになっていますけど、うちと一戦構えるような力はもうない。そうですよね、『殿』?」  外連味たっぷり込めた、どこか飄々としておりつかみどころがない、そんな軽い声音で直鷹は父親へと言の葉を向けた。 「うむ……この数年で、力を大分殺いでやったからな」  (さかき)家の家老職を務める水尾家は、鳴海国西部を領地に持つ守護代であり直鷹親子からは本家にあたる。しかし彼らの力の及ばない地域への秀直の勢力拡大により、今は形ばかりの主従関係を保ちつつ権力はほぼ逆転していた。 「隣の遠賀国(とおがのくに)に援軍を仰いだ可能性も考えましたが、二郎兄上がそっちとの関係はうまいことやられているので、それもないかな、と。まぁ、姫君はなかなか嫁してきませんが」 「それも、時期を見てのことだろうよ」  直鷹の皮肉が込められた言葉を軽く受け流すと、秀直は骨ばった指を口元へやり、瞳を宙にさ迷わせた。少年が内心苦笑しながら、肩へとやった指をそのままに逆側へと首を曲げると小枝を踏んだ時のような小気味よい音と共に、茶筅を結う紐が空に揺れる。  少年が首を曲げたまま滑らせた視線の先には、文字通り青ざめ固まったままの表情を隠すことも出来ない長兄の姿があった。 (そういえば)  何故、この寒河江城にいま(・・)いるのか――。  そして先程の――。 「水尾分家(うち)へ一戦交える気がないというなら、答えはひとつだろうな……」  ひんやりとした部屋に、不意に秀直の呟きが落とされる。直鷹は兄へと向けていた意識を上座へ滑らせ、そして無意識に指へと力を込めた。喉の奥に、何かが貼り付いたような感覚に陥る。 「……榊家への、謀叛……ですかね」  鼻先に薄っぺらい笑いを集め、すぅっと黒曜石を細めた。どこか芝居掛かった、彼のよくする表情のひとつだ。しかし、「榊」の言の葉で不意に思い出すのは、榊家に連なる男装の姫君の存在。  今は自分がどんな顔で笑っているのか――笑えているのか、直鷹にはわからなかった。 「それ以外ないだろうな。本家以上に力を失って久しい名ばかりの大名家だ。あの榊家への謀叛だけならば、本家の兵だけで囲めば事足りる。足軽の徴兵は、恐らく榊家を制圧したあとに、うちが大義名分を得て挙兵した時の備えだな」  秀直は、そう言うと自身の前へ出されていた湯呑へと手を伸ばす。すでに彼の中では結論は出たのだろう、先程までの尖った刃物のような雰囲気は薄れ、今は新たな事実を前に、身の内にある燻った火をどう燃やそうかと思案しているかに見えた。 (あ。火といえば……)  花咲城の火事の件は報告していなかったな、と直鷹は独りごちる。  まだ本家謀叛の話題と、火事の一件が繋がっていないために報告は躊躇われたと言えば聞こえはいいが、彼はすでに昨日火事の一件を嗅ぎ回っている榊の姫と出会っている。どう考えても、何かしらの繋がりはありそうなものだ。  けれど、直鷹は何故か父親にそれをいま報告する気にはなれなかった。  息子の胸中など思いもせず、秀直が部屋の格子へと視線を移した。陽は既に西の空に傾きかけており、彼は息子たちを見ることなく乱暴に立ち上がる。 「家老、主だった将を急ぎ集めよ。軍議を行う」 「はっ」   二つの声が、主たる父親の下知に短く答えた。
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