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無表情の二人は壇上から、最後にもう一度だけ客席を見渡した。動く者がいないことを注意深く確認して、ホールを後にする。
建物を出ると、辺りは深い霧に覆われていた。
ピエールとアンナは、わざと恋人同士のように肩を寄せ合いセーヌ川を眺めているふりをしていたが、通行人がいないことを確認すると、アレクサンドル3世橋の下に待たせていた小舟に素早く飛び乗った。
ピエールは血塗られたフランスの野蛮な歴史を嫌い、優秀なドイツ民族である自分がフランス人であることを拒絶した。自然な流れでナチズムに傾倒し、残党を探し回ってついに見つけ出し、入党した。ある特定の人種を社会から排除するために。野蛮人・不要人、それがピエールが排除すべきと考える劣性人種の二本柱だ。
「パリは掃除完了だ」
ピエールはそう呟くと、次の行き先をアンナに尋ねた。
「一旦国外へ出るわ」
アンナは白いもやの中で居住まいを正した。彼女もまた、同じ信念のもとに集結した同志だ。理想の社会、ユートピアを創るためなら殺人をもいとわない。彼女らは優良人種であるという誇りからか、憎むべき野蛮人と自分たちが同じ罪を犯していることに気付きもしない。
戦争は愚かだと誰もが知りながら、結局、今も昔も人々は逆らえずにその渦の中に巻き込まれてゆくのだ。
深い霧の中を、一隻の小舟が下ってゆく。
了
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