雪を踏む

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取り敢えず自分の体を見下ろす。薄いグレイのパジャマを着ている。拘束されている様子はない。監視もない。自信はないけれど誘拐ではない。記憶はなくても自分が緊張していないのはわかる。どこか馴染んだベッドを手のひらで撫でる。ぐっすりと眠って体が軽い。さすがに無理矢理連れてこられて熟睡するほど図太くはない。 手掛かりを求めて立ち上がるとドアの真ん中に張り紙があるのに気づいた。スケッチブックを半分に切ったサイズで、 『物忘れをしやすい佐江波賢くんへ。悪いことは言わないから指示通り動きなさい。とりあえずドアを開けること』 と書かれていた。油性マジックを使った文字は佐江波の筆跡によく似ていた。自分が書いたのだろう。しかしやはり記憶はなかった。仕方がないので過去の自分の助言に従ってドアを開けた。廊下に出る。すると今度は正面の壁に同じような張り紙があって、『右に進んで階段を下りる。下りたら左の壁を見ること』と書いてあった。言われた通りに廊下を歩いて階段を下りる。スリッパを忘れてきたけれど足元は冷たくなかった。もしかすると全館に床暖房が完備されているのかもしれない。贅沢なことだと半ば呆れる。 階段下左の壁には『この角を曲がって突き当たりのドアを開けなさい』と指示があった。そう言えばこんな童話があったなと思い出す。不思議の国のアリスだっただろうか。何だか面白くなってきた、と佐江波は笑う。ぐずぐずと思い悩むことを好まない質なのだ。それに突飛なことは嫌いではない。とことんまで付き合ってやると木目の美しい突き当たりのドアを押し開けた。 視線の先に鏡があった。少し笑った、寝起きの自分が写っている。神経質そうな女顔は相変わらず。黒い髪はやはり縺れて無精に伸びていた。絵を描くことが第一優先で他が疎かになりやすい。実家にいた頃は母がよく注意をしてくれたが、いまはそんな人がいない。だから身だしなみのことは後回しになりやすかった。 鏡には小さな黄色い付箋が貼ってあった。近づいて読む。右斜め下に向かう矢印が引かれて一言『読め』とだけ書かれていた。矢印を辿って視線を落とす。 畳まれた新しいタオルの上にA4サイズのキャンパスノートが乗っている。傷んだ表紙に『毎日朝一に必読』とある。なんだか受験生の参考書のキャッチフレーズみたいだなと佐江波は思った。縦半分に折り癖のあるノートを開いて一ページ目を読む。
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